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中条遺跡 土偶A 5:一色町の龍蛇神

このページでは重原(しげはら)の三ッ井戸のうちの一つ、慕井戸(したいど)の存在したという愛知県刈谷市の一色町(いしきちょう)2丁目にある、八幡社で遭遇した龍蛇神を祀った境内社を紹介します。

●中条遺跡 土偶A

中条遺跡(なかじょういせき)の存在する重原の北側に位置する一色町2丁目を観に向かった。

1一色町 八幡社

竜神系の神が祀られている可能性があったからだ。
調べてみると、一色町2丁目は2ヶ所に飛び地になっていることが判った。
地図を観ると、名鉄三河線が敷線されたことで、分断されたのではないかと思われた。
「一色」という地名は一色田(いっしきでん)という荘園における田地に由来していると思われ、弘法大師がこの地に訪れたのはこうした土地であったことと関係していると思われる。
なぜなら、弘法大師には朝廷から築池別当(つきいけべっとう:池を造る最高責任者)の勅命が下りており、治水の視察目的もあった可能性があるからだ。
現場を巡ってみると、下り松川、長篠川、猿渡川(さわたりがわ)の3河川に囲われた重原(しげはら)に接している南側の一色町2丁目は、その90%が畑地になっており、北側の一色町2丁目に在住する地主の所有地になっている可能性を感じた。
三ッ井戸のうちの他の2ヶ所、乞井戸(こいど)と佐次兵衛井戸が丘陵の麓に位置していることからすると、弘法大師は、やはり丘陵の麓である下り松川北岸に井戸を設けた可能性が高いと推測した。
そこで、一色町2丁目の南側の飛び地を探索してみたのだが、この飛び地内は道も私道のようで、本来は立ち入れないようだった。
その私道は雑草の生い茂った無舗装路だったが、強引に愛車で分け入ってみた。しかし、そこには井戸の痕跡も記念碑も見当たらなかった。

そこで、北側の一色町2丁目を地図でチェックしてみると、北西の角地に八幡社があることが判った。その八幡社に向かうことにした。
何かが、そこに持ち込まれている可能性があるからだ。
八幡社の社頭は南側にあった。

2一色町 八幡社社頭

石造の鳥居はもちろん八幡鳥居で、社号標には「村社 八幡社」とある。
鳥居の正面奥に拝殿が存在するようだ。
社号標の背後に板書が掲示されていたので、そこをチェックすると、祭神は譽田別命(ホンダワケ=応神天皇)となっているものの、創建の時期、由緒ともに明らかではなかったが、予想していたものを見つけた。
板書の「境内末社記」の中に蛇神(大物主神)と龍神(市杵島姫命)がリストアップされていたのだ。
大物主神が祀られた時期に関しては記載がないが、市杵島姫命が祀られたのは「正徳四年」とあるので、江戸時代中期のことになり、市杵島姫命に関しては弘法大師とは直接関係のないものだ。

鳥居をくぐって、まずは拝殿に向かった。

3一色町 八幡社社頭拝殿

板書きの由緒にあった古松が拝殿に向かう脇にあり、参拝者の通り路に向かってお辞儀をするように腰を折っている。
こうした樹木の奇形(?)は神社内ではよく見られるが、不思議なことに、参道や社殿の周囲にあるものは、参道や社殿に対してアーチ状に覆いかぶさることが多いものだ。
濃い社叢が社殿と拝殿前の広場を取り囲むように包んでいる。
本瓦葺切妻屋根平入の拝殿前に上がって参拝を済ませ、脇に回ってみると、拝殿の裏面には幣殿と本殿が連なっていた。
八幡造ではないが、拝殿と本殿は八幡造の前殿と後殿を意識した形式になっているように思えた。

境内末社をチェックしてみると、金比羅社(大物主命)と嚴島社(いつくしましゃ:市杵島姫)が祀られた瓦葺切妻造平入の覆屋(おおいや)が拝殿に向かって右手に並んで設置されていた。

4境内末社金比羅社神明社厳島社

その覆屋の軒下には名札が並んでいて、中央に神明社(天照大神)、向かって左に金比羅社、右に嚴島社が屋内の棚の上に並んで祀られていた。

5一色町 八幡社境内末社金比羅社厳島社

いずれも総素木造の社で基本的には同じ規格の社だが、それぞれ大きさが異なっていた。神明社が最も大きく、次いで嚴島社、金比羅社は嚴島社より横幅が狭くなっている。
天照大神は市杵島姫の親神なので、そのことが同じ覆屋内に祀られている理由だろう。
しかし、水神であり、弁財天と習合していることの多い市杵島姫が祀られていても、ここ八幡社の境内には池も水路も見当たらない。
周辺の水際に祀られていたものが持ち込まれたものだろうか。
ここから最も近い水路は下り松川の支流で、その支流には八幡社のある丘陵上から少なくない水量が流れ込んでいる。
ただ、その支流は名鉄三河線の南側で暗渠に入り、地表からは隠れてしまっているが、その方向の隠れてしまっている先に一色町2丁目が位置している。

6一色町 八幡社境内末社厳島社/下り松川支流

一方、大物主命と天照大神の関係を確認するために、各古文書で大物主命の名前がどう紹介されているのか以下に整理してみた。

    『古事記』=美和之大物主神
   『日本書紀』=大己貴神(オオナムチ)の和魂(ニキミタマ)
 『播磨国風土記』=大物主葦原志許(アシハラノシコ)
『出雲国造神賀詞』=倭大物主櫛𤭖玉命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマ)
 『ホツマツタヱ』=中央政権のモノヌシ(役職名)

『日本書紀』だけが、大物主神を大己貴神にすり替えている。
また、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』は大物主と櫛𤭖玉(=ニギハヤヒ)を習合させている。
天照大神を頂点に位置付ける大和朝廷にとって、大物主やニギハヤヒは隠さなければいけない存在ではある。
古文書4誌が「美和(地名)」、「和魂(穏やか)」「志許(=醜い)」「𤭖(=甕:悪神)」と、気づきにくい形で大物主の名前に“性格”を付与している。
4誌が大物主の説明をしているのだが、天照大神の存在しない社会を紹介している『ホツマツタヱ』だけは「大物主」は個人名ではなく、モノノベ(軍人)を統括する中央政権の役職名としている。
ここでいう「中央政権」とは「大和朝廷」ではなく、大和朝廷以前に存在した政権のことだと思われる。
古文書5誌とも大物主を天照大神の関係者としてはいない。
つまり本来、大物主神は天照大神と一緒に祀られる神ではないのだ。
箸墓古墳(宮内庁が倭迹迹日百襲姫命の墓に治定している)に関する伝承では
倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の元に夜ごと通ってくる男性(大物主神)の姿が黒蛇であったことを伝えている。

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予想したように一色町2丁目で龍蛇神が祀られているのを見つけたのだが、その由来は明快ではなく、すっきりしない状況で一色町2丁目訪問は終了した。

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