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麻生田町大橋遺跡 土偶A 126:アメノウズメとアメノコヤネ

豊橋市石巻本町の椙本(すぎもと)八幡社から宮下橋に戻り、牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)に沿って南下している県道69号線で下流に向かいました。

宮下橋から290mあまり牟呂松原幹線水路を下ると、県道362号線の通っている小倉橋に至った。
道幅6mほどで上下2車線の県道69号線は、そのまま小倉橋の北側で県道31号線に名称が変化しており、その31号線も小倉橋までで途絶え、小倉橋から南に延びる牟呂松原幹線水路沿いの道は道幅が2mの農道になった。

小倉橋周辺は県道が通っていることから交通量が多く、愛車を駐めておくスペースに困ったこともあって、撮影はしなかった。
小倉橋を通過して幅2mの農道に入ると、10m以内の両側にステンレスの杭が立てられており、4輪車の侵入を阻止するようになっていた。
もちろん私の愛車は2輪車なのでその杭の間を通過したが、もしかすると、自転車だけ通れるようにしてあるのかもしれなかったが、何も表示が無いので、そのまま侵入した。
小倉橋に至って、初めて右手(西側)の眺望が開け、牟呂松原幹線水路が丘陵の端の高い場所を通してあることが視認できた。
つまり、牟呂松原幹線水路が人為的な水路であるということだ。

小倉橋から710m近い下流までは橋が存在しなかった。
710m近く橋が存在しなかったのは牟呂松原幹線水路を辿り出して、初めてのことだ。
この710m近くの間は両側が深い森になっており、人家が無いことから橋の必要性がない場所なのだ。
牟呂松原幹線水路の西側の深い森は幹線水路が丘陵の端にあることから、幹線水路の護岸の目的もあるのだと思われる。
そして、710mぶりに現れた橋は初めて欄干がスチールでできた橋だったので、思わず撮影した。

ただこの橋、ネームプレートが取り付けてなく、橋名は不明だ。

不明の橋上から上流側の水路を見下ろすと、3つの水路はほぼ等幅になっているが、左岸側(下記写真右端)の用水路だけ水がまったく無かった。

このスチールの欄干を持つ名称不明の橋を渡った道路は東西に延びており、地図を見ると、橋から340mあまり北西の場所の道路の北側に「比賣(ひめ)天神社」という気になる社名の神社が存在した。
なので、比賣天神社に向かった。

比賣天神社の社頭は道路に面し、南々西を向いた石鳥居が三段の石段の上に建てられていた。

社号標には「村社 式外 比賣天神社」と刻まれている。
格の高い「式内社(国が祀った神社)」を名乗るのは解るが、わざわざ格の低い式外社を名乗るのはなぜなのかと思ったのだが、多くの式内社は少なくとも平安時代中期にはすでに祀られていた神社であり、「式外社」は式内社以外の神社を示すことから、「式内社ではないが、式内社が認定された時代にはすでに祀られていた神社」という箔を誇示しているのかもしれない。
石段から鳥居をくぐって奥に延びるコンクリートでたたかれた表参道の先には瓦葺の拝殿が立ち上がっている。

愛車を比賣天神社と敷地のつながっている西側の公会堂の駐車場に入れ、社頭に戻って、石段を上がった。
石鳥居は台輪鳥居で、鳥居の奥の拝殿は1.2mほどの石垣上に設置された瓦葺入母屋造平入の建物で、珍しく軒下に張られた注連縄の両側に日ノ丸の国旗が掲げられていた。

拝殿前に上がって参拝したが、ネット情報では祭神は鈿女命(ウズメ)とされ、なんと、文武天皇(697年~704年)の御代に創建された神社だという。
奈良時代の創建ということになる。
社名の「比賣」は鈿女命を指しているわけだ。
鈿女命は『日本書紀』では「天鈿女命(アメノウズメ)」と表記され、この神社の社名のように「天神(皇室や有力豪族の祖先とされる神々)」とされている。

アメノウズメは「岩戸隠れ」の神話に関わっており、『古事記』には以下の記述がある。

槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。
〈現代語訳〉
桶を伏せて、その上で脚を踏み鳴らし、トランス状態になってエロティックな出で立ちで踊った。

アメノウズメはこの神話から踊り手として知られるが、このことから、芸能の神として祀られる場合がある。
このことと無関係でないのは、ここ比賣天神社には雨乞面(あまごいめん)というものが伝わっていることだ。
境内には『豊橋市指定有形文化財 比賣天神社の雨乞面』という案内板が掲示されていた。

女面の裏面には墨書銘で 「文明参辛卯年(1471) 十二月十七日和田郷」とあります。これは、面の制作年か寄進の年月日かは判明しませんが、面の保存は比較的よく、深い味わいのある面です。
元禄7年(1694)3月付、下条堀之内村庄屋の記録 「産神天王社雨乞祈念ニ付覚書之事」 とある文書によると、霊験あらたかな雨乞の面として信仰され使用されてきたことが記録されています。これらの面は、仮面研究上において、非常に貴重な文化財といえます。

5面存在する雨乞面のうちの3面が以下だ。

雨乞面(女面)/雨乞面/雨乞面

干天続きの時、雨乞いで神楽が神に奉納される際に使用される猿楽面である可能性がある。
なぜなら、アメノウズメは猿女君(さるめのきみ:古代から朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族)の祖神だからだ。
「猿」は夫とされる説のある猿田毘古(サルタヒコ)を示す言葉でもあるが、「戯(さ)る=たわむれる」への当て字を変更したものとも言われる。

もう一つ、アメノウズメは牟呂松原幹線水路の上流に祀られていた椙本八幡社の境内社に名の見えた「アメノコヤネ」とも関わりがあり、

豊川の左岸にアメノウズメとアメノコヤネが祀られていることは偶然ではない可能性がある。
アメノウズメは以下の四柱と共にニニギに随伴して天降りしているのだ。

・天児屋命(アメノコヤネ)
・布刀玉命(フトダマ)
・玉祖命(タマノオヤ)
・伊斯許理度売命(イシコリドメ)

ニニギ一行はこの時、天降りしようとしている際に猿田毘古と遭遇し、アメノウズメが猿田毘古との面談役を担っている。

拝殿前から西側に降りて、社殿の全体を観ると、拝殿の裏面には渡殿と紅梅色の壁を持つ瓦葺切妻造平入の本殿覆屋が連なっているのだが、本殿覆屋にはその左右に本殿覆屋をスケールダウンした覆屋がくっ付いている。

おそらく、鈿女命に関係する神が祀られている覆屋だと思われるのだが、ネットの情報では触れられていない。その候補者の一柱はサルタヒコだ。あるいは共に「岩戸隠れ」神話に関わった天児屋命と布刀玉命も候補者だ。

比賣天神社の境内にはほかに石祠が、1棟祀られていたが、これに関する情報も見当たらない。

比賣天神社を出て、牟呂松原幹線水路に架かったスチールの欄干を持つ橋に戻り、橋上から下流側を見ると、30m以内に橋が架かっているのが見える。
水路は左手の用水内に少し水の痕跡が見て取れる。

見えている橋に移動すると、この橋には「萱野橋(かやのばし)」のネームプレートが付いていた。
萱野橋上から上流を見るとスチールの欄干の橋が見える。

一方、下流側は以下の風景で、大きな変化は無い。

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雨乞面は三河の複数の寺社に残されています。以下の賀茂町 賀茂神社の記事でも紹介しています。
https://note.com/38rashi/n/n0b6ac7917a78

しかも、賀茂町 賀茂神社に残された面の中には猿田彦面が含まれているのです。

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