見出し画像

今朝平遺跡 縄文のビーナス 75:縄文の野椎神

愛知県豊田市中金町(なかがねちょう)の岩倉神社社頭から、飯田街道(国道153号線)を東の足助町に向かったのは2012年7月のことでした。3.3kmあまりで左手(北側)歩道脇に『野口町』の目立つ標識が出ている脇道の入り口に差し掛かりました。現在は脇道の出口に横断歩道と交通信号が設けられています。

愛知県豊田市野口町 野神社
豊田市野口町 野神社
野口町 野神社

『野口町』標識の右隣に下記写真左端の「野神社」(のじんじゃ)と刻まれた渋紙色に焼けた小さな社号標が並んでいた。

愛知県豊田市野口町 野神社 社頭

写真では小さくて見えないが、社名の上に2行で「延喜式所載営社 二十六座之内」と刻まれている。
「二十六座」は参河(みかわ)官社の座数であることが、後で社内に掲示された板書で判明した。
すぐ奥に設置されている大きな方の社号標には「郷社 式内 野神社」とある。
社頭の奥30mあまり先に石鳥居が見えている。
車止めの設置された一般道と表参道を兼ねた道が奥に延びているが、一般道は鳥居前で左にカーブしており、表参道は鳥居に向かって直進し、分岐点からコンクリート舗装された急な上り坂になり、参道は社叢の暗い森の中に消えている。

社頭路肩に愛車を突っ込んで駐め、鳥居に向かった。
石鳥居は明神鳥居で、「埜神社」(のじんじゃ)と浮き彫りされた石造の扁額が掛かっていた。

豊田市野口町 野神社 石鳥居

「埜神社」が本来の社名なのだろうが、「埜」は「山裾の緩やかな傾斜地」の意だというが、境内はその名前通りの地形に位置している。
表参道は鳥居をくぐって、スロープになって直進しているが、10mあまり先で石段が分岐して上に向かっている。
つまり表参道が倍幅に広がっている形になっている。

鳥居をくぐって石段の方の登り口に立つと、以下のような漢文が左右の親柱に刻まれていた。

野口町 野神社 石段 親柱

・「内平外成」(ないへいがいせい)=国の内外がよく治まり、平和な状態
「万古不易」(ばんこふえき)=永久に不変

スロープを上っていくと、境内の多くの植物にネームプレートが付けられていた。
宮司さんのこだわりだろうか。
「アセビ」、「イロハカエデ」、「シラカシ」などだが、表参道頭上に「ヤブツバキ」の熟した果実がぶら下がっていた。

野口町 野神社 表参道 ヤブツバキの果実

「ヤブツバキ」は「ツバキ」や「ヤマツバキ」と同じものだが、我が家の玄関先と庭でも毎年花盛りになり、花びらが荒いアスファルト舗装に落ちると、くっ付いてしまうので、掃き取るのが面倒になる。
直径2〜2.5cmの果実も葉も、見るからに椿油が採取できそうな質感をしているが、この中に3つの種子が入っていて秋に裂開するが、すでに種子が顔を出す裂開の裂け目が入っている。

境内の西側の土手下には水路があって、その土手の脇に複数の樹木が伸びていたが、下記写真中央のもっとも細い幹がサンショウで、写真内に多い、もっとも大きな葉がサンショウの葉だ。

野口町 野神社 境内 サンショウ

サンショウは意外なことにミカン科だという。
落葉低木で雄株と雌株に別れているが、雌株のみが球果を付け、香辛料として使われる。
北海道から九州屋久島まで、どこにも野生種が分布している。
東京の料亭うなぎ喜代川の公式ウェブサイトの「うなぎに山椒をかける理由」の項目に以下の説明がある。

山椒には胃腸を温め消化を促進する効果があると言われています。
またうなぎの油っぽさも消してくれます。山椒の香りもうなぎに合います。

『うなぎ喜代川』の公式ウェブサイト「うなぎに山椒をかける理由」

境内の先の西側には土手沿いに銅板葺の素木の門を持ち、竹垣で囲われた池があった。

野口町 野神社 神池

落ち葉が水面に落ちないようにするネットが張られている。

水面を覗き込むと、竹の葉が底に沈殿しているが、不潔感は無く、水は清浄だ。

野口町 野神社 神池 池底

この池を「御井」と呼んでいる地元の人もいて、おそらく湧き水があった、もしくは今もある池のようだ。

さらに参道を登っていくと、鳥居から80mほどの場所に南西を向いた瓦葺入母屋造棟入で正面と奥面が吹きっ放しの拝殿があった。

野口町 野神社 拝殿

屋根が寺院建築のように重厚で千鳥破風(はふ)の妻側の破風板と懸魚(げぎょ:破風板から下向きになっている装飾板)の使用材が浅緋に染められているのが目を惹いている。
拝殿の奥には幅の広い石段が立ち上がっているようだ。

10m近い高さの石段の上には神門があり、瓦葺の白壁が両袖に延びていた。

麓から見上げて門が閉まっていることと、向かって右脇に拝殿裏面の丘陵上に登っていく通路があったので、その坂道を登って丘の上に向かった。
丘陵上には中央に渡殿と本殿が連なっており、本殿右手(南側)には境内社の覆屋、渡殿〜本殿の左手(北側)には社務所が設置されていた。

豊田市野口町 野神社 渡殿/本殿/境内社覆屋

丘陵上には中央に南西向きの渡殿と本殿が連なっており、本殿右手(南側)には境内社の覆屋、渡殿〜本殿の左手(北側)には社務所が設置されていた。
社務所以外の屋根はすべて浅緋に染められたトタン張吹きっ放しの素木造で統一されていた。
屋根の色を見て、さっき見てきた拝殿の破風板と懸魚はこの屋根の色に合わせて染められていたことに気づいた。
境内社は中央に大きな社、左右にやや小型の社が1社づつ祀られているが、『平成祭データ』によれば、以下となっている。

《境内社》
・御鍬社(保食神)
・八幡社(誉田別尊)
・秋葉社(火具土命)
・山神社(大山祇神)
《境外社》
・塞神社(來名戸神)

『平成祭データ』野口町 野神社

境内社は数が合っていないから、もう1社(山神社の可能性が高い)が別の場所に祀られているのだろうか。

渡殿の正面に回って参拝した。

野口町 野神社 渡殿/本殿/境内社覆屋/社務所

参拝して渡殿の頭上を見上げると、軒下には『社記』を墨書きした素木の板書が掲示されていた。

   西加茂郡石野村大字野口水別日面
   郷社 野口神社
1 祭神 豊斟渟命
〜中略〜
1 由緒
  勧請年月未詳
  仁壽元年(※601)10月従五位下を賜
〜以下略
                             (※=山乃辺 注)

野口町 野神社『社記』

祭神の豊斟渟命(トヨクムネ)は初めて遭遇した神だが、別の『御由緒』によれば、一名を豊国主尊(トヨクニヌシ)とも言い、『古事記』は以下のように紹介している。

天地創造の始めの頃、 浮脂の如く漂っていたものが、次第に固まる状態の中から生まれた神

『古事記』

また一説には豊斟渟命を以下の縄文土器の持ち手装飾に見られる野椎神(ノヅチ)のこととする説もある。

左:江戸時代 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』野槌
右:縄文時代 井戸尻考古館下原12号址野椎文鉢 取手装飾

ただし、野口町 野神社の祭神が豊斟渟命となったのは明治初年頃のことである。
勧請年月未詳ではあるものの、創建は推古7年(599)以前と推定されており、文化13年(1816:江戸時代)ころはご神体だった鏡をそのまま御祭神として祀り、特定の神名は付けられていなかったという。
また、その後の江戸時代の由緒には「足助庄野口村に存す。今天神と称す。」とあり、天神社であったことが解る。

◼️◼️◼️◼️
野神社の境内には「野口雨情 先祖ゆかりの地」と刻まれた記念碑が建てられていました。野口雨情は童謡界の三大詩人の一人とされる茨城県出身の人物ですが、飯田街道像沿いにルーツがあるなんて、まったく知りませんでした。個人的には「赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった」で始まる、『赤い靴』の、よ〜く考えると怖い歌詞が好きです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?