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本刈谷貝塚 土偶 21:蛇柳

熱暑の中、やって来た岡崎市の小薗神明社(おぞのしんめいしゃ)の境内には期待していたものが残されていた。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

小薗神明社にやって来たのは『由緒』に以下の一節があったからだった。

御手洗池(※みたらしいけ)は昔大沼にして岡山村の北、鎧ヶ淵(※よろいがふち)を経て海に通じたりし故、近村の御供米(※おくま)をこの地より船に積み海に出て伊勢神宮に送納したり。此の池の縁に蛇柳と称する廻り20尺(※約6m)のものと、蛇松と称する廻り1丈4尺(※約4.2m)の大木あり大蛇の住たる池なりと云い伝う。
                               ※=山乃辺 注

上記、小薗神明社『由緒』にある鎧ヶ淵を中心とした岡山瀬戸古絵図が吉良町岡山地区に所蔵されている。
吉良町というのは吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷があった場所で、岡山・瀬戸ともに岡山県・瀬戸市とは無関係で、地形が地名になったものと思われる。

6B鎧ヶ淵

下記は海進6mのMAPだが、

6海進MAP:御手洗池/鎧ヶ淵

海進MAPの鎧ヶ淵の位置「西尾市亀沢町480」は正確なので、岡山瀬戸古絵図の矢作川(やはぎがわ)と鎧ヶ淵の位置関係は整合性が無い。
鎧ヶ淵は小薗神明社の西4.9km以内に位置している。
小薗神明社『由緒』に従うなら、海進6mMAPの小薗神明社北側の水路が鎧ヶ淵に繋がっていたのだと思われ、鎧ヶ淵は伊勢神宮に送納する御供米の集積場になっていたのかもしれない。
『由緒』には他に、こうも書かれている。

当社は、又、浮島の宮と称し近隣諸国にその名高く、如何なる洪水にも境内浸水したることなかりしと云う。

「浮島の宮」と呼ばれるからには、社殿は御手洗池に浮かんでいるように見えたのだろう。上記海進MAPを見れば、室町時代後期から戦国時代に至る海進期にも、如何なる洪水にも境内浸水しなかったことは納得できる。

それはともかく、小薗神明社を目指してきた時、蛇柳と蛇松、あるいはその切り株が、まだ残っているかもしれないと思っていたので、社地に足を踏み入れた時、真っ先に社内でもっとも大きな樹木を探した。
それが下記写真の大楠だった。

7小園神明社大樟

この楠は幹周りが6mほどなので、幹周りは蛇柳と同等なのだが、日本人にとって「柳」と言えば「しだれ柳」なのだが、柳は地面を這うようなものから高木まで、形態は様々だ。
ざっと境内を見渡したところでは柳らしき樹木と松、それに池も見当たらなかった。
それで、まずは拝殿に向かい、参拝することにした。
鉄筋造の拝殿は広場の北側にあって、南西を向いていた。

8小園神明社拝殿

『由緒』には「長久元年(1040年)9月15日豊宇氣姫命(トヨウケヒメ)を祭祀す。」とあるのだが、神明造風の拝殿の屋根に乗っている鰹木(かつおぎ)は5本、千木(ちぎ)は外剥ぎ(そとはぎ:小口が地面と直角になっている)で、ともに男神を示している。
豊宇氣姫命の前の時代には天火明命(アメノホアカリ)が祀られていた可能性もありえるのかもしれない。
拝所に上がると、左手に樹木が保存されていた。

9蛇柳

参拝を済ませて見に行くと、平成3年に氏子総代一同の製作した案内書『御神木』の立て札が掲示されていた。『由緒』と重複する部分を省くと、

樹齢数百年の柳の大木があったと云い伝えがある。
この度神社周辺並びに玉垣等の整備工事(平成二年三月竣工)中これは発掘されました。その命脈は盡きることなきが如く朽ち果てることもなく往時を偲ぶ姿となって掘り起こされたものである。依って当神社の御神木として大切に保存し、幾久しく後世に伝えるものである。
 (附記、下方の太い部分は別途社務所内に保管)

幹周り6mの部分は社殿内の見える場所には置かれていなかった。
しかし、確かにこの蛇柳、上記写真のように表皮が植物というより動物の表皮のように有機的な表情があり、「蛇柳」と呼ばれるだけの雰囲気を備えていた。
「柳」の音読みは「りゅう」であり、「龍」に通じているのは単なる偶然か。
そればかりではない、柳の中には「雲龍柳(ウンリュウヤナギ)」というそのものズバリの名称を持つ品種も存在する。

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蛇松に関しては社内には何も情報が無く、現在の社叢内には生きた松も柳も見られなかった。

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