伊川津貝塚 有髯土偶 58:華山&式次郎の農地改革
愛知県田原市西神戸町を北東に向かってきた汐川(しおかわ)は赤松一本橋を越えるとほぼ北に向かうように方向転換し、左岸の堤防上をたどると、360m以内で中田橋に到達しました。
中田橋は上流側にあった橋と同じ既成のガードレールに鉄板の手すりを乗せた欄干の両端に細かな石粒を練り込んだ人造石の親柱を設置したものだった。
それは左右対になった親柱をくの字形に開いたプレーンな造形で、それに橋名を浮き彫りにして枠を付けたブロンズのプレートを取り付けたシンプルなものだった。
志田橋上から見下ろす汐川の上流側(ヘッダー写真)は1つ上流側の赤松一本橋上から見下ろしたのと、ほとんど変わらず、それは反対側の下流側も同様で、遠景に望める田原市の中心街が少し近づいたくらいの変化だった。
さらに中田橋から左岸堤防をたどると、440mあまりで、加治橋に出た。
加治橋の右岸(上記写真奥側)はすでに神戸町(かんべちょう)となっており、神戸浄化センターの施設の建物が見えている。
加治橋は、ちょうど中田橋から親柱を省略した形になっていた。
加治橋上から上流側を見下ろすと、水質や風景にほとんど変化は無いものの右岸側(上記写真左側)から合流する青津川の水路があったが、下記写真ではほんのわずかしか見えていない。
下流川を見下ろすと、加治橋直下で水路は大きく広がり、右岸(写真右側)の岸辺に2基の板碑が設置されているのが見える。
これが汐川改修之碑ほかの記念碑だ。
右岸の赤い屋根を持つ大型マンションがかなり近づいてきた。
加治橋下流の川幅の広がりはここの汐川堤防に樋門が設けられているためだった。
樋門の出現は汐川で初になる。
この樋門は神戸浄化センターの浄化槽に水を引き込むためのもののようだ。
加治橋を右岸に渡ると、神戸浄化センターの周囲には浄化槽らしきプールが設けられていたので、加治橋から堤防を上流側に少し戻る形でプールの南端側から撮影したのが下記写真だ。
神戸浄化センターは神戸町の公共下水道事業のために設置された施設だ。
加治橋に戻り、右岸堤防上を50mあまり北上して2基の記念碑に向かった。
2基の記念碑は汐川に青津川が合流する三角州の上に設けられた堤防上の草原に南南東を向いて並んでいた。
2基の記念碑の前には人為的に植えられたと思われる生垣があった。
2基のうち右側が汐川改修之碑。
何のために汐川は改修されたのか。
「田原町史 下」(1978)302〜307頁によれば、1897年頃(明治時代)の汐川は川幅が極端に狭く曲がりくねっており、流域には谷底平野や浅い谷が存在し、雨季には氾濫が起きたという。
それに汐川地域に二毛作が可能な耕地が増え、地元の農家は汐川の水路を広げ、真直ぐに通すことで氾濫を押さえ、二毛作が可能な耕地を整理することを望んだ。
その成果を記念して建てられたのが汐川改修之碑だ。
この事業を計画して実行したのが当時の神戸村長、仲井式次郎だった。
この仲井式次郎を頌徳(しょうとく:徳をほめたたえること)するために建てられたのが汐川改修之碑左隣の頌徳碑だ。
●政治家渡辺崋山と画人崋山
汐川改修の前に現在の田原市(三河田原藩)の農地改革をした人物が存在する。
江戸時代の三河田原藩家老、渡辺崋山(かざん)だ。
三河田原藩は半島という立地条件から慢性的な水不足と強風、さらに土地がやせていたため農業は盛んではなかった。
しかし、この農地改革で農学者大蔵永常を田原に招聘して鯨油によるイネの害虫駆除法の導入を行い、大きな成果をあげたという。
農作物以外にも木蝋の採取できる資源作物であるハゼノキ、和紙の原料となるコウゾの栽培と利用法を広め、藩士の内職として土焼人形の製造法なども指導した。
これらの事業で藩に食料備蓄庫を築き、倹約と領民救済の優先を徹底させたことで、天保の大飢饉(1836年)の際に藩内から餓死者を出さなかったことから全国で唯一、幕府から表彰を受けた。
侍ではあったものの、貧困の中で育った渡辺崋山は藩政に関わるようになる前の20代半ばには、すでに画人として世に知られるようになり、その技能で家計を助け、貧困から脱け出すことができた。
渡辺崋山は特に肖像画で知られ、1821年制作の以下の代表作「佐藤一斎像」などが東京国立博物館に所蔵されている。
有髯土偶(ゆうぜんどぐう)といい、「佐藤一斎像」といい、渥美半島の名品は東京国立博物館に集められている。
そういえば、名古屋市内の星崎に落下した日本列島で2番目に旧い南野隕石も東京国立博物館に行ってる。
南野は我が父親の実家のある場所であり、その実家の前には永井荷風の兄の経営する酒屋があったことから、折があれば荷風が訪問していたといいます。
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晩年の渡辺華山は密かに反幕となる開国論者であったことから、蘭学者を代表する高野長英らと親交を持つようになり、その集まりが儒教を信奉する幕府の役人に目をつけられ、反幕を策謀した首謀者とされた高野長英は永牢(無期懲役)、崋山は田原へ蟄居(ちっきょ:家に閉じこもって活動しないこと)となりました。そのため家計を自分で維持しなければならなくなったことから多くの名画を描いたのですが、このことから、今で言うなら執行猶予中に身を慎まなかったという悪評が立ちました。華山はこのことが三河田原藩取り潰しにつながることを懸念し、切腹して49年の生涯を終えたのです。