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麻生田町大橋遺跡 土偶A 153:縄文貝塚を利用した前方後方墳

豊橋市牟呂市場町 市杵嶋神社の拝殿の西隣には注連縄の張られた2棟の建物が並んで祀られていました。

2棟とも瓦葺切妻造平入の建物は4段の石段の上のコンクリートでたたかれたプレーンな壇上に並び、壇上の両側にはモダンな常夜灯が設置されていた。

拝殿に近い向かって右側の建物は軒下に「水神社」の文字が刻まれた額が掛かっている。

水神は牟呂松原幹線水路の中流にも石碑が祀られていたが、どちらも牟呂松原幹線水路との関連で祀られたものかもしれない。

市杵嶋神社境内社の水神社は葺かれた屋根も新しいが、躯体の正面は経年変化した木部に合わせた利休鼠色のアルミサッシの壁と格子戸で覆われている。

参拝して格子越しに殿内を観ると、殿内は素木の板壁で奥に棚が設けられていて、紫の神前幕の奥の本殿の扉が閉じられていた。

扉の前に設けられた机には水神と関係のある水玉とお神酒の瓶子を乗せた三宝が置かれ、机の向かって左に白木御幣、右に複数のお神酒の箱が置かれている。

水神社の左隣の覆屋は部屋が壁で2つに分かれた吹きっぱなしの建物だった。

その向かって右側の部屋に祀られていたのは庚申塔(こうしんとう)だった。

「庚申塔」という言葉を知らなければ読み取れない石碑だが、「庚申」の上にも何か2文字くらい刻まれているようなのだが、読み取れない。
屋内には砂利が敷き詰めてあり、庚申碑の左手前に石仏のようなものが置いてあるのだが、情報が無く、不明だ。
道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑だが、庚申信仰とは庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰のことだが、その行事の内容は時代や地域によって異なり、変遷している。
本州と四国のほぼ全域を巡った印象では、庚申塔は関東、特に東京では路肩に最も多く見られ、三河や尾張で見掛けることは稀なものだ。
だから、こうして屋内に大切に保存され、祀られているのだろう。
庚申碑の前の拝石には大きな皿が三つ並べられ、その一つには塩が盛ってある。
蝋燭立ても3基置かれ、拝石の向かって左には線香立ても置いてあるから、現在は密教と関連して祀られているようだ。

庚申塚の左隣の部屋には同じように砂利が敷き詰められ、役行者石像が祀られていた。

左手首から先は欠損しており、右手に持っているはずの錫杖は失われている椅像(いぞう:腰掛けている仏像)だ。
周囲には七福神関係の像が三種置かれているが、役行者と関係のあるのは七福神の中の一柱、弁財天のみだ。
役行者が祈り出した弁財天が祀られているのが奈良県天川村の大峯本宮天河大辨財天社だが、かつての牟呂市場町 市杵嶋神社(弁天社)は天河大辨財天社と関係があるのだろうか。

水神社と「庚申塔・役行者」覆屋の間は通路になっていて、通路の突き当たりに左に傾き、注連縄の張られた石が、立派な机状の拝石の奥に祀られていた。

陽石だと思われるが、この石の前脇には庚申塔が祀られており、庚申塔は道祖神として建立されることもあるので、この陽石も牟呂村の道祖神である可能性がある。この陽石の背後の森の地面にも貝殻が混じっている。市杵嶋神社のことを調べていると、なんと!ここは「市杵嶋神社古墳」という市杵嶋神社貝塚のマウンドを利用して3世紀末(古墳時代前期)に築造された、全長60m、高さ5mの前方後方墳だということが判ってきた。出土物は墓石と土師器となっている。
被葬者に関する情報は無いが、三河地方最古の古墳である

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ここ、牟呂市場町 市杵嶋神社から南東に位置する牟呂用水(牟呂松原幹線水路)の終着点までは40mあまりです。

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