社会を創生する論(続き)

さて、今回は、いよいよ本編です。というか、本編として完結してほしい。

筆者注記:『劇場版ヱヴァンゲリヲン』の事例を持ち出した時点で、「今回でこの問題を完結するのは無理」と思いました。ですから、本当の結論は、また後日に回します。ですが、それはそれとして、今回の論考は「社会を創生する論」の(やはり)基礎理論になりますので、お目通しください。

おさらい:社会創生を考える2つの大理論

それはさておき前回、社会を創生する方法を考える二つの方法論を示しました。一つ目は、西洋文明圏における大陸合理論の考え方です。わかりやすくいうと「社会契約論」です。二つ目は、日本の思想家である吉本隆明の考え方です。すなわち「共同幻想論」です。この二つの考え方を比較検討しながら、「私たちが幸福に暮らせる社会をつくるためには、どうすればいいか」。そのヒントを考えたいと思います。

ちなみに

この二つ以外には今のところ、「社会はどのようにして生まれるか」という大きな理論(Grounded Theory)は、ありません。吉本隆明が世界中でどれほど読まれているかは不明ですが、西欧哲学の系統と、日本哲学の系統の二つを、どっちがいいとか悪いとかではなく、同じ比重のものとして取扱うことができる。これは、日本という「独自の歴史と思考形態を持つけれども、西欧近代になんとか自力で追いつくことができた国かつ国民」の持つ特権であると、私は思料します。

社会契約論と共同幻想論の根本的な違い

たぶんこれは、今まで誰も指摘していないと思います。本当に。この一行を書くだけで学術的価値があるかもしれません。博士論文になります。けれども、まあ、書いてしまいましょう。その根本的な違いとは、これです。

「社会契約論」は、最低2人の人間の関係から、社会がどう生まれるかを考える。それに対して「共同幻想論」は、最低3人の人間の関係から、社会がどう生まれるのかを考える。

社会を生み出すための必要最低限な基礎人数が、2人か3人か。社会契約論(2人)と吉本共同幻想論(3人)というふうに、まったく異なるのです。

言いかえると、「社会契約論と共同幻想論では、社会を創生する基礎人数が違う」のです。これを、学問好きの友人に指摘したら、「!」と驚かれると思います。ぜひ、話してみてください。そして、そのような反応が返ってきたときは、僕にいくらかの著作権料をください。それはさておき。

たった一人の違い、と思うかもしれません。しかしこれは、よくよく考えるほどに、致命的に重要(クリティカル・インポータント)な点です。この辺を、分かりやすい素材で、説明しようと思います。

『TV版アニメ:新世紀ヱヴァンゲリヲン』

アニメ「エヴァンゲリオン」は、多くの方がご存じのことと思います。私も大学生時代に、TVシリーズを、夏休みで帰省した実家で深夜に、見通しました。なぜ実家なのかというと、下宿先の地域には、ケーブルTVが無かったからです。だから下宿先で、ヱヴァンゲリヲンを観ることは、できなかった。

けれども、「ヱヴァンゲリヲンというアニメが流行っている」「流行っているだけでなく、なんか、すごいらしい」という話は、聞いていました。

そこで、実家で、深夜に放送されるアニメシリーズを一通り見通しました。正直、毎日24:00くらいから始まる2話連続放送を見通すのは、眠気との戦いで、しんどかったです。

それはともあれ、大方の皆さんと同じように私は、TVアニメ版のラストを見て、「気持ち悪い」としかいいようのない思いを、抱きました。

「使途」の動きは非合理的

そもそもそれ以前に、なぜ「使途」が地球を壊滅しようとするのか、その意図がまったくわかりません。「神の怒り」というわけではなさそうです。ひょっとするとそうかもしれませんが、それは作中では明示されていません。暗示もされていません。

使途はなぜか、ただただいつも、①地球の中のごく一地域にすぎない、②日本という国土の中の、③東京という場所に一点集中して、④いつも突然に、攻撃を仕掛けてくる。

このような4重の必要条件を満たして攻撃してくる使途の意図が、当時20歳の私には、まったく分かりませんでした。むしろ「必要条件を減らして、地球全体の各地域に分散攻撃を仕掛けたほうが、地球全体を壊滅させるためには合理的だろうに」と、使途の「思考の合理性」を疑ったほどです。私なら、相手を壊滅させるために、最も効果的で合理的な手段を取ります。最小の労力で最大のアウトプットを出そうとします。ところが「使途」には、まったくそのような考えがない。これは、私には、不可思議でした。

それはさておき、TVアニメシリーズを見終えた私は、その次に訪れた「劇場版:シン・ヱヴァンゲリヲン」を見に行く機会に恵まれました。

『劇場版ヱヴァンゲリヲン』の結末は、社会の終わり

というわけで、私は劇場版のエヴァンゲリオンを観に行きました。まさか途中で休憩時間がカウントダウンされるとは思いませんでした。けれどもそれは、おもしろい演出だったと思います。それはさておき。

ここで問題なのは、最後に、サード・インパクトが起こったであろう後の地表に、「アスカ」と「シンジ」だけが取り残されたことです。そしてラストに、アニメーション(絵)が消えた後に、最後に一言、アスカが「気持ち悪い」と言います。これは、男性に対する最大限の侮蔑のことばです。

ちなみに、敷衍すると、キリスト教の新約聖書の世界では、アダムとイヴは仲良しでした。愛し合っていましたそれに対してエヴァンゲリオンは、お互いに受け入れることができない二人が、世界の果て(であると同時に世界の始まり)に取り残されました。これはまさしく悲劇としか言いようがありません。

ここでいったんホッブスの理論を振り返る

さてここで、話を戻します。大陸合理論=社会契約説の考え方では、2人から社会が生まれてきます。その祖であるホッブスを引きましょう。ホッブスは、「人間には未来の予見能力がある。そして、人間は皆、自分の生存について最大限の関心を持つ。ということは、なんらかの工夫を差し挟まない限り、そのような野蛮な状態では、万人に対する万人の闘争が起きるだろう。というのは、誰しもが、自分が生きるための糧を奪い合うだろうから」というものです。中学生の私は、「そんな社会、今までもなかったし、これからもないだろう。何をいってるんだ、この人は」と思いました。けれどもまあ、社会事象を、最小単位の要素に還元して考える。これは、方法論として、あながち、間違ってはいません。

ちなみに

ホッブスは、その名前の響きのとおり、イギリスの生まれです。ところが、その人が、欧州大陸の「合理主義的な論理展開をして、社会を語りました。というわけで、社会科学の世界では、「イギリスに、ホッブスという、イギリス社会哲学の亜種がなぜか、生まれた」と考えます。これが常識です。ホッブスは、その主張も自らの思考スタンスも、学問的・客観的なスタンスから見ると、イギリスの主流派社会哲学の亜種として、認定されています。

劇場版エヴァからは、社会は生まれ得ない

ここで話を、劇場版エヴァに戻します、問題は簡単です。「果たしてアスカとシンジは、社会を生み出しうるだろうか?」ということです。

ホッブスは、お互いのために有利になる交換=契約を結ぶことで、2人から社会は生まれてくる、と考えました。けれども、「大嫌い」な2人だけしか存在しない状況から、果たして社会は生まれるでしょうか?

劇場版エヴァは、このことを私に考えさせます。ここが、ホッブスの限界だと思います。たとえ、「自分の得になる」からといって、「嫌いな相手」と取引するでしょうか。私には、そうは思えません。感情は合理性を上回るからです。

アスカとシンジは社会を生み出さない

というわけで、アスカとシンジの二人が取り残された場合は、「社会」は生まれ得ないでしょう。そう考えるのが、真っ当だと思います。これが今回の結論です。すなわち、大陸合理主義の社会哲学の考えである、2人から社会は生まれるという主張は、社会が生まれることがあるかもしれないし、無いかもしれない。このような結論に陥らざるを得ません。論理よりも感情の方が、生きるためには重要だろうだからです

もし、3人目の誰かがいたら、どうなる?

というわけで、今日はこの辺で。今回は、ホッブスの限界を考えました。それを踏まえて次回は、吉本隆明の共同幻想論を援用して、社会の創生を考えたいと思います。



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