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中条遺跡 土偶A 12:メタリックな小人神

ここからは刈谷市重原本町(しげはらほんまち)5丁目に存在する中条遺跡(なかじょういせき)周辺に存在する刈谷市内の縄文期の遺跡を紹介していきます。

●中条遺跡 土偶A

中条遺跡の北西3km以内に位置する天子神社貝塚(あまこじんじゃかいづか)に向かうことにした。

1MAP天子神社貝塚/中条遺跡

天子神社に向かうのは2度目になるが、1度目からは10年ほど経っており、その境内に天子神社貝塚碑があることは、すっかり忘れていた。
当時は縄文遺跡に全く興味が無かったからだ。
目標は天子神社となるので、天子神社のある小山町に向かった。

天子神社の社頭は境内の南60m以内に位置し、境内と一ノ鳥居は無舗装の表参道で結ばれているのだが、並行して舗装された一般道が通っており、参道と一般道の境は無いため表参道は周辺の地元民などの駐車場と化している。

1天子神社社頭

この日は鳥居の前に乗用車が駐車されていた。
石造の八幡鳥居の脇には社号標があり、達筆で「天子神社」と刻まれている。鳥居をくぐると、鳥居の周辺のみ純白の砂利が敷き詰めてあり、参道の右手に祓所が設置されている。
祓所と境内の入り口に設置されたニノ鳥居までは参道と駐車された車以外、何も存在しない。
ここにやって来たのは3月初旬のことだったので、杜の落葉樹は未だ葉が落ちたままの状況だった。

2天子神社杜

この杜を囲う生垣の外側に教育委員会の制作した刈谷市特有の案内碑に以下の一文があった。

 天文21年(1552)8月15日、伊勢国の住人小山太郎・加藤藤麿などが来往して正殿を創立した。以来当地の氏神として少彦名命(すくなひこなのみこと)を崇め、天子大明神とした。境内に稲荷社と山神社の末社がある。
 境内地には天子神社貝塚が広がっており、土器・石器・骨角器・貝製品などの他貝類・獣骨などが出土している。昭和42年3月17日愛知県下における縄文時代後期の代表的遺跡として、愛知県史跡に指定されている。

残念なことに、ここでは現時点で土偶は出土していないし、ここに祀られた三柱の神も土偶や竜蛇神とは直接の関係はなさそうだ。
ただ、主祭神の少彦名命は舟に乗って現れた小人の神であり、市井の言語学者川崎真治氏の著作『方舟に乗った日本人』によれば、シュメール語の「シュクナービクナ」や類似のバビロニア語は「スクナヒコナ」と相似の語感であり、「水夫」の意味だという。
実際、少彦名命の神徳の中には「航海安全」も含まれている。
『古事記』には以下のようにある。

大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神
現代語訳:大国主神が国造りをどうしようかと現在の美保岬で海に向かって座っていると、鵝(ヒムシ=蛾)の皮の衣を纏った神が天之羅摩船(アメノカガミフネ=ガガイモの実の殻を使用した船)に乗って波の彼方よりやって来ました。

通常なら「アメノラマブネ(天之羅摩船)」と読むべき言葉が、なぜ「アメノカガミフネ」とされているのか。
「羅摩(らま)」は乾燥させたガガイモの粉(羅摩子:らまし)と解釈されたものと思われる。

また、ガガイモの「ガガ」も「カガミ」を省略したもので、それは乾燥したガガイモの果実の殻の内壁や果実の綿毛がメタリックな白色(=銀白色=鏡)をしていることによる。
ガガイモの果実の内壁や果実とは以下のようなものだ。
下記の画像をクリックすると、別の写真が開きます。

つまり、「羅摩船」を「鏡船(カガミフネ)」と解釈したものだ。
写真からも、小人にとって、乾燥して二つに割れたガガイモの果実の殻がカヤックのような軽量な乗り物になることが想像できる。

もう一つの謎の「鵝の皮の衣」だが、想像するだに奇妙な衣だが、「鵝」はガチョウの語源でもあり、少彦名命が等身大の神であるなら、ガチョウの羽毛のスーツを着こなした神だったとも受け取れる。
その縮小版ということで、「鵝の皮の衣」となったのだろう。
蛾の表皮には鱗粉が着いており、ガガイモの綿毛と同じく、メタリックな輝きのある材質であることが推測できる。

それらはさておき、縄文期の天子神社貝塚は衣浦湾(きぬうらわん)に面していた。

2MAP縄文海進4m

ここに小山太郎・加藤藤麿などが少彦名命を祀った天文21年は室町期であり、縄文期に近い海進状況にあったとみられ、伊勢国の住人はここを出雲に見立てたものと思われる。
なお、現在のここの町名「小山町」は小山太郎、もしくは小山家に由来するものと思われるが、その小山町に位置する天子神社本殿の裏面は天子神社の境内より6.6m低くなっており、以下のような水田地帯となっている。

3旧衣浦湾

上記写真中央はこの水田地帯唯一の溜池。
溜池の向こう側の左右に延びる丘は逢妻川(あいづまがわ)の堤防。
その向こう側に連なる赤白の鉄塔と濃い森は半田市側に存在するものだ。

さて、少彦名命の祀られたこの杜のニノ鳥居をくぐると、本瓦葺入母屋造平入の本堂はニノ鳥居の正面にあるのに、コンクリートでたたかれた表参道はニノ鳥居から真っ直ぐ拝殿には向かわず、くノ字型に折れて、拝殿に到達している。

4天子神社拝殿

教育委員会や、この神社の由緒からは省略されているが、この境内からは埋葬人骨6体が出土しており、出土場所を避けたりした結果なのかもしれない。
ガラス戸の閉まった拝殿前で参拝した。

さて天子神社貝塚だが、「天子神社貝塚」と刻まれた巨大な石碑があるのを思い出した。

5天子神社貝塚碑

最初にここにやってきた時には磐座には興味があったので、天子神社貝塚碑の、前にある岩には興味を惹かれた。
白い砂利の敷き詰められた中に自然石を縁石とした矩形のプールがあり、
その枠内に大・中セットのように岩が置かれており、一般的には夫婦岩と解釈されるものだ。
ネット上には大・中の岩に注連縄がかかっている写真もあり、磐座なのは間違いないのだが、古代からあったものではなく、この神社が創建されて以後に置かれたものだろう。
主祭神からすると、大国主命と少彦名命の大小コンビを意味するものである可能性もある。

ところで貝塚だが、『じゃらん』の公式サイトに以下の情報があった。

神社境内の北西から南東にかけて貝塚が広がっている。昭和23・24・40年に発掘調査が行われ、縄文時代後期・晩期の土器をはじめ、石鏃や磨製石斧、石錘等の石器、貝輪や骨角器が出土した。

上記のように、様々なものが出土しているが、個人的に唯一興味を惹かれたのは、刈谷市郷土博物館に展示されていた編布圧痕のある土器片から現代に再現した網布だった。

6天子神社貝塚:編布圧痕跡のある 土器片底部/編布圧痕から複製した網布

縄文時代というと、この網布のような目の荒いものを想像してしまうが、縄文期の布の中には江戸時代の布に匹敵するような目の細かい布片も出土している。

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少彦名命が中近東からやって来た人物としても、ダウンの暖かさを知っていた地域を通って船で渡って来たのだと思われますが、小生もかつてウサギの毛皮のジャンパーを持っていましたが、毛が表に出ていると、着ていても、猫を抱いているように気持ち好い。
だから、ガチョウの羽毛のスーツがあれば欲しいですね。
メタリックなコスチュームの好きなレディー・ガガはガガイモを知っているだろうか。

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