創造性の原理・全ての源 ~裏アカシックレコードの謎~
創造性を掴むことは、
自身の純粋性を開花させることだよ。
この意味が分かるかな?
皆は、
創造することって、
どう考えてるのかな?
少し、自身でも考えてみてね。
・
・
・
何か浮かんで来たかな?
実際に考えてみて、
創造がなんなのか、
分かったかな?
創造ってね、
「閃き✨」だよ。
その閃きをどうやって生むのか?
知ってるかな?
閃きってね、
自然体から生まれるんだよ。
だからね、
自然体に還ることが、
創造の本質なんだよ。
何事も難しく考えるから、
余計に分からなくなるんだよ。
ちなみにこれは、
創造からすれば、
前座の話しだよ。
創造の本質は、
自然体の先にあるものだからね。
そういうこと、知ってたかな?
きっと、多くの人は、
分からないと思うんだよね。
だからね、
創造のことを、
頭の解釈を持って、
深掘りして行くね。
基本から行くね。
創造ってね、
頭でやることではないんだよ。
何故だか分かる?
創造ってね、頭でやると、
枠が自然と生まれてしまうからだよ。
例を上げるとね、
何かをやろうとする時って、
どうしようかな~、て悩むよね。
あれってね、
無自覚に自身で枠を作っている行為、
そのものなんだよ。
漫画の吹き出し部分が枠だと考えると、
なんとなく理解できるかな?
あのモクモクが枠そのものだよ。
モクモクとは、言い換えるなら、
エゴそのものだよ。
エゴと創造は全然違うよ。
ちなみに、
一般的な創造は、
エゴに属しているものになるよ。
エゴは、独自性、
創造は、純粋性だよ。
この意味が分からないと、
先に進めないよ。
独自性は、個性(才能)から生まれ、
純粋性は、積み重ねから生まれるものだよ。
言い換えるのから、
独自性(力業)は、もともとあるもの。
純粋性(神業)は、磨くことで光るものだよ。
分かりやすく言うのなら、
力業は、創造性の二番煎じで、
神業は、創造性の全てだよ。
角度を変えて言うと、
独自性は、下位交換、
純粋性は、上位交換ってことだよ。
そしてね、
もともとあるもの全てが、枠そのものだよ。
純粋性とは、枠を壊すものだよ。
下位のものは、上位に昇華してこそ、
創造力が高まるんだよ。
限界を越えるのは、常に、
上位のものだよ。
世界の理解と繋がるものも、上位のものだよ。
だからね、
分かりやすく言うのなら、
創造性には、
二種類あるってことなんだよ。
この辺りを勘違いしないでね。
自身の枠の中の創造性とは、
桁違いに違うのが、
純粋性から生まれる、創造性だからね。
エゴ(独自性)から生まれる創造性とは、
あくまで個人のことで、
その個人のことを、枠の中の創造性と言って、
正直な所、
枠の中のものは、全て、
実用性が浅いものになるよ。
何故なら、
個人レベルのことが、独自性の限界で、
全体レベルのことが、純粋性の限界突破だからだよ。
分かりやすく言うと、
独自性は、表面的、
純粋性は、深層的ってことだよ。
だからね、
何事も、枠を壊すことが大切で、
枠を壊す為に、何ができるのか?
それが、重要になるんだよ。
でもね、
実際に、
その枠(エゴ)の外し方が分からないよね。
何故なら、
分かってもできないことが、
エゴの中にはあって、
その克服が困難だからだよ。
でもそれが、
本当の創造の力を妨げてるんだよ。
だからね、
分かってもできないことの中にこそ、
本当の事実が隠れてるんだよ。
なので、
分かってもできないことを知ることが、
枠そのものを外すってことだよ。
自然体に還ることは、
分かってもできないことと向き合う、
きっかけでもあるんだよ。
そしてね、
枠の外し方ってね、
何かを得ることじゃないんだよ。
何故だか分かるかな?
外すってね、
無くすことだよね。
無くすことってね、
得ることじゃないよね。
てなるとね、
捨てることだよね。
もう分かったかな?
創造力を得ることは、
今あるものを捨てることなんだよ。
今あるものを捨てるからこそ、
創造力って高まるんだよ。
空間に余裕を作ることが、
創造の基盤を作るってことだよ。
そうなるとね、
1つの問題が浮かび上がるんだよ。
それがね、
そもそも捨てるほどのものを、
そもそも持っているのか?
ってことだよ。
しかもそれを、
捨てられるのか?ってことだよ。
でもね、
捨てるものがあるからこそ、
創造力は高まるんだよ。
全ては、反比例してるんだよ。
反比例って、理屈じゃないってことなんだよ。
纏めるとね、
捨てるものがないと、
何も始まらない、
ってことなんだよ。
陰陽の仕組みって、そういうものなんだよ。
闇と光の統合って、そういうことなんだよ。
理不尽極まりないことが、
創造であり、真理なんだよ。
だからね、
その捨てるものが最も重要で、
自身に取って、
最も価値があるものを捨てることが、
最も価値のある創造を生むってことなんだよ。
分かりやすく言うのなら、
デカイものを捨てれば、
デカイものが返ってくる。
ってことなんだよ。
でもそれには、
時間と覚悟と度量と容量と忍耐が必要になる。
まあ並みではないってことだよ。
一歩間違えると、
死がそこにあるってことだよ。
裏を返せばね、
価値ある積み重ねがあるほどに、
その価値は、
創造の価値に変換されるってことだよ。
だからね、
正しいとこが分からないと、
創造そのものの価値も低くなるってことだよ。
極め付けは、
自身で深め見出だせてこそ、
創造は真価を発揮するってことなんだよ。
だからね、
厳しければ、厳しいほどに、
創造性のレベルは高くて、
甘ければ、甘いほどに、
創造性のレベルは低くなる、
ってことなんだよ。
この世の仕組みって本当は、
単純なんだよ。
けど、
怖いから、それができないんだよ。
勇気がないから、何もできないんだよ。
逃げてることに無自覚過ぎるから、
何も分からないんだよ。
だからね、
創造はできれば良いって言うものでも、
ないってことなんだよ。
中身が最も重要だってことなんだよ。
だからね、
甘い創造性ほど、
最終的には、
ていたらくを生むだけなんだよ。
全ては、
自身で掴んでこその、
創造性の確立なんだよ。
だからね、
人によっては、
これが物凄く難しくなるんだよ。
間違った積み重ねに価値を感じている人ほど、
創造を勘違いしてる可能性が高いからね。
だからね、
創造力って、自身の中の枠を外せるほどに、
高まるものなんだよ。
でもその創造力が、
現代では、ほとんど活かされてないよ。
何故だか分かる?
今の世界は枠ばかりで、
枠の中でしか生きれない人が、
その大半だからだよ。
枠の中で生きることってね、
そのほとんどが、
自分らしく生きられなくなることだよ。
創造性って、
自分らしく活きるからこそ、
自然と降りてくるものだよ。
自分らしく生きることは、
創造する上では、当たり前のことだよ。
でも、
その当たり前のことすら叶わないのが、
現代だよ。
だからこそ、まずは自身の現状を知り、
見直すことが、
最初の一歩になるんだよ。
それがない創造は、勘違いの創造で、
勘違いの創造は、自己満足の世界の話だよ。
自己満足って、つまらないよ。
自己満足を越えてこそ、価値が高まるんだよ。
だからね、
そういうことが分かった上で、
いらないものを除去していくと、
創造力ってどんどん高まって行くんだよ。
最終的には、
身体と心を1つにすることで、
創造の世界は、
別次元のものになるよ。
その扉を開くことこそが、
本当の創造性を知ることだよ。
ここから下の話は、
何故、
創造力が低下して行ったのか?
と言う内容になっているので、
読みたい方だけ読んでね。
・
・
・
・
では、何故、
創造力が低下したのか?
と言うと、
いらないものを、
学び過ぎたからだよ。
そのいらないものの代表例が、
外の情報や、必要以上の学問だよ。
創造力ってね、
いらないものを精査することで、
養われるもので、
それには、
心が必要であり、伴うものなんだよ。
でもね、
外の情報や学問ってね、
心を後にすることだよ。
この意味が分かるかな?
後のものを先にしないと、
心って養われないんだよ。
後のものを先にできないからこそ、
創造力が養われないんだよ。
全ては、足元が見てえないから、
そうなるんだよ。
だからね、
創造力って、心であり、感覚だよ。
感覚とは、内面の力だよ。
外の情報とは、外面の力だよ。
たからね、
その内面と外面の在り方を見直さないと、
何にも感覚には、
繋がらない、ってことなんだよ。
結果、
創造に繋がらないってことだよ。
だからね、
心より先に情報や学問を取る人は、
創造の在り方を勘違いしてるよ。
創造とは、心でするもので、
情報を操作することじゃないよ。
情報を操作することは、
付け加えることで、
付け加えることで分かることは、
上辺のことだけだよ。
上辺の中には、
創造ってないんだよ。
全ては、心から始まるからこそ、
創造なんだよ。
だからね、
情報を心より先に置くことは、
創造力に蓋をすることだよ。
この意味をちゃんと理解してね。
だからね、
内の感覚から繋がることが、
創造で、
外の情報から繋がることは、
創造ではないよ。
となると、
外の情報って何だと思う?
ビックリしないでね。
外の情報とは、
偽造だよ。
何故なら、
誰でも簡単に真似できるからだよ。
真似できないものこそ、
創造だよ。
だからね、
自身の内から自然と湧き出てこそ、
創造で、
自身の外からもたらされるものは、
創造ではないよ。
全ては、
創造と言う観点から、
捉えられるからこそ認められる、
事実だよ。
だから偽造されたものって、
あくまで、
外の感覚には繋がるけど、
内の感覚には繋がらないんだよ。
その違いは、
理解を頭でするのか?
それとも、
心と身体でするのか?
そういう違いだよ。
より自身に密着するものが、
創造の本質だよ。
外の情報とは、自身のこととは、
あまり関係がないからこそ、
簡単に受け入れられるんだよ。
内の情報とは、自身のことと、
密着し過ぎているからこそ、
理解するのが困難なんだよ。
全ては、
関係性が浅いほどに、
創造の本質は、分からないんだよ。
だからね、外の情報は、
偽造と言って、
偽造は、
模倣で終わるんだよ。
そして、
創造から見れば、模倣は、
罠なんだよ。
自身を見失う、認識困難な罠そのものなんだよ。
その最たるものが、
学問、となるんだよ。
学問=枠
だからだよ。
枠は、活かすものであって、
囚われるものではないよ。
けど、
その枠に囚われているのが、
現代なんだよ。
分かるかな?
分かっても果たして、認められるかな?
ほとんどの人が、これを認められないんだよ。
裏を返せば、見抜けてはいけないからなんだよ。
自身の人生が全て、根本からひっくり返ってしまうからね。
だからね、
一番の罠は、
一番手前にあって、
その罠のことを、学問って言うんだよ。
恐ろしい話だよね~。(笑)
ただ、学問が悪い訳じゃないんだよ。
学問は活かし方が重要で、
その活かし方が間違っていた、
と言うことなんだよ。
どういうことなのか?と言うと、
この世界には、
答えが2つあるんだよ。
1つは、物資的な答え、
もう1つは、物質の根元となる答え。
学問は、物質的な答えだけを得るのに、
適している、ってことだよ。
だからね、
学問だけから捉えると、
答えは1つになるけど、
その大元を辿ると、
もう1つ違う「何か」が見えるってことだよ。
分かりやすく言うのなら、
それが、
「神秘(中身)」
ってことだよ。
そしてね、
この神秘を知るにはね、
学問を活かすことは、
必須事項なんだけど、
学問とはあくまで、
神秘の上辺にあるものなんだよね。
だからね、
上辺だけをいくら血眼になって調べても、
結局は、
上辺のことしか、分からないんだよ。
同質のものは、同質のものしか、
分からないんだよ。
だからね、
上辺と中身は、
そもそもの扱い方が違うってことだよ。
だからね、
中身を知らないと、
本当のことって分からなくて、
その本当のことを知るには、
学問の活かし方を、
逆にしないといけないんだよ。
どういうことなのか?と言うと、
今までの考え方は、
学問を主として扱っていたんだけど、
新しい考え方は、
自身(心)を主として扱うことなんだよ。
それこそが、
創造を主にして、学問を活かす、
ってことなんだよ。
そのことを、逆にする、って言ってるんだよ。
この在り方こそ、
本当の学びの在り方なんだよ。
自身の感覚を先に起き、
学問を後に置くってことだよ。
でもね、
学問を活かせる人ほど、この盲点に気が付けなくて、
受け入れることも、難しいんだよね。
だからね、
学問と自身の区別が付かない人ほど、
難しいものになるかも知れないね。
自身は自身、
学問は学問。
これができることで、
ものの見え方って、180度、
変わるものなんだよ。
そうすることで、
2つの答えは、
1つになるよ。
その先にこそ、
創造の揺らぎがあるんだよ。
だからね、
裏を返せば、創造ってね、
学問と言う、
外側の枠組みの全てを壊す作業、
のことを言うんだよ。
手放しをした時に何かが分かるって、
そういうことなんだよ。
悟りも、そういうとを示しているんだよ。
だからね、
外の枠を壊す作業ってね、
結果的には、
思考に囚われないことを、
指すことなんだよ。
思考に囚われないことってね、
感覚を解き放つことで、
自身に囚われないことが、
大前提なんだよ。
だけどね、
これが凄く難しいから、
ほとんどの人ができないんだよね。
最早、頭で考えることが、
癖になってるんだよね。
そして、
癖を取ることが、最も難しいんだよね。
ある意味、
麻薬みたいなものだからね。
だから余計に、
創造のことが分からなくなるんだよね。
てなると、
自身の囚われを無くすことって、
どうやったらできると思う?
それはね、
全てを手放して、
一つ一つ地道に成長を重ねることだよ。
これはね、
飛び級が不可能なことなんだよ。
何故なら、
飛び級することそのものが、
分からないことを、
自然と作ってしまうからだよ。
そして、
それそのものが、
自身の枠となってしまうからだよ。
分かりやすく言うのなら、
飛び級することは、
自分と他人の隔たりを、
自らの手で作ってしまうことなんだよ。
その隔たりとは、
距離を生むものなんだよ。
距離を生むものとは、
違いになるものなんだよ。
違いになるものとは、枠を生むことなんだよ。
だからね、
違いそのものが、枠になるんだよ。
どういうことだか、分かるかな?
違いを生む、と言うことは、
違いが分からない、と言うことでもあって、
その分からない、と言うことそのものが、
創造力の低下を招く。
ってことなんだよ。
だからね、
創造ってね、
分からないことを減らせてこそのもので、
これができないと、
本末転倒なんだよ。
そう考えるとね、
物事の理解の隙間を埋めることが、
創造力そのものを養う力になることが、
分かるんだよね。
だけどね、
一般的に言われる創造は、
これとは全く違うよね。
どう違うのか?と言うと、
あれはね、
簡単に言うとね、
才能があるからこそ、できてることなんだよ。
どういうことだか分かる?
才能がある、ってことはね、
裏を返せばね、
自身の本当の力ではない、ってことなんだよ。
分かるかな?
本当だとするのなら、
これって凄い、ビックリすることだよね。
だからきっと、
否定する人も多いんじゃないかな?
でもちょっと感情を剥き出しにするのは、
抑えてね。(笑)
ちゃんと説明するからね。
才能ってね、
簡潔に言うとね、
神様から、
与えられたものなんだよ。
生まれた時に、役目を果たす為に、
与えられたもの、ってことだよ。
何が言いたいのか分かるかな?
自然と最初からあるものは、
自らの力で、養っていないからこそ、
自身の力ではない、
ってことなんだよ。
自身の力とは、自身で磨いてこそ、
身に付くものなんだよ。
それが、
自身のできないことを克服することなんだよ。
だからね、
その与えられた才能をいくら磨いた所で、
限界があるんだよ。
才能とは、1つの力で、
本当の才能とは、
皆の力(全ての力)だからだよ。
どういうことだか、分かるかな?
才能とは、個の力で、
本当の才能とは、全の力になるからだよ。
本当の創造の力は、全の力に宿るってことだよ。
どういうことだか、分かるかな?
与えられたものは、偽りの力(破壊の力)となり、
与えられてないものは、本当の力(創造の力)となる。
源は常に、全の中にこそ宿っているんだよ。
これが、
与えられたものと、
与えられてないものの差だよ。
どちらに優劣があると言うよりは、
全てを克服してこそ、
本当の花が咲くってこだよ。
もう少し、才能の話をするとね、
才能ってね、
自然とできるよね。
他人と比べても、
才能がある人の方が、
比較的に早く成長するよね。
あれってね、努力の差ではないんだよ。
才能の差なんだよ。
努力の差とは、
才能が関係ない所で扱うからこそ、
価値があるものなんだよ。
そこを勘違いしたらいけないよ。
だからね、
才能がある人は、自然とできることが多くて、
才能がない人は、自然とできないことが多いんだよ。
人生を振り返って見れば、分かるハズだよ。
人は、千差万別だからね。
だからね、
そこを自身の都合で見てばかりいると、
そういうことって、分からなくなるよ。
だからね、
才能ってそう考えると、
的を得ているようで、得ていないんだよ。
できる人ほど、
できる人の立場でしか、ものが見えないもので、
そのことを、的を外している、って言うんだよ。
だからね、
才能って、裏を返せば、
偽造であり、嘘なんだよ。
嘘だからこそ、上に上がれば上がるほど、
落ち度が見えてくるんだよ。
完全に的を得ていれば、
それってないんだよ。
だからね、
才能って、裏を返せば、
闇の本質でもあるんだよ。
そういう意味もあって、
才能に溺れるなよ、
って言葉があるんだよ。
けど、
才能がなんなのか分かっていないからこそ、
皆、この落とし穴に見事に落ちるんだよ。
だからね、
才能ってね、自然と分かってしまうことで、
自然と分かるからこそ、
自然とできてるだけなんだよ。
だから別にそんなに凄いことでもないんだよ。
本人にとったら、
当たり前のことしかしてないからね。
けど、
そういうことが、分からないから、
皆騙されてるんだよ。
だからね、
その自然の高さが、
才能の高さになるんだよ。
それが、
才能と言うものの捉え方なんだよ。
裏を返せば、
自然こそ究極ってことなんだよ。
だからね、
才能ある人って、
人に教えるの苦手だよね。
あれってね、
自然とできてしまうからなんだよ。
才能ってね、
理解に間がないんだよ。
間ってね、隙間のことだよ。
その隙間を勝手に埋めてしまうのが、
才能なんだよ。
だからね、
才能って、分からない部分が多いんだよ。
その分からない部分を埋めることが、
本当は大切なんだよ。
だからね、
本当の創造ってね、
そういうものじゃないんだよ。
全ては、地道な積み重ねの上に、
成り立ってるだけなんだよ。
才能は、その地道な道のりに比べたら、
あまりにも、浅いものだよ。
浅いからこそ、模倣(偽造)で終わってるんだよ。
本当に創造ができたらね、
偽造ってする必要がないんだよ。
創造さえできれば、
そこから全てが生み出せるからね。
だからね、
偽造って、生み出せないから、
偽造をしていて、
生み出せてしまえば、
偽造なんて必要ないんだよ。
だからね、
本当の創造とはね、
いかに心を開いて、自然体になれるか?
なんだよ。
いかに自分らしくいられるか?
なんだよ。
それが深まることで、
勝手に降りてくるものが、
創造の本質なんだよ。
言い換えるのなら、
これが、
アカシックレコードなんだよ。
創造の根元まで辿れることが、
真のアカシックレコードなんだよ。
ただ、
アカシックレコードには、
二種類あって、
外のアカシックレコードと、
内のアカシックレコードがあるよ。
内のアカシックレコードと、
外のアカシックレコードには、
かなりの違いがあって、
外のアカシックレコードは、
あくまで、
与えれる情報なんだよ。
情報の中にはね、
与えれる情報と与えられない情報があるんだよ。
知ってたかな?
この意図が分かるかな?
与えれる情報とは、許容量内、
与えられない情報とは、許容量外になるからだよ。
どういうことか分かるかな?
外の情報とはね、自身には関係がないからこそ、
降ろせるもので、
内の情報とは、自身に関係してしまうからこそ、
降ろせないものになる。
ってことなんだよ。
その意図が分かるかな?
情報って兵器だって、聞いたことあるかな?
何が言いたいのか、分かるかな?
正しい情報(内の情報)ほど、
自身の内面を自然と書き換えてしまうからこそ、
降ろしたくても、降ろせないってことなんだよ。
外の情報とは、それとは全く関係ないからこそ、
啓示として降ろせる、ってことなんだよ。
分かりやすく言うと、
全ての準備が整ってないと、
内の情報は、降ろせないってことだよ。
外の情報は、上辺の情報、
内の情報は、進化の情報なんだよ。
進化の情報はね、
進化してる人にしか降りてこないんだよ。
類は類を呼ぶんだよ。
だからね、
進化を知らない人には、
内の情報は、降ろせないんだよ。
外の情報は、進化とはあまり関係がないから、
降ろせるだけなんだよ。
内の情報を降ろすには、
確かな体現力を必要とし、
それは、
頭だけの理解だけでは、
不可能ってことなんだよ。
必要なものは、
心と身体の一致で、
繊細性と多様性が最も必要になるんだよ。
だからね、
内の情報を受け取るには、
各自の準備が必要ってことなんだよ。
答えを知り、答えを身に付ける、
ってことだよ。
だからもし、
内の情報に触れることがあったとしても、
自身が未熟な状態だと、
その情報は、
脳内で、シャットダウンされてしまって、
読めないものになってるんだよ。
読めたとしてもそれは、
あくまで上辺だけで、
上辺だけ理解できたとしても、
仕方がないってことだよ。
そういう違いが、
外のアカシックレコードと、
内のアカシックレコードの違いになるよ。
ちなみに、
地に足が着くのは、
内のアカシックレコードになるよ。
外のアカシックレコードは、
その逆で、
一歩手前まで行くことだよ。
全ては、自身で掴んでこそ、
実を結ぶのが、この世界の在り方だよ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?