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麻生田町大橋遺跡 土偶A 134:ムクノキのある浪之上熊野神社

豊橋市牛川町の牛川稲荷社から同じ牛川町で、同じく牟呂用水左岸沿いに位置する浪之上熊野神社に向かいました。「浪之上」は旧字名で、その氏神です。現在は「浪ノ上」となっていますが、「浪」は三河湾の浪ではなく河口に近かった豊川〈旧名:飽海(あくみがわ)〉の浪を意味しているようです。

浪之上熊野神社は南北に延びる路地に面していて、社頭には「村社熊野神社」と刻まれた頭頂が頭巾型の社号標が立てられていた。
鳥居は表通りから20m近く引っ込んだ場所に南東を向けて設置され、白っぽい砂利を敷き詰めた表参道が北西に向かって延びていた。

鳥居の奥30m近い場所に瓦葺の拝殿らしい建物が見えている。
多くの神社のように表参道を覆う高木の社叢は皆無で、空が開けていた。

入口脇が広いので、そこに愛車を駐めて参道を進むと、石鳥居は明神鳥居で、表参道の縁戚は鳥居の場所から始まり、10mも行かないうちに境内が広がっていることから、そこで縁石は尽きている。

鳥居をくぐって20mあまり進むと瓦葺切妻造平入で白壁を持つ拝殿が設置されていた。

拝殿前の踏み石に上がって参拝したが、この神社に関する情報は『豊橋市史(昭和48年3月発行)No.1』にある「牛川熊野社と同様に戦国時代以前の創立と推定される」という情報しか無いようで、祭神は不明。
しかし、熊野権現(そのうちの1柱の可能性も考えられる)が祀られていたのは間違いないだろう。
熊野権現とは主に以下の三柱の総称とされている。

熊野夫須美大神(クマノムスミ)=イザナミ
熊野速玉大神(クマノハヤタマ)=イザナギ
熊野家津御子大神(クマノケツミコ)=スサノオ

拝殿の左脇には若木だと思われる、幹の白い特徴のあるムク(椋)の巨木が伸びている。
幹径が50cmくらいある。

この時は5月の初旬だったので、ムクノキは落葉樹なのだが、葉が茂っていた。
ムクノキはおそらく、その黒い果実(正確には核:ヘッダー写真)が甘いことから、ムクドリなどの大型の小鳥が集まり(球形の果実の直径が10mm以上あることから、小型の小鳥の餌には適さない)、小鳥が神社の境内に種を含んだ糞を落とすと、自然に生えた樹木は神社では排除しないのが原則なので、神社の境内で見かけることが多い。
公園などでは人為的に植えられるから、見かけることはあるが、多くの葉が落葉することや、高木で巨木になってしまう(樹高30mに達する)ことから、相当広いお屋敷や農家でもないと、街中で見かけることは無い。
ざらついた葉が漆器や骨製品などの研磨剤に使用されることは前にも神社の記事で紹介したが、幹は老木になると淡褐色で、縦に小さい皮目が出き、皮目が割れてササクレができるのだが、この神社のムクノキは幹径で見るより若いようで、白に近く、皮目はまったくできていない。

この葉が落葉したら、相当なボリュームになるので、氏子は大変だ。

ムクノキの脇から社殿を観ると、拝殿の裏面には瓦葺でガラス窓を持つ渡殿が、やはり瓦葺で切妻造の屋根を持ち、トタン壁で覆われた本殿覆屋と拝殿を繋いでいた。

上記写真のように本殿覆屋の袖には境内社を祀った瓦葺切妻造の覆屋が設置されていた。
本殿覆屋左手の境内社覆屋には中央に大型の社、両脇に小型の社を三尊形式のように祀った総素木の社が棚の上に並べられている。

中央の社前は覆屋の前縁ギリギリだし、両脇の同じ規格の躯体を持つ小型の2社も中央の社の軒下に入ってしまっているので、中央の社は後からここに持ち込まれた社なのかもしれない。
中央の社の扉には鍵穴の金具が取り付けられている。
この3社に関する情報も見当たらない。

一方、本殿覆屋右手の境内社覆屋も瓦葺切妻造なのだが、最初から3社用に柱で区切られている。

3社とも小型の社で躯体の寸法が異なり、本殿覆屋左手に納められていた小型の2社とも躯体の規格は異なる。
こちらの3社に関する情報も見当たらない。

本殿覆屋左手の境内社覆屋の裏面には滑落防止の黒黄まだらの細いロープが2本張ってあるのだが、それとは別に左手の細い若木と右手のアベマキの巨木に渡して注連縄が張られていた。

方角からすると、本宮山の遥拝所だろうか。
熊野とこの地の結びつきは直前の記事でも紹介しているが、

本宮山を神体山として祀ったのは秦氏なのかもしれない。

ここ、浪之上熊野神社では子供たちによる巫女神楽が継承されているようだ。

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すでにケータイの世界を知っている現代の子供たちが伝統的な衣装を身に付けて、神楽の練習に時間を割いている。現代日本人の一部はパラレルワールドにまたがって生きているのかもしれません。


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