御用地遺跡 土偶 14:弘文天皇の塚
安城市の御用地遺跡の東北東730mあまりに位置する小針古墳(こばりこふん:岡崎市)に向かいました。
小針古墳は北西の名古屋と南東の岡崎を結ぶバイパス(県道56号線)の南側60mあまりに位置する広大な駐車場内の教育・保育施設の一画に存在していた。
この古墳は円墳にしか見えないが、本来は前方後円墳であったようで、しかも弘文天皇陵とする伝承が存在する。
岡崎に弘文天皇陵が存在するなんて、まったく聞いたことがなかったが、もちろん、宮内庁が治定している弘文天皇陵は滋賀県大津市にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)なのだが、大海人皇子(天武天皇)のクーデターによって倒されたとする弘文天皇は上総国(かずさのくに:千葉県)に逃げ延びたとする説もあって、君津市にも、神奈川県伊勢原市にも弘文天皇陵が存在する。
なお、大津市にある佛法山東漸閣法傳寺(ぶっぽうざんとうぜんかくほうでんじ)は以下の弘文天皇像を所蔵している。
それはともかく、この小針古墳は、周囲が公園となっていないことから、これまで観てきた北浦古墳や荒子古墳のようには周囲が整備されておらず、忘れ去られた遺跡という雰囲気だった。
その寂れた雰囲気は初遭遇した側が墳墓の北東側で暗かったことにもよる。
小針古墳に近づくために、教育・保育施設を仕切っている鉄柵内に入るための入り口を探して南東側から教育・保育施設内に入ると、こちら側から観る小針古墳は陽光の中で明るく、楡などの落葉樹が多く、
墳墓の地表はその落ち葉で覆われていた。
墳墓の南西の麓には昭和46年(1971)12月に名古屋菱重興産株式会社の建てた案内書『小針古墳と大友皇子(第三十九代弘文天皇)の塚』があった。
ここには三菱自動車の工場があったようで、周囲の駐車場は、その工場の駐車場だったのだろう。
案内書の内容は以下。
小針(おばり)←オハリ=尾張(おわり)
小針古墳のある小針町という地名は尾張と通じるところがあるが、尾張には以下のように「針」地名が多い。
小針町は愛知県内では名古屋市昭和区、小牧市にも存在する。
そして、岡崎市には「筒針町」「針崎町」という地名も存在する。
地図上で小針古墳を確認していると、鹿乗川(かのりがわ)の水源らしき場所が小針古墳の南東90m以内にあるので、観に行った。
小針古墳の南側の駐車場に沿って流れている鹿乗川を上流に向かうと、鹿乗川は一般道の下に向かって暗渠となっていた。
それは水源というような場所ではなく、鹿乗川の上流側である道路の反対側を観に行くと、古い地図ではさらに東に水路になって延びている部分が現在では緑地の公園になっていた。
その先は丘陵上へ向かう上り坂になっている。
丘陵上は住宅街になっており、その丘陵部の排水の集まっているのが鹿乗川の源になっているようだ。
この暗渠の入口の下流80mあまりに掛かっている橋上から上流側を眺めたのが以下。
下流側を眺望したのが以下の写真だ。
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明治期になって現在の皇室につながる弘文天皇の存在が初めて認められたものの、天武天皇の圧倒的な存在感によって、天武天皇が「クーデターで天皇になった人物」などという表現をされることは、現時点ではまず見かけません。
しかも天武天皇のクーデターをバックアップしたのが神道の総本山である伊勢神宮であることをリアルに感じている日本人は少ない。
だから皇室も伊勢神宮に参拝しなかった時期があるし、まして天武天皇陵に参拝したことは無い。天神を祀った伊勢神宮に対し地祇(ちぎ)を祀った出雲大社が今も根強い人気を維持しているのも、どこかで表層に位置するものの胡散臭さを嗅ぎ取っている人たちが少なからず存在しているからだと思われます。
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