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伊川津貝塚 有髯土偶 44:武塔神も徐福

愛知県岩倉市北島町の御嶽神社(おんたけじんじゃ)の北東70mあまりにある岩倉市自然生態園に向かいました。現在辿っているレイラインの岩倉市自然生態園を含めた北側の各所は昨年10月に撮影したのですが、その写真が丸ごと見当たらなくなってしまったため、先週、再度、熱暑の中、撮影してきたものです。10月に撮影できたのに8月だから撮影できなかったもの、8月だから撮影できたものが存在しました。

愛知県岩倉市北島町 岩倉市自然生態園 津島社
岩倉市北島町 岩倉市自然生態園 津島社/境内社弁財天
北島町 岩倉市自然生態園 津島社/境内社弁財天(岩倉市自然生態園 案内板)

岩倉市自然生態園の南西側から自然生態園の南側に沿った路地に入っていくと、上記絵地図内に掲示された「案内板」が左手にあり、突き当たりに絵地図内「ワークハウス」(事務所兼教室?)があり、その南側が駐車場になっているので、その木陰に愛車を駐めた。
今回はお昼時なので、自然生態園の木陰で昼食を食べようと、お握りとノンアルコールビール(アサヒ以外は飲めない)を用意し、まずは園内に祀られた津島神社にご挨拶に向かった。
森の入り口には津島神社の南向きの社頭があって、この周辺の定番になっている石門があり、その先に石造の台輪鳥居が設置されていた。

愛知県岩倉市北島町 岩倉市自然生態園 津島社社頭

鳥居の中は暗い森になっている。

石鳥居をくぐって暗い森の中に入ると、森の中はさほど暗くはなく、
表参道は砂地で40mあまり先には朱のニノ鳥居が見えていた。

岩倉市北島町 岩倉市自然生態園 津島社 表参道

表参道の右手(東側)は竹林になっていた。

腰を下ろして昼食を取れる場所を探しながら参道を進んだのだが、そんな場所を見つけられないままニノ鳥居に到達してしまった。

北島町 岩倉市自然生態園 津島社 ニノ鳥居/社

ニノ鳥居は銅板葺の笠木(屋根に当る部分)を持ち、柱の根元の藁座(わらざ)が長く、高さが50cm以上ありそうで、銅板以外のすべてが朱に染められている。
不自然に藁座の高いのは洪水対策だろうか。
もっとも近い青木川まで1.6km以内、東を流れる五條川まで2.6km以内。

ニノ鳥居の奥には津島社が見えている。
ニノ鳥居の左脇には片側にだけ石灯籠が建てられていたが、その理由に関しては後に説明する。

ニノ鳥居をくぐると、15mあまり先の石垣を組んだ基壇上に津島社が祀られているのだが、その手前には2段の敷居石が設置されていた。

北島町 御嶽神社 表参道敷居/津島社

手前の敷居石は上面がアーチ状になった、今まで見たことのないもので、中央が高いので、それを跨ぐための踏み石が設けられていた。
この敷居は中央だけ高くしなければならない必然性は無さそうで、踏み石を置いたために中央を高くする必要が生じ、アーチ状にしたものに見える。
つまり、意匠としてこうなっているもので、こんな洒落た敷居ってある?

敷居を二つ跨いで、津島社基壇に至ると、正面には5段の石段が設けられ、寺勾配(てらこうばい:裾が広がった形態)の石垣状には瑞垣が設けられ、基壇上には銅板葺神明造の津島社1社のみが祀られていた。

北島町 津島社

ただ、津島社の祭神は建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)なのだが、その神明造社殿の屋根には女神を示す6本の鰹木(かつおぎ)と内削ぎの千木(ちぎ)が乗っていた。
神明社などの社を流用したものだろうか。
私見にすぎないが、岩倉市自然生態園にやってくる前に寄って来た北島町 白髭神社の社名と、

その境内社鹽竈神社の祭神である塩土老翁(シオツチノオジ)の正体は徐福だとみているが、

建速須佐之男命と習合している武塔神(むとうのかみ)も限りなく徐福の匂いがする。

●武塔神とキーワード「武」
武塔神は『備後国風土記』逸文に記された茅の輪くぐり神事の元になっている蘇民説話に登場する神だが、武塔神に宿を提供した兄蘇民将来(ソミンショウライ)と、その娘らの腰に茅の輪を付けさせ、「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。
一方、宿を貸さなかったことから茅の輪を付けていない弟将来たちは絶滅してしまった。
ここでややこしいのは兄の名前がフルネームで「蘇民将来」、弟の名前が「将来」としか記されていないことだ。
二人の名前を日本の名前として考えると、兄弟で名前が同じなら名字も同じだから同姓同名の兄弟ということになってしまう。
しかし、武塔神がやって来たのが西洋方式の名前を使用する民族の村であり、兄弟の苗字が「将来」で兄の名が「蘇民」弟の名前は不明と解釈すれば不思議ではなくなる。
つまり、武塔神は西洋と東洋の狭間にある地域からやって来た存在である可能性があることになる。
武塔神が将来兄弟の村にやって来たのは求婚旅行の途中であり、八岐大蛇の出現する村にやって来てクシナダヒメと婚姻を結んだスサノオと重なる。
そして、武塔神の名前に含まれる「武」は
以下の記事の〈●キーワード「武」〉の項目に登場する人物たちとつながっている可能性があると思える。

そして、スサノオが手に入れた草薙剣を受け取ることになった日本武尊もまたキーワード「武」を持つ人物であり、初代天皇神武天皇も同じキーワードを持っている。

それはともかく、石段の麓で参拝して、津島社の躯体をよく観ると、大屋根の下に向拝屋根が重なっていた。

北島町 津島社 社殿

神明造で向拝屋根が設けられる例は見たことがないが、この社の注連縄から下がっている紙垂(しで)は長いので、その紙垂に雨が当たらないようにしたものだろうか。
基壇上には白っぽい砂利が敷き詰められていた。

津島社の基壇の周囲を巡ったが、結局、昼食を摂るために腰掛けられるような場所は無かった。

それでやむなく、他の参拝者が来ないだろうことが予測できたので、アーチ形の敷居石の端に腰掛けて昼食を摂ることにしたが、こんなお膝元で食事を摂ることが分かっていれば、津島社のために御神酒を用意してきたのにと後悔した。

昼食を済ませて表参道をニノ鳥居まで戻ったが、ニノ鳥居脇の石灯籠は西に延びる脇参道の突き当たりにある社のためのものだった。

北島町 津島社 ニノ鳥居/石灯籠/社

石灯籠の灯袋(ひぶくろ:灯明を入れる部位)に気になる文(もん)が刻まれているので見てみると、表参道側(東側)だけ見た時は意味不明だった。

北島町 津島社 石灯籠灯袋東側

中央の丸い穴は向こう側に貫通していた。
丸い穴から放射状に白っぽい線が入っているが、後で傷を付けたようにも見えるし、最初から刻まれたものであるようにも見える。

側面には何も文は刻まれてなく、西側には月型と、やはり後で傷を付けたようにも見える線が刻まれていたが、こちらは放射状ではない。

北島町 津島社 石灯籠灯袋西側

裏面と合わせると「日象」と「月象」を表したもので、単に陰陽を表したものとも受け取れるし、日月(じつげつ)の旗のように天皇の印とも受け取れる。

この石灯籠から奥に見える社に向かおうと脇参道に入ると、足元に直径25mmほどの底の見えない不思議な穴がいくつも空いていた。

北島町 津島社 脇参道地面

これは10月にやって来た時には気づかなかったものだ。
そして、穴の周辺にセミの朽ちた羽根が落ちていたことから、セミが抜け出した穴であることに気づいた。
地面の表面が硬化していることから、崩れずに残ったもののようだ。

(この項続く)

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セミの鳴き声は日本人以外の民族には騒音でしかないと言われています。実際、フィンランド人の女性が真夏の日本にやって来た時、「すごい騒音だけど、何の音?」と言ってました(笑)そして、枝から落ちて来たセミを見せたら、悲鳴を上げました。フィンランドは北国であることからほとんど昆虫のいない国ですが、ゴキブリはいるとのことです。彼女は日本ではゴキブリが樹木に巣食っていると思ったようです。

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