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女の論理


日本と欧米の政治と文化に関して、諸々

アメリカの中間選挙が間近い。2年前の大統領選と同様に民主党と共和党との戦いは熾烈を極めるのだろう。
 2年前の大統領戦では、開票作業の終盤、両党の得票数は1ポイント内外の僅差で拮抗していた。
 政権選挙でこれほどまで真っ二つに支持が分かれるなど、我々日本人には想像も及ばない。まして、互いの支持者同士が暴動にも至りかねない勢いで対立する図など、日本では到底有り得ない。
 振り返れば、今や内閣存続が危ぶまれるほど支持率の低迷する岸田内閣だが、その発足は、国民による投票すらなく、いつの間にか政権が樹立していた、といった感だ。善し悪しは別として、アメリカと日本は、政権選挙で何故これほど大きな差があるのだろう。
 これほど重大な政治的・社会的うねりを伴う大統領選を行うアメリカ人にとって、国民による投票すら行われない日本の政権選挙(=首相選挙)はどう見えるのだろう。民主主義国家であることを疑われはすまいか、と私は少し危惧する。
  
 日本とアメリカのこの大きな政治に対する国民の意識の違いの根源はどこにあるのだろう。
 もともと、日本とアメリカでは、政治の基本形態が異なる。政権の代表は、日本では首相、アメリカでは大統領であり、国民による選挙の方法も、日本では国民による直接選挙によらず、国会で指名され(これを受けて形式的に天皇が任命)、アメリカでは全国民が参加する国民投票による。

 さらに、大統領は国家元首であるが、首相は国家元首ではない。この立場の軽重の差が国民の意識の軽重に連動しているのだろうか。
 仮に、日本において、政治権力を持つ元首として天皇を選挙で選ぶとしたら、日本人もアメリカのように緊迫した社会的なうねりをも引き起こすような大きなエネルギーを帯びるだろうか。おそらくそうはならないだろう。現在の揺るぎない自民党一強の様相からは、アメリカのような息を呑むような、まさに死闘など想像すらできない。

 日本と欧米のこの天と地ほどの政治的状況の違いは、どこにその根源があるのだろう。

 誤解を恐れず単純に類型化して極論すれば、その国民が、米を食べるか肉を食べるかが、そもそもの政治的状況の根源につながっているのだろうと、私は踏んでいる。
 私が小学生の頃は、日本で稲作が始まったのは弥生時代、と教わったものだ。まさに弥生時代に始まった稲作が、縄文時代にエポックを画した、と。 しかし最近では、縄文時代にすでに稲作が始まっていたとする研究もあるようだ。いずれにしても、稲作は日本の歴史の元始に位置する。
 稲作によって富を蓄えることが可能となり、そのことによって権力が発生し、やがて原始国家が形成された、と、かなり大雑把に日本の歴史を捉えても、あながち間違いではないのだろう。(というか、定説?)
 一方、庶民の側からすれば、食料に事欠く原始の時代において、米は高カロリーの効率のよい食料であり、しかも、保存がきく。さらに栽培方法もさほど難しくなく、連作もできる。これらのことから、庶民の生活や意識の根源は、稲作に大きくシフトして行ったと考えられる。
 稲作は、ごく一部の陸稲を除き、大半は水田栽培による。田に水が入らなければ稲の栽培ができない。しかも、水は当然ながら上から下に流れる。水は、上の田から順に入るのだから、焦ってもしかたがない。自分の田に先に水を入れようと他人と争ってみても、まさに文字通り、「我田引水」的低意識の単なるわがままとバカにされるのがオチだ。
 十七条憲法第一条にも「和をもって尊しとなす」と定められ、「むやみに反抗することのないようにせよ」というような意が記されている。
 寄らば大樹の陰、長いものには巻かれよ、郷に入りては郷に従え、出る杭は打たれる、等々、古来、争いや反抗を戒める格言や諺は枚挙の暇がない。和やかに、争わず、皆一緒であることに重きを置く意識が、日本人の文化の根幹にあるように思われる。
 
 多少ニュアンスが違うような気もするが、
 「赤信号、皆で渡れば怖くない」とは、皆が一緒にまとまり同和することは、時には法規さえも超える!と、庶民が自らを揶揄しつつも、日本人の根幹にあるものを喝破した、蓋し名言(迷言?)だろう。

 アメリカの大統領選や中間選挙の、国民を真っ二つに割って暴動にでも発展しそうなほどに熱を帯びる政党間の対立は、日本人にはとても奇異に見える。「和することこそ尊い」と、稲作歴史から連綿と繋がる意識の沈殿が、日本人にはあるのだろう。
 こうして、日本では、選挙で
「ま、とりあえず、一強とされる自民党に投票するのが無難だろう。赤信号、皆で渡れば怖くない、ってか」
といったノリで投票する人が案外多いのではないか。この脱力感の下で政党間の熱狂的対立など起こりようがない。(各政党の政策を入念に吟味・検討され、熟考に熟考を重ねられて、熱狂的確信を持って投票された方には、ご無礼の段、ごめんなさい。)

 一方、欧米では、メインディッシュ(=主食?)は肉または魚である。原始、狩りをして肉を得ていたことに因るのだろう。
 狩りは、自分自身の腕力と知力のみによって行われる。他人を慮(おもんぱか)る必要など全くない。それどころか、余計なことを考えて、一瞬の判断を誤れば、即、落命に繋がる。自分が一瞬一瞬どう判断するかが至上命題であり、生活意識のコアである。他人と和するなど、全く意味がない。
 こうして、自分の意思を強靭に主張する欧米の肉食社会が、アメリカのあの緊迫した選挙戦や、訴訟社会に繋がるのだろう。
 言ってみれば、日本人と欧米人の意識の差は、農耕民族と狩猟民族との意識の差、と言える。

 日本と欧米の文化の違いの根源を、農耕文化と狩猟文化と類型化すること以外にも、感動的な比較文化論がある。
 文化人類学の分野ではつとに有名なルース・ベネディクトという女性学者がいる。(彼女の夫は、糖尿病の糖の検出や、中学校の理科で糖の検出実験に用いるベネディクト液の開発者。私個人的には、彼女が、日本人初の女子留学生として、会津藩の大山捨松が学んだ名門バッサー大学の同窓であることで印象深い)

 ルース・ベネディクトが日本文化について記述したのが名著『菊と刀』である。外国人でありながら、日本人の価値基準や思考傾向について鋭く分析したその洞察力は敬服するばかりだ。

『菊と刀』の中で、彼女は、日本人と欧米人の文化の根底にある違いを、「恥の文化」と「罪の文化」として提示する。
 日本人の文化は「恥の文化」だとルースは言う。
 粗々述べたように、日本人の歴史に根ざした思考の基準は、主観としての「自らの意思」というよりは、和すること、すなわち、他と同化しむやみに我を出さないこと、と言えるだろう。つまり、自らの価値の基準を主観に置かない。従って、生活意識の基準は、「よそ様」、「世間体」、「みんなで渡れば怖くない」(!)ということになる。稲作時代の太古より、和することに腐心し続けた結果、日本人は、自分自身がどうあるべきかを、他からどう見えるか、という基準で考える。
 他から見て恥になるかならないかが、日本の文化の根幹であるとルースは言う。
 一方、欧米文化の核は「罪の文化」だという。
 唯一絶対神(イスラム教もキリスト教も唯一神)の前に対座し、「神」という正義に照らして自分の言動が罪であるかないかを主観として判断するという文化が、「罪の文化」であろう。
 そういえば、日本では唯一絶対神という概念はほとんどない。神様と仏様が共存するばかりか、八百万(やおよろず)の神がいて、さらに、死者は皆「仏様」になる。
 稲作文化をその始源に持つ日本では、田作りや自然にまつわる神様が多い。水神様、雷神様、あるいは、「御神木」というように、木も神様になり、石も、岩も、時には一山そっくり神様になる。価値は全て相対化され、こうして、かの名言(迷言)「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と、法規までもが相対化され、茶化される。
 
 以上は、もう数十年前に読んだ書物『菊と刀』の、私個人の記憶に残る大雑把な概要把握によるものなので、正確性は危ういが、見事な文化の類比だと当時も今も感服する。

 少し文脈がそれたが、アメリカの大統領選や中間選挙の熱狂と、日本の首相選挙のシラケムードの差は、根源的には、それぞれの国が拠って立つ文化に根ざすものなのだろう。その善悪については、詳細に論ずる準備も心算も、今、私にはない。

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