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麻生田町大橋遺跡 土偶A 35:萌える稲魂

豊川市のおゆき弁財天から下条西町にある市杵嶋姫神社に向かう途上に位置する豊川稲荷に参拝していくことにしました。

豊川稲荷は神社系の伏見稲荷大社(総本社:京都市)とは異なり、仏教系の稲荷社。
他に稲荷社と呼ばれる神社は少なくとも3種の社が存在し、それぞれ祭神が以下のように異なる。

・伏見稲荷大社      主祭神:宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)
・豊川稲荷(円福山豊川閣妙厳寺内鎮守) 
              祭神:吒枳尼眞天(ダキニシンテン)
・穴守稲荷神社       祭神:豊受姫命(トヨウケビメ)
・箭弓稲荷神社       祭神:保食神(ウケモチ)
千葉神社境内社 稲荷神社 祭神:大宜都比売神(オオゲツヒメ)

上記の祭神のうち、豊受姫命、保食神、大宜都比売神の3神はウカノミタマと同一視されている。
仏教系の豊川稲荷の吒枳尼天は神道系の神とは違い、天部の神だ。
鎌倉時代に祀られるようになった吒枳尼天を全国の寺社に勧請していたのは伏見稲荷本願所だった愛染寺だったが、江戸時代に愛染寺が廃寺になったことから、豊川稲荷が総本社のような役割を果たすことになった。

豊川稲荷にやって来たのは3度目になるが、最初は幼児期に父親に連れられて初詣に来たようなのだが、人混みと本堂の記憶しか無い。
2度目は11年前のことで、飯田線で豊川駅で下車して、友人たちと妙厳寺の境内で待ち合わせて参拝した。

豊川稲荷は麻生田町大橋遺跡の西南西1.9kmあまりに位置している。

豊川市内

豊川稲荷の表参道はJRと飯田線の通っている東側から商店街になっている表参道が延びており、その商店街を抜けると曹洞宗寺院である円福山豊川閣妙厳寺の総門前に出る。

円福山豊川閣妙厳寺(豊川稲荷) 総門

1441年に創立された妙厳寺の総門は明治期に改築されたものだ。
銅板鱗葺で、この日は軒下に白地に墨の抱き稲荷紋の染められた仏門幕が張られていた。
門前には1対の凝った、唐金手彫り(からかねてぼり)した龍や鯱鉾などの装飾の施された大きな銅の灯篭が建てられている。
その左手前には「豊川稲荷」と刻まれた社号標が建てられていた。

時間は午後も遅くなっていたので、愛車は閉められてしまう恐れのある駐車場には入れないで、少し離れた場所の歩道上に駐めて、総門まで戻ってくることになった。

門扉には渦巻く波に囲われたイソギンチャクとヒトデを図案化した、すばらしい唐金手彫りの装飾金具が取り付けられていた。

欅製の門に装飾された唐金手彫りの装飾金具

素晴らしいのは装飾金具だけではなく、その金具の取り付けられた厚さ15cmだという欅の一枚板は樹齢1000年以上を重ねた素晴らしいもので、渦巻く水流のような木目を見せている。

総門は南東を向いているのだが、それをくぐると参道はほぼ真西に延びており、60m近く先に位置する山門をくぐっているのだが、山門の手前、参道の左右には金木犀(きんもくせい)が葉を繁らせているが、小高木樹であることからすると巨木といってもよいもので、左手の金木犀の周囲をかなりの数の蓮の鉢植えがサークル状に並べられていた。

山門をくぐると、右手には大きな建物、全長47.27mという最祥殿があり、その前に赤色の献灯が壁のように並べられていた。

最祥殿 献灯

総門と山門を通っている参道は瑞祥殿に到達するのだが、この建物は参拝所ではなく、婚礼の儀を行う建物、つまり結婚式場なのだ。

参拝するための参道は瑞祥殿に向かう参道と並行して40mあまり南側にあるので、初めて豊川稲荷に参拝に来た人間は全員がとまどうことになる。
こんな不可解なことになったのは明治政府による神仏区別のせいで、江戸時代には庶民に人気のあった越前守(えちぜんのかみ)、大岡忠相や渡辺崋山が信仰したことにより発展して、表参道には千本鳥居が立ち並んでいたという。
千本鳥居は妙厳寺の境内案内絵地図を見ると、奥の院の参道に書き込まれているので、みられるのかもしれない。
曹洞宗寺院である妙厳寺の前身は豊川の近くにある高台の上に開かれた真言宗寺院であり、豊川稲荷は妙厳寺が創建される以前からそこに祀られていたものだという。

目的は南側にある豊川稲荷なので、その表参道の方に移り、一ノ鳥居から出直すことにした。

豊川稲荷 一ノ鳥居

一ノ鳥居は石造の明神鳥居で、鳥居前両脇には使いの狐が姿を現し、そこから先の石畳の表参道には左右に白地に墨で「豊川稲荷吒枳尼眞天」と筆書きされた幟が立ち並んでいる。
参道の奥には参道から右に少しズラした位置に本堂らしき建物が見えている。

夕刻5時に近かったことから、人影はほとんど無く、80m近く参道を進むと、両側に白い丸型献灯の壁のある二ノ鳥居に到達した。

豊川稲荷 二ノ鳥居

二ノ鳥居の先からは参道が倍に広がり、やや右に向かって上り坂になっている。
広がった参道に入ると60mあまり先に総欅造(そうけやきづくり)妻入で瓦葺の二重屋根を持つ大本殿が立ち上がっていた。

豊川稲荷 大本殿

向拝屋根は三方に開かれており、間口は約20m、高さ約30m、奥行き約40mという巨大な建造物だ。

豊川稲荷 大本殿

現在は大本殿に上がる参道は石畳のスロープになっていたが、11年前にやって来た時は石段になっていた。
この大本殿の内陣に本尊として吒枳尼眞天が祀られている。

大本殿の格子ガラス窓には鉄で鋳造された稲妻形装飾に抱き稲荷紋を組み合わせた格子がはめ込まれていた。
イナヅマとイナリを掛けた装飾だ。

豊川稲荷 大本殿格子ガラス窓 神紋「抱き稲荷紋」

大本殿内の寺務所はすでに人が払っていた。
ここで参拝したが、11年前にここで参拝した時も、瞑目していると左後方下方から眩ゆい白い光が一直線に差して来ていて、一緒に参拝していた仲間から指摘されるまでは西日が何かに反射しているのかと思っていた。
みんなで、その光の差している方向に行ってみたが、下記写真のように、低木の灌木や石が散らばった庭園があるのみで、光の出ている理由は不明だった。

豊川稲荷 大本殿下庭園

かつて、何かが祀られていた場所なのだろうか。
霊能の能力のある人がこの記事を読んだら、確認して、教えていただきたい。

前回も今回も時間が無くて、寺院の北側に広がっている奥の院は観ることができなかった。
ただ、前回は総門の近くに吒枳尼眞天を祀った鎮守堂があることを知っている仲間がいて、そこでも参拝した。

円福山豊川閣妙厳寺 鎮守堂

11年前には、鎮守堂の前で瞑目している時、以下のようなイメージを観た。

燃える稲魂

気がつくと、鎮守堂の左右の軒に下がった赤い弓張提灯の側面に大きな稲魂寺紋が白抜きになっている。
室町時代に妙厳寺が創建されたときには、この鎮守堂は山門の鎮守として祀られたものだという。
大本殿の元になったのが、この鎮守堂ということなのだろう。

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豊川稲荷から下条西町 市杵嶋姫神社に向かう途上にイザナミの祀られている可能性のある長山熊野神社があるので、寄っていくことにしました。

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