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今朝平遺跡 縄文のビーナス 84:オオウスの左鎌

ここからは豊田市を語るには欠かせない山、猿投山(さなげやま)を紹介して行きます。とは言え、猿投山は愛知県の瀬戸市と豊田市にまたがる標高626mの山です。山頂を境に北西側が瀬戸市、南東側が豊田市に属していますが、宮内庁が管理する大碓命(オオウス:日本武尊双子の兄)御墓所、大碓命を祀った猿投神社、正史には記録に残っていない石などは豊田市側に存在します。猿投山には2011年7月と2012年10月の2度登っていますが、猿投山の南の麓に祀られた猿投神社に関しては両年の写真を混在して使用しています。ちなみに、猿投山の西隣にある物見山(ものみやま)に15年ほど前に登った時には猿投山に近い北側の麓に「熊出没」の看板が出ていて、猿投山より街に近いことから驚いたことがあります。それはともかく、猿投山の登り口には猿投神社が位置していますので、まずは猿投神社に向かいました。

愛知県豊田市猿投町 猿投神社
豊田市猿投町 猿投神社
猿投町 猿投神社

猿投神社の実質的な入り口は県道349号線から道路が分岐したT字路の北側に総門が存在する。
ただし総門は、かつては神仏習合の場だったので、GoogleMapの表記は「山門」となっている。
「山門」というのは寺院の門のことだ。
総門の前に立つと、背後に金色の大鳥居が存在するので、愛車を総門の脇の方に駐めて観に行った。

愛知県豊田市猿投町 猿投神社 二ノ鳥居

金色の鳥居は他で観たことの無いものだ。
上記写真は大鳥居の外側(南側)から撮影したものだが、形式は神明鳥居で、GoogleMapには「二の鳥居」と表記されている。
二の鳥居の奥に見える赤墨色の社殿が総門だ。
二の鳥居は349号線の歩道に建てられているように見えるが、ここは猿投神社の社地内だと思われる。
つまり、社地内を349号線の分岐動が横切っているわけだ。
それでは「一の鳥居」はどこに存在するのか調べてみると、直線距離で二の鳥居の南々西2.25km地点の豊田市神納町内349号線脇の社叢の中に存在するようだ。
GoogleMapでの表記は「一之鳥居」となっている。
もしかするとと思って、かつての表参道らしきルートを航空写真で辿ってみると、森や空き地の中を抜けている表参道らしき道がけっこう残っているようだ。

それはともかく、二ノ鳥居をくぐって総門前の分岐道の向かい側に立つと、門前向かって右手に「猿投神社」と刻まれた社号標があった。

豊田市猿投町 猿投神社 総門

銅板葺切妻造の屋根には6本の左三巴神紋の入った鰹木と、内削の千木が乗っており、女神の存在を示唆している。

総門前の道を渡って総門の屋根を見上げると、構造材の美しい門であることが判った。

猿投町 猿投神社 総門屋根

総門をくぐると、両側に並木の連なる美しい表参道が一直線に北に延びており、途中、三ノ鳥居や手水桶があった。
ヘッダー写真は表参道脇にある巨木。
ヒノキだろうか。
表参道の突き当たりには巨大な吹きっ放しの拝殿があった。

猿投町 猿投神社 四方殿 算木(?)

愛知県に多いこの形式の銅板葺棟入吹きっ放しの拝殿では最大の拝殿ではないかと思われる。
拝殿の奥には四方殿の色が白群で明るい屋根が連なり、跳んで奥に回廊を持つ中門がある。

拝殿の脇を抜けて中門に向かうと、四方殿の濡れ縁に奇妙なものが置かれていた。

猿投町 猿投神社 四方殿 算木(?)

お百度詣りのための回数を記録するための算木だろうか。
上下とも20枚くらいある。

四方殿の中を通して拝殿を眺めたのが下記の景色だが、拝殿内の屋根裏の構造材も総門と同じ方式で、贅沢な材木の使い方をしている。

猿投町 猿投神社 四方殿〜拝殿眺望

拝殿と四方殿の間から銅板葺の向拝屋根を持つ中門を見ると、門は美しい格子戸が閉じられていた。

猿投町 猿投神社 四方殿〜中門眺望

両袖に延びる回廊は瓦葺で壁は、やはり格子の板塀が張り巡らされている。
中門前で参拝したが、総門脇に掲示されていた板書『猿投神社』には以下のようにあった。

●御祭神
大碓命(景行天皇第一子、日本武尊と双生児)
景行天皇(第十二代)
垂仁天皇(第十一代)
●創祀、沿革
創祀は、社伝によれば仲哀天皇元年とあり、山麓の本社、 東峯の東宮、西峯の西宮を総称し、猿投三社大明神と崇敬されて今日に及ぶ。神階は、三河国神名帳に正一位猿投大明神と記されている。社格は、延喜の制(967年)国幣の小社。明治の制(1872年)県社。
一宮制が行われるや三河三宮となる。 神領は、織豊時代より明治維新まで776石の朱印を与えられた。境内外に神宮寺が建てられ猿投白鳳寺と呼ばれ、明治元年まで神仏混淆の地であった。

『猿投神社』総門脇板書 抜粋

御祭神3柱の中には総門の鰹木と千木の示唆する女神は存在しないが、地図表記されている「山門」の根拠となる神宮寺の存在した神仏混淆の地であったことが記されている。
景行天皇は大碓命の父神、垂仁天皇は祖父神に当たる。

また、板書には「棒の手」に関する記述もあったが、以下は「【愛知県民族無形文化財】猿投棒の手 百姓達の奥義」の動画。

中門右側に延びる回廊前の絵馬掛けには以下の左鎌の絵馬が掛かっていた。

猿投町 猿投神社 絵馬

左鎌に関して板書では何も触れられていないが、猿投神社では古くから左鎌を奉納して祈願する風習があるという。
祭神の大碓命が左利きであったことから、この地が左鎌を用いて開拓されたことに由来するのではないかと言う説があるが、大碓命が左利きであったということは左鎌に合わせてできた伝承だと思われる。
私見だが、「サガマ(左鎌)」と「サナゲ(猿投)」両方とも「サナギ(鉄鐸)」から転嫁され、漢字が当てられたものである可能性があると思われる。
鉄鐸は尾張製鉄族を示すものだ。
オオウスの弟、オウス(日本武尊)が尾張製鉄族(宮簀媛)と結びついたように、尾張製鉄族はオウスの祖父垂仁天皇、父景行天皇の代から結びつきをしていたと思われ、だから猿投神社にはオオウスを含めた3柱が祀られているのだと思われる。

その結果の左鎌だが、左鎌は絵馬だけではなく、実際の鉄製の左鎌も多く奉納され、回廊の柱や壁に下げられていた。

猿投町 猿投神社 回廊 左鎌

上記写真の鎌は実用の左鎌ではないが、15年ほど前に猿投神社にやって来た時には多くの左鎌が奉納されており、実用の鎌も混じっていた記憶がある。

下記写真は多くの奉納された刃の付いた左鎌を額に纏めたもので、回廊の軒下に掲げられていた。

猿投町 猿投神社 回廊 左鎌額

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「大碓命」(景行天皇12年?〜景行天皇52年?)は『古事記』での表記で、猿投神社ではこの表記が使用されています。『日本書紀』では「大碓皇子」と表記され、猿投神社伝承と同じく、小碓尊(オウス:日本武尊)とは双子としているものの、オオウスにはヤマトタケル誕生以前の景行天皇4年に美濃に派遣されたとする矛盾する記録が存在し、『古事記』では双子とする記述は『日本書紀』では存在しません。また、記紀には共通して、父親の景行天皇の気に入った女性をオオウスが横取りした記述があり、『古事記』に至っては小碓命が景行天皇に「(大碓命を)捕まえてつかみつぶし、手足をもぎとって薦(むしろ)に包んで投げ捨てた」と報告したとする記述まであり、記紀編纂者による兄弟および「ヤマト」を意図的に貶める記述が存在する。これは兄弟だけではなく、天孫とその国家を貶める意図を感じます。まあ、編纂者は天孫族ではありませんからね。そして、皇室を貶める傾向は現代でも存在しますね。

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