女の論理━━女の視点による政治小論評

 現在の政治・政局・政権に関する、結構真面目な論評ですが、巷の話題などにも触れながら、”女の論理”感満載の小論文です。ご一読いただければ嬉しく思います。お気づきの事実誤認、論理矛盾など、また、ご感想などお寄せいただければさらに嬉しく思います。サポートしていただけるなら、至高の喜びです。


女の論理

1.安倍政権の思い出とその周辺

 2019年から2020年にかけての年末年始、目まぐるしいほどにビッグニュースが駆けめぐった。
 今思えば、この頃、その後の世界の様相を一変させる悪疫、新型コロナウイルスの影がひたひたと忍び寄って来ていたのだが、武漢の市場で発生した新型ウィルスが、実は全世界に蔓延することになる恐ろしい悪魔であることに気づく人はまだほとんどいなかった。

 この時点でのビッグニュースは、カルロス・ゴーンの海外逃亡、ⅠR (統合型リゾート)汚職事件、米軍のイラン軍司令官殺害等々だ。そしてこれらのどのニュースも、それ自体で完結している事件ではなく、爾後それがどう転遷するのか予想もつかない空恐ろしさを含んでいた。

 ゴーン被告の海外逃亡劇は、没収される保釈金の十五億円と実際の逃亡費用とをあわせると、二十億円とも三十億円とも、またそれ以上とも報じられた。庶民には想像もつかない(無理に想像すれば、年間三百万円で暮らすと千年生活できる計算! 紫式部が源氏物語を書き、藤原氏が全盛を誇った平安時代から現代まで延々と生きる勘定)額だが、その莫大な対価を払ってこの事件は終結、というのでもなかった。
 レバノン政府は日本と犯罪人引き渡し条約を結んでいないので、日本からの犯罪人引き渡し要請には応じないのだろうが、レバノン国内では、莫大な経費をかけて逃亡、入国できたゴーン被告の“特権”に批判があるとも報じらた。また、レバノンではイスラエルによる「レバノン侵攻」以来敵対するイスラエルへの入国が禁じられており、過去、ゴーン被告がイスラエルで行われた経済イベントに出席した際の「イスラエル入国罪」で訴追される動きもあった。

 さて、逃亡資金数十億円を出費してもなお、涼しい顔で(というよりにこやかな笑顔で)、優雅に夫人とワイングラスを傾けるゴーン被告だが、一方、日本では、たった(と、つい言ってしまう)百万円だか二百万円だかをうけとったとか受け取らなかったとかのⅠR汚職事件が取り沙汰されていた。この事件もまた、数人の国会議員の些末な収賄事件として決着するのか、あるいは芋づる式に疑義が拡大して大物政治家にまでゆきあたる疑獄事件に発展するのか、その転遷の行方は当時はまだ予想がつかなかった。

 米軍(つまりはトランプ大統領)によるイラン軍司令官殺害事件が報じられた当初、私は、これは北朝鮮への見せしめなのではないかとふと思った。金正恩よ、アメリカは、誰であれこのように個人をピンポイントで殺害することができるのだよ、いつまでも核施設の放棄を渋り、弾道弾ミサイルの発射実験を続けるのなら、お前も同様の仕打ちを受けるのだよ、というアメリカのメッセージが見え隠れしているように思えたのだ。金正恩は自らが独裁する国体もしくは個人としての自分自身の抹殺を何よりも恐れているように私には見えた。
 イランが形ばかりの報復攻撃を行って事態はひとまず落ち着いたかのように見えたが、イランによるウクライナ民間機の誤射事件もあり、アメリカとイランは向後の成り行きによっては、いつまた突発的な緊張状態に至らないとも限らなかった。事件の舞台となったイラクなど近隣国を含め、不安定な中東情勢は、その中の個々の国々に肩入れするヨーロッパの国々や、ロシアや中国などの複雑な思惑も見え隠れし、世界規模の緊張へ発展する可能性が全くないとも言えなかった。

さて、このアメリカによるイラン軍司令官殺害事件が起きるほんの数日前、日本政府は自衛隊の中東派遣を閣議決定した。一抹の違和感を持ってこの報を聞いた多くの国民も、数日の後にはいつの間にかその違和感も遠のいていた。しかし、にわかに緊張を帯びた中東情勢に国民は驚き、先の閣議決定を思い出し、いつ何が起きるかもしれない中東に自衛隊が出かけて行って大丈夫なのだろうかと心配した。
 しかし、はたして官房長官は「方針に変更はない」と言うし、防衛大臣は「閣議決定を変更しなければならない理由がない」と言う。またしても、消化不良の違和感が国民の意識の底に澱のように沈んだのではないだろうか。

 ここに至ってふと脳裏をよぎるのは、自衛隊の中東派遣と憲法改正との関わりだ。巷間では、今年後半、おそらくほぼ年末に近い頃、解散総選挙が行われるのではないかと囁かれていた。争点は、憲法改正。
 政府内の憲法改正推進本部は「改憲四項目」として、自衛隊、緊急事態、合区解消・地方公共団体、教育充実を掲げているが、その眼目が「自衛隊」であることは誰の目にも明らかだ。
そもそも、安倍首相は、何故、解散してまで(本人は、解散は頭の片隅にもない、とは言うが)憲法改正に固執するのか。
 「憲法学者が『自衛隊は憲法違反だ』と言うから改憲して違憲の疑義をなくす。今までの政府解釈から一ミリも足さず一ミリも変えない。自衛隊だけを書き込む」 
 と安倍首相がどこかで述べている。
 また別の政府関係者は、
「今は解釈のみによって自衛隊の存在が認められており、国民の自衛隊への理解や自衛隊員の士気の観点からしても、憲法に自衛隊という言葉があるとないとでは大きく異なる」と言う。
 実際の自衛隊員の方々の本意を私は知らない。しかし自衛隊の方々は、憲法に「自衛隊」の一語があるから士気が上がり、なければ士気が上がらない、などと考えるのだろうか。そんなことはないのだろうと私は思う。
 例えば甚大な自然災害の被災地で、危険も顧みずに人命救助や災害復旧に当たる自衛隊員の方々に、国民はどれほど感謝しているだろう。そしてそのような崇高な任務に当たる自衛隊を、自衛隊員の方々は大きな誇りとして日々の任務に当たられているのではないのだろうか。
 安倍首相は、「今までの政府解釈から一ミリも足さず一ミリも変えない。自衛隊だけを書き込む」と述べるが、憲法に書き込むということは、そんな単純なことではない、と言う憲法学者もいる。
 すなわち、自衛隊が憲法に書き込まれるということは、自衛隊が憲法に則った紛れもない国家機関となることを意味する。国会・内閣・裁判所と並ぶ国家機関となり、確固たる根拠と堅固な権限が付与される。「今までの政府解釈から一ミリも足さず一ミリも変えない」どころか、千ミリ位がらりと変わる、とその学者は言う。多分そうなのだろうと私も思う。
 従来自衛隊は防衛省の下に組織されているが、自衛隊が国家機関となれば、同じ国家機関の内閣の一組織である防衛省は、自衛隊の下位に位置づけられることになる。

 憲法九条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定する。
 個人も国家も、正当防衛は文字通り正当な自己防衛行為であり、基本的な権利なのだから、防衛行為自体が何らかの責めを負うことは、(多分)ない。したがって、専守防衛とそのための装備は、むしろ国家として極めて重要な基本的な権限の範囲内にあるのだろう。
「憲法学者が『自衛隊は憲法違反だ』と言うから改憲して… 」と安倍首相は言うが、自衛隊の存在が憲法違反なのではなく、その運用が憲法違反なのだと私は思う。むしろ、「自衛隊」が憲法に書き込まれ、確固たる根拠と堅固な権限を持ち、いつに間にか、あるいは無し崩しに、軍隊化していく危険性を、はたして自衛隊は望むのだろうか。否、と私は思う。戦闘を好む人間など、この地球上に一人もいないのだから。 
あるだのないだのと二転三転した数年前のイラク日報問題。結果的に見れば、政府が当初「残っていない」として押し通そうとしたのは、あれば不都合なことが何かあったのだろうと誰もが推測する。案の定、政府は派遣地を「非戦闘地」としていたのに、実際は、自衛隊の宿営地に向けてロケット弾が十数回発射されていたと聞く。自衛隊の車列がサマワを走行中、その道路脇で遠隔操作爆弾が破裂したとも聞く。とっさに自衛隊員らは機関銃に実弾を装填し発射態勢を整えた、とも報じられた。その後、宿営地のテントはコンテナに変わり、その屋根と壁には土嚢が積まれ、あたかも要塞と化した、とも報じられている。

遠い中東の戦闘地(政府は「非戦闘地」というが)まで出かけて行った挙句に砲撃を受け、宿営地は要塞化を余儀なくされ、銃の発射態勢を取らざるを得ないような自衛隊派遣を、政府はするべきではない。自衛隊の存在ではなく、政府がそのような自衛隊派遣をするその運用が憲法違反なのだと、私は強く思う。専守防衛とは程遠い話だ。まして、その当時、イラクに派遣された自衛隊員5千6百人のうち、自殺した隊員が二十一人に上っていたという。この二十一人がどれほどの絶望と失意の裡に自らの命を絶ったのかを思えば、胸が張り裂けるほど切ない。
自殺に追い込まれるような自衛隊の運用を、政府はすべきではない。人には、生きる権利がある。それを最大限に守るべきだとする基本的人権の尊重は、戦争放棄と並んで憲法の大原則だ。



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