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本刈谷貝塚 土偶 12:弁天川

今回は愛知県刈谷市に、なぜ弁天川という名称の川が存在するのかを調べてみました。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

縄文期、あるいは室町期から江戸期にかけて海面下にあった市杵島神社西側の田園地帯を調べている時、地図に「弁天川」と表記されている水路があることに気づいた。

1弁天川●高津波町:市杵島神社/宝勝山 医王寺 三田町:弁天排水機施設/家下川 逢妻川/境川

弁天池は各地で遭遇してきたが、「弁天川」は初めてだ。しかし、調べてみると北海道から香川県の間に、少なくとも12河川存在することが判った。
刈谷市には何度も通っているのだが、梅雨の合間の晴れ間を狙って、弁天川を見るのを目的で、再度、境川(さかいがわ)と逢妻川(あいづまがわ)を渡った。
弁天川は市杵島神社の南310m以内を東西に流れている川らしく、市杵島神社の西脇の土手下を南北に流れている家下川はその支流のようだ。現場へ行くまでは市杵島神社西側の田園地帯の南端を流れている川なのかと思っていたのだが、そう単純ではなかった。単純でなくなったのは、ここに東海道本線を通すために高津波町と同じ高さに盛土をし、合わせて土手の上に排水機施設と貯水池を設け、弁天川を盛土の中に谷間を設ける形で残したからではないかと推測した。排水に関して『刈谷町誌』(刈谷町誌編纂会 編/昭和7年出版)のP6にはこうある。

明治三十一年八月 高津波末濱新田 25間
大正十四年八月  高津波末濱新田 34間

 沿岸各地の多くは、逢妻川に直に排水することが出来ぬから、本川に並行して排水路を設けてゐる。其複雑なることは、省線東海道線が横断する地方で、相並行する八筋の河川があるのでも知られる。」

この記述はまさに弁天川と排水池を持った弁天排水機施設のことを言っている。冒頭の「高津波末濱新田」というのは高津波の西側に新たに開かれた新田のことらしく、現在の三田町の水田地帯のことだと思われる。

下記写真が弁天川だが、

2刈谷市弁天川

左側の堤防より水面は4mほど低くなっているのに比して、右奥に水面が見える貯水池は水面が高くなっている。満水になれば弁天川より水面が2mほど高くなるのだと思われる。その貯水池には北側に弁天川との間の水門と東側に弁天川の支流のの間の水門が存在する。下記の写真が貯水池で、

3弁天排水貯水池

右側の高架の上を東海道本線が通っている。高架にしているのは逢妻川(あいづまがわ)と境川(さかいがわ)の堤防を越える必要があるからだ。上記写真の左端に貯水池に並行して弁天川が流れているのだが、水面は低いので見えない。同じ盛土の上に存在するのだが、東海道本線は堤防上に向かい、弁天川は逢妻川に水を落とせるように下方に向かっているのだ。
ここに東海道本線が開通したのは明治19年(1887)のことなので、それ以前には水田地帯の中を流れる弁天川はあっても、貯水池は存在していなかったものと思われる。逢妻駅が設けられたのは昭和63年(1988)になってからのことだ。
下記写真は弁天川の堤防上から三田町の水田地帯を眺望したものだ。

4三田町眺望

上記写真右端の濃い森の中に市杵島神社は存在する。
ヘッダー写真の蝶は堤防上の葉の上に留まっていたツマグロヒョウモンだ。

それはともかく、問題は弁天川がどこから流れて来ていて、なぜ「弁天」の名称が冠されているかだ。
逢妻川の堤防に弁天川の水門があるのか見に行ってみると、弁天排水機施設につながっていると思われる、空色にペイントされた鉄製の水門開閉機があったが、弁天川の水面は弁天排水機施設の地下に流れ込み逢妻川の手前、150m以内で視認できなくなっていた。
弁天排水機施設から弁天川を辿って東に向かうと、途中、家下川との合流点は視認できたが、草薮で弁天川沿いに近づくのが困難な状況になっており、結局水面が航空写真で確認できる全長は210mあまりで、東の端は暗渠の中に消えていた。
其暗渠の上と思われる道を、さらに80mあまり東にたどると、宝勝山 医王寺前の交差点に出た。

5宝勝山 医王寺

道路の水の染みを見てもわかるようにここは窪地になっており、弁天川が暗渠に消えている盛土のされた左(西)方向からも、右上(北東)に向かう道路と右(東)に向かう道路からも坂下となっている、唯一手前(南)に向かう道路だけが下りになっており、東海道本線の低いガード下をくぐれるようになっている。
東海道本線が通される以前の、この地形を説明する教育委員会の製作した案内書『医王寺』が医王寺山門脇に建てられていた。其案内書に以下の案内文がある。

山門前には明治3年10月に建てられた常夜灯がある。このあたりまで衣ケ浦(ころもがうら)が入り込んでいて、船が出入りしていたことをうかがわせる。

この窪地が衣ケ浦の船着場であり、その脇の東海道本線が通っている場所に弁天神社(市杵島神社の前身)が祀られていた可能性のあることは高津波 市杵島神社の由緒書きに「明治二十四年(1891)鉄道開設により現地に移転」と書かれていることから分かる。
現在の医王寺は曹洞宗の寺院である。しかし、尾張・三河の曹洞宗寺院は真言宗寺院から改宗している例が多い。この地は弘法大師(空海:真言宗)信仰の盛んな場所であり、弁才天は真言宗、あるいは天台宗の密教寺院で祀られた仏だからだ。弁才天が水辺に祀られるのは漢訳経典『金光明最勝王艇』巻第七「大弁才天女品第十五」に弁才天が川辺に居住するとあったことによるという。
弁才天像は二臂像(腕が2本の像)と八臂像の2つに大別されるが、多くの土偶と弁才天像を結びつけるのは以下の八臂像の弁才天だ。

檀家でもないのに顕教の寺院に出入りするのは好まないが、弁才天の痕跡がある可能性があるので、医王寺の山門をくぐった。石段を上がると目の前に本堂があるが、教育委員会制作の案内書や『刈谷町誌』に書かれている解説文によれば、本堂に祀られているのは薬師如来像と釈迦仏であり、境内にはピンとくるものは見当たらなかった。廃仏毀釈で弁才天につながるものはおろか、密教系のものは完全に毀釈されていた。

しかし、本堂前の石段を降りようとして山門を見下ろした時、

6宝勝山 医王寺

この丘陵下に衣ケ浦の波が打ち寄せている情景が見えてしまった。
この船着場に至る水路が残ったのが弁天川と呼ばれるようになったのだと推測した。

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『刈谷町誌』の弁天川に関わる記述に遭遇できたのは幸運だったが、1頁を割いて記述のあった医王寺の案内文に、弁才天に関する情報が皆無だったのは、顕教寺院にとって密教が、それこそ希釈すべき思想だったからだろう。明治政府は日本が生き残るために武家の価値観を希釈する必要があった。やっと日本でも日本人が生き残れるようにするためなのか、子供達に西欧社会では生活の基礎知識に過ぎない投資のことを教えることになるようだ。これまでの資本主義社会がほとんど壊れようとしているのに、役に立つことがあるのだろうか。投資の知識が一般化することで、希釈されてしまう文化は確実に存在する。

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