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麻生田町大橋遺跡 土偶A 99:立葵紋のトリプル

豊橋市賀茂町の賀茂神社の大鳥居をくぐると、鳥居のすぐ先は表参道と脇参道が十字に交差していて、その交差点の右手前に枝を素直な放射状に広げている神木がありました。

前書きで紹介した下記写真の神木には豊橋市の製作した、以下の案内板が立てられていて、樹種は「カツラ」であることが判りました。

《賀茂神社のカツラ》
所在地 賀茂町宇神山2
本市のカツラのなかではもっとも大きい
複数カツラをみることができる
幹周:210m/高さ:14.5m
枝張り:12.3m×12.1m/推定樹齢:70年以上
科名:カツラ科カツラ属/分布:本州・四国・九州

カツラの樹木を認識したのは初めてだ。

大鳥居前の交差点から表参道を北に向かうと、すぐ右手に大きな手水舎が建っていて、神前幕が巻かれていた。

大きな神前幕には白地に葵紋が墨で入っているのだが、見たことのない葵紋だった。
調べてみると「立葵紋(たちあおいもん)」であることが判った。

問題は立葵紋を使用した賀茂神社が以下の総本社候補3社の中に存在しないことだ。

高鴨神社(主祭神:阿遅志高日子根命
賀茂別雷神社(祭神:賀茂別雷大神
賀茂御祖神社(祭神:賀茂建角身命玉依媛命

賀茂町 賀茂神社と祭神が一致するのは賀茂別雷神社(かもわけいがづちじんじゃ)なのだが、神紋が一致していない。
賀茂町 賀茂神社の神紋にもっとも近い神紋を使用しているのが松尾大社(まつのおたいしゃ)であることを突き止めるには、手間がかかった。
松尾大社と賀茂別雷神社&賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)はいずれも京都に祀られた大社で「東の厳神(賀茂別雷神社&賀茂御祖神社)、西の猛霊(松尾神社)」と並び称され、以下の関係にある。

・賀茂氏氏神 賀茂別雷神社&賀茂御祖神社
・秦氏氏神 松尾大社(旧称:松尾神社)

ともに皇族を支えた一族だが、ある意味ライバルでもある。
もし、賀茂町 賀茂神社の実態が松尾大社なら、ライバルの氏神を祀っていることになってしまう。

松尾大社の祭神は大山咋神(オオヤマグイ)と中津島姫命(市杵島姫命の別名)である。
もし、賀茂町 賀茂神社が賀茂氏の祀った神社なら、わざわざ松尾大社を連想させる神紋を今まで使っている必然性が無い。
もし、賀茂町 賀茂神社が秦氏の祀った神社なら、他氏族のものである「賀茂神社」という社名と賀茂氏の神である賀茂別雷命を祀ることは許容できないはずだ。
これは秦氏だけではなく、社名と神名に「賀茂」が付いていたら、賀茂氏以外の他氏族が祀ることは考えられないことだ。

一般に三河で「賀茂」というと、賀茂氏説のある徳川家の本家である松平氏の名が真っ先に上がる。
しかし、松平氏が賀茂町 賀茂神社に関わっていたなら、祀った賀茂町 賀茂神社の神紋に松尾大社を連想させる神紋を使用することはあり得ない。
だが、賀茂氏裔ではない一族が賀茂神社を祀ったのなら、事情は変わってくる。

戦国時代に入ると、徳川家の本貫である三河では、この事情が変わってくる。
生き残るためには賀茂氏or秦氏というよりも、松平氏(徳川家本家)との関係の方が重要になる。
松平氏(徳川家)が葵巴紋(通称三つ葉葵紋)を使用していることから、松平氏(徳川家)に恭順の意を示すには自分たちも賀茂氏裔であることを表明して、葵紋の使用を許してもらうのは一つの方法なのだ。

松平氏(徳川家)の家臣の中には松尾大社の立葵紋とも徳川家の葵巴紋とも似た家紋を使用した本多家が存在する。
しかし、本多家は一向一揆で、徳川家康に反抗して、後に家臣に出戻りした前歴がある一族なのだ。
系譜が不明確な本多氏が三河にやって来たのは室町時代のことである。
賀茂氏でも秦氏でも無い可能性の高い本多家が一族の生き残りをかけて地元に氏神を祀るならどうするだろう。
徳川家と同じ系統の葵紋を使用している神社(賀茂別雷神社or賀茂御祖神社)を祀り、本多家家紋と相似な神紋を採用することに問題は無いだろう。
問題無いどころか狙って実行した可能性だって考えられる。
家紋が松尾大社神紋と相似なところのある家紋(立葵紋)であっても、何も問題は無い。
ただ、賀茂町 賀茂神社の由緒には創建は729年とあり、それが本当なら本多家は無関係だろう。
しかし、賀茂町 賀茂神社の歴史は創建から安土桃山時代まで飛んでおり、本多家が関わる隙は十分あっただろう。
本多家が勢力をもっとも広げたのは江戸時代に入ってからのことなので、賀茂町 賀茂神社に関わりがあっても不思議ではない。
ただ、賀茂町と本多家との関わりに関する情報があるわけではない。
本多氏が本姓を賀茂氏だと自己申告しているのみなのだ。
一方、賀茂町 賀茂神社は葵巴紋を使用しておらず、徳川家と特別な関係のある神社ではないようだし、もし、松平氏が関わっているなら、社名・祭神と神紋に矛盾が生じることはないだろう。
いずれにしても、松尾大社、賀茂町 賀茂神社、本多家の3者が意匠は少しづつ異なるものの、「立葵紋」を使用しているのだ。

葵紋のモデルになっているフタバアオイは以下のように葉の根元が二つの円弧になっており、その形状が名称になっている。

つまり、葉が1枚でも「フタバアオイ」なのだが、徳川家家紋の通称「三つ葉葵」は葉の形状ではなく、紋に使用されている葉の数を指している。

花の形状に関しては以下のような形だ。

この写真からすると、賀茂町 賀茂神社の神紋の方が松尾大社の神紋より写真の花にイメージが近い。

下記写真、右端が手水舎。

正面が四脚門で、手水舎と同じ神紋の入った白い神前幕が張られている。
門の両袖には瓦葺で河原石で石垣を組んだ白壁が延びている。

四脚門左手の白壁の前には、最近の神社では見なくなったおみくじ掛けが、立てられていた。

隣には絵馬掛けもあって、立葵を持っている三足烏の背後に祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を表す稲光が描かれ、右肩に「導」とある。

稲光は賀茂別雷

を表しているのだが、三足烏(八咫烏)と「導」は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を表わしたものだ。
賀茂別雷神社と賀茂御祖神社はセットということなのだろう。

絵馬掛けの隣にはしょうぶが黒紅色の蕾を付けていた(ヘッダー写真)。

一方、四脚門の右手の白壁の前には指定文化財になっている賀茂神社の仮面の写真が掲示されていた。

猿田彦古面に関しては以下の説明文があった。

県指定有形文化財
【猿田彦古面】 1面
この古面は神事に使用されたもので、作風は古調を伝え雄偉(えい)のうちに力を備えた手法で、なかなかあなどり難いものを示しています。 色彩は剥落していますが、頭部の浅い彫法・紐穴が2つある点などと合せて、室町期に属するものと思われます。

ほかの仮面全般に関して以下の説明文があった。

市指定有形文化財
【賀茂神社の仮面】 6面
もとは祭典や行事などに用いられたようですが、今はこれらの面を使用する行事や由来 などは分かっていません。伎楽面から能面にいたる過渡期の作品として、仮面研究上貴重なものです。

四脚門をくぐると、40mほど奥に本瓦葺入母屋造平入の迫力のある造形の拝殿が祀られていた。

ここにも神紋の入った神前幕が張られている。
拝殿前で参拝したが、境内に本社には大伴神社と天満宮が合祀されているという参拝案内板が掲示されていたが、祭神に関して紹介されていなかった。
大伴神社(おおともじんじゃ)の総本社は、はっきりしないのだが、多くの大伴神社に共通して祀られているのが天忍日命(アマノオシヒ)だ。
天忍日命は大伴氏の祖神とされる。
大伴氏が賀茂氏と秦氏のどちらと関係があってここに合祀されているのか調べてみたところ、東三河には元々、大伴氏の祖神・大伴明神が祀られており、その後、賀茂別雷神が勧請されたという情報にぶつかった。
大伴氏は少なくとも賀茂町に賀茂別雷神が祀られる79年前の白雉元年(650年)には、ここに大伴明神を祀っていたというのだ。
つまり、現在は賀茂神社の方がメインになっているが、当初は大伴神社の方がメインだったことになる。
そして、賀茂神社の総本社は京都と奈良の3社のいずれでもなく、ここ賀茂町 賀茂神社だと言うのだ。
そして、賀茂町 賀茂神社には秦氏も関わっていないことになる。

本殿に関してはは白壁の外側から観た。

(この項続く)

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賀茂氏の文部省推薦の著名人というと、平安時代の歌人の鴨長明(下鴨社家)と江戸時代の歌人賀茂真淵(上賀茂社家)ですが、賀茂真淵は国学者としての方が知られています。一方、不条理系の人物としては飛鳥時代の呪術者役行者(えんのぎょうじゃ)として知られる賀茂役君小角(かものえだちのきみおづぬ)と、安倍晴明の師とされる平安時代の陰陽師賀茂忠行(かものただゆき)が存在します。三河にはあちこちに、役行者像が祀られており、小角の本拠地である吉野に祀られている石像より三河の石像の方が素晴らしいものが多く、賀茂町が存在していても不思議ではありません。

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