今朝平遺跡 縄文のビーナス 38:役行者たち
愛知県豊田市竜岡町(たつおかちょう)の県道366号線沿いに並んだ石造物群前から菅生川(すごうがわ)の西岸に沿った366号線を上流に向かうと、560mあまりで、366号線は東岸沿いに移り、さらに遡ります。すると、420mあまりの左手に1枚岩ではないかと思われる巨岩が366号線に突き出るように位置しており、そこには多数の板碑や石仏に混じって、消火用ホースの収納箱が岩の中腹に並んでいました。
しかし、それは半分で、その1枚岩を側面に回り込むと、さらにそちら側にも石仏が奉られていた。
そして、その石像たちの中で右端の目線より高い位置に、またもや役行者像が奉られていた。
その石材には地衣類が重なって覆っていた。
役行者は葛(くず)の衣を纏っていたとされているが、ここでは地衣類を纏っており、偶然ながら「地衣類」は名称に「衣」を含んでいる。
葛の繊維で織った一重の衣類「葛衣(かつい)」は着た経験は無いが、軽く涼しいので、夏に着る着衣であると説明されている。
だが、冬になって気温が下がれば、藤の皮で作った衣を重ねたとみられる。
これまで、20年近くにわたって、多くの役行者像を撮影してきたが、ほかの場所で撮影した写真を3点紹介する。
●目黒不動尊 役行者銅像
真言密教の目黒不動尊に祀られたものを2005年に撮影したもの。
この当時、私は東京都の目黒駅の周辺に居住していたのだ。
上記写真の像は役行者像としてはごく珍しい銅像だ。
しかも珍しい等身像(生身の人間と等寸の像)。
僧侶の身に着ける法衣を身に纏い、木の葉で編んだ肩掛けを重ね着し、
頭には頭巾を纏っている。
右手には山岳部を巡るため、杖と野生の動物に対応するための武器にもなる錫杖(しゃくじょう)を持っている。
背後の壁には孔雀に乗った孔雀明王の刻まれた銅版が掲示されている。
『日本霊異記』(810年〜824年に書かれた書)では、役行者は孔雀の呪法を修持し、天に飛び、鬼神を自在に操ったとされるが、そのことを表したものだろう。
孔雀明王とは元はヒンドゥー(インダス川周辺の文化)の神格であり、密教特有の尊格の一尊とされ、衆生に利益を与える徳を表徴する尊格と説明されている。
孔雀はヒンドゥーではコブラなどの毒蛇を食べることから、役行者の大蛇退治伝承に関わるものだと思われる。
ここは密教寺院なので、法衣を纏った像になっているが、役行者は僧侶ではなく優婆塞(うばそく)である。
優婆塞とは出家しないで在家のまま修行する人物のことだ。
役行者は修行する人ではあったが、僧侶とは別の役割を負った人物だったとみられる。
日本から唐へ留学した道昭が唐に向かう途中、新羅の山中で五百の虎(軍兵の暗喩)を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役 小角(えんのおづぬ:役行者)がいて、道昭に質問したと言う伝承があり、役 小角が修行専業者ではなかったことが推測され、さらに新羅と関わりのある人物であることが推測できる。
次の写真は千葉県館山市立(たてやましりつ)博物館の中庭に収蔵されている役行者半跏趺坐像(はんかふざぞう)だ。
●館山市立博物館 役行者半跏趺坐像
この役行者半跏趺坐像は館山の醤油製造業の創業家の自邸に奉られていたものだ。
ネット上に情報があったことから、電話番号も住所も不明だったが、状況説明から場所を探しだした。
しかし、すでにそこからは所有者は退去していた。
だが、周辺で取材して引っ越し先を探し当てることができたので、その屋敷にアポ無しで訪ねて行ったところ、元の場所から退去する際に役行者像は館山市立博物館に寄贈したとのことだった。
そこで館山市立博物館に向かい、学芸員に交渉して撮影することができた。
半跏趺坐像は役行者像としてはルール違反なものだ。
なぜなら、役行者像が椅像(いぞう:椅子に腰掛けた姿)であることには意味があるのだ。
英国のプロデューサーにして映画監督・俳優のリチャード・アッテンボローがアカデミー作品賞と監督賞を受賞した映画『ガンジー』を観ると、少年時代のガンジーが父親の部屋に走ってきて床に腹ばいになり、父親の革靴にキスして挨拶するシーンから始まる。
ヒンドゥーの文化がベースにあるインドでは神は人の目線の高さに足が位置するように椅子に座った姿で奉られる場合がある。
参拝者は神像の足にキスをするのだが、それが一般の家庭に取り入れられており、ガンジー家でも同様に目上の父親の足にキスして挨拶するのだった。
父親に威厳の無い貧しい家でもその風習が取り入れられていたかは不明だが、ガンジーの父親は奴隷売買で富を築き、弁護士を生業とした厳格な人物だった。
そのおかげで、ガンジーは英国に留学できたのだ。
私見だが、日本の頭を下げる参拝や挨拶も、足にキスをする風習が元になっているとみている。
なぜなら、足にキスするには頭を下げることになり、日本にはキスの習慣はないから、頭を下げる部分だけが形として残ったとみられるからだ。
それはともかく、役行者像が仏教の坐像とは異なる稀有なスタイルなのは元にヒンドゥー文化があるからだとみている。
だから、館山市立博物館の役行者像の半跏趺坐は仏教式のものなので、ありえない姿なのだ。
そして、役行者像も本来は人の目線の高さに足が来るように奉るのだが、多くの山を開いて歩いた人物ということから人の頭上に奉られるようにアレンジされたと思われる。
人の頭上に祀られている役行者像は必ず下方に向けて奉られている。
これは衆生を見守る姿を示すためだろう。
館山市立博物館の役行者像は私人が石工に依頼して製作したもので、その石工に密教寺院との関わりがなかったことから、知識が足りなかった結果だと思われる。
以下の写真は2007年に大阪府箕面市(みのおし) 箕面山瀧安寺(りゅうあんじ)で撮影したものだ。
●箕面山瀧安寺 役行者二鬼像
箕面山といえば、西暦658年に25歳だった役行者が弁財天に導かれ、箕面滝で修業して悟りを開いた場所だが、44年後の西暦702年、69才で箕面山へ戻り、奥の院の天上ヶ岳で昇天し、唐・天竺に飛び去ったとされる場所だ。
前の説明で、「(役行者は)人の頭上に祀られるようにアレンジされたと思われる。」と書いたが、瀧安寺の役行者像は、その言葉通り、山を石で組んで、その頂に我々を見守るように奉られ、麓の左右には向かって左に斧(先は破損して失われている)を持った前鬼、右に水壺を持った後鬼が控えている。
役行者の昇天した天上ヶ岳にも、山伏の友人に案内されて登ったが、頂上にも役行者像が奉られていた。
話は二タ宮町にもどるが、この「二タ宮」は「ニ」も「タ」もそれぞれ漢字ともカタカナとも受け取れるが、読みは「にたみや」か「にゆうみや」だろうと思ったら、「ふたみや」という難読地名だった。
ここ二タ宮町の石像の中には役行者像のほかに興味を惹かれた像として、以下の庚申塔(こうしんとう)が存在した。
愛知県では庚申塔は珍しく、像のあるものに遭遇したのは2体目で、しかも合掌六臂(がっしょうろっぴ:腕が6本)の像は初めてだ。
合掌する他の右手上には剣、左手上は御幣と思われものを持っているが、下側の両手に持っているものは不明だ。
頭上には日と月、足下には三猿(聞か猿、見猿、言わ猿)が彫られている。
尾張では庚申信仰は武士によって行われたようだが、三河では農業従事者がメインだったのだろうか。
庚申信仰に関しては以下の記事で取り上げています。
二タ宮町の石造物群前から、さらに366号線を14kmほど上ると、左手に『玉野町』の看板が現れた。
「塩の道・三十三観音の里」とある。
ふと、気づくと死角に入っていた土手の上方に三十三観音がずらりと並び、吹きっぱなしだが屋根が葺かれていた。
壮観だ!
案内板『三十三観音』を見ると、西国三十三か所に由来する観音像ということだった。
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玉野町 三十三観音以降、レイライン上(幅0のラインから両側に250m以内)に存在する複数の要素が、厳密に調べたところ、いずれもレイライン外に存在していることが確認できたことから、豊田市足助町 今朝平遺跡と刈谷市天王町 本刈谷貝塚を結ぶ記事は、三十三観音が、このレイラインの最北西に位置することが判りましたので、この記事までで終了ということになりました。
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