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天野氏は「何譜代」か?【研究ノート:天野氏】

徳川家の譜代家臣は多くいるが、それらを「いつから徳川(松平)家に奉仕したか」で区分する考えが古くからあり、「◯◯譜代」という表現をする。

『柳営秘鑑』では安祥(安城)城に在城した信光・親忠・長忠(従来長親とされてきたが、最近では長忠とするのが一般的という)・信忠の4代の間に奉仕した家臣を「安祥譜代」、清康が山中・岡崎を攻略した以降の家臣を「山中譜代」、駿河を領してから奉仕した家臣を「駿河譜代」としている。

さらに『武徳大成記』は、親氏・泰親・信光までに仕えた家臣を「岩津譜代」、親忠・長忠の代に仕えた家臣を「安祥譜代」、清康に従った者を「岡崎譜代」としている。

『武徳大成記』は各譜代の具体例は挙げず、『柳営秘鑑』は大名家や大身旗本をいくつか具体例として挙げている。
安祥譜代は「安祥七譜代」とし、酒井・大久保・本田(本多)・阿部・石川・青山・植村あるいは酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村の各家を挙げている。
岡崎譜代は井伊・榊原・鳥居・戸田・永井・水野・内藤・安藤・久世・井上・安倍・秋元・渡辺・伊丹・屋代の16家というが15しかないのがおかしい、と書かれている。駿河譜代は稲葉・保科・小笠原・遠山・堀田など多いので割愛する。

では天野氏は何譜代なのか?

一般には山中譜代とするらしい。三河一向一揆で家康方にいるのだから、駿河譜代でないのは確かだ。

中山岩戸の天野氏は、松平氏初代の親氏が中山十七名(七名とも)を攻め取った時、その十七名の領主の一人であったという。名は「みょう」と読み、村のようなものだ。『三河物語』によると永享の初めの話というから、1430年代頃のことになる。

享保5(1720)年以前成立の『三河八代記古伝集』及び『三州八代記古伝集』(内容はほぼ同一)巻第一に、親氏による中山郷の征服話が載る。
親氏はまず、松平郷に近い林添(現豊田市林添)の藪田源五忠元を討ち、それから中山辺りを平定しようと麻生城(現岡崎市桜形町)の麻生蔵之助を討ち、続いて大林城(現岡崎市鍛埜町)の二重栗内記を討った(鵜頭坂の合戦。一説に応永22(1415)年)。

『三州八代記古伝集』には次のようにある(旧漢字旧仮名遣い及びカタカナをひらがなに改め、適宜句読点を補った)。

敵の大将二重栗内記は親氏公の御矢先に掛り伏ければ、郎徒等肩に掛け慈雲寺にかけ込、皆一同に切腹せり。其御威風に伏して田口の中根、秦梨の粟生、岩戸の天野、柳田の山中弓を弛し甲をぬぎ降参して毎日出仕したりけり。

中山十七名

但しこれは武力による征服ではなく、買得による支配拡大という説も有力視されている。親氏が婿養子となった松平郷の国人領主・松平太郎左衛門尉信重は『三河物語』にも「国中一の有徳人(富裕な人)」とされており、裕福な家であった。

松平氏初代親氏と二代泰親については、同時代の史料でその名が確認できないことから、実在性を疑問視する声もある。

『寛政譜』天野麥右衛門光景家譜には次のようにある(旧漢字旧仮名遣いを改め、適宜句読点と西暦を補った)。

今の呈譜及び或本の系図に、対馬守遠貞南朝につかえ、四家七名字の人々とともに良王を奉じて処々に逃れてときを待。ついに三河国額田郡中山庄岩戸村に隠居し、享徳元年十二月八日(1453年1月17日)死す。法名松翁。これを中山岩戸の天野と称す。長男藤左衛門長弘、岩戸村を領し、永享のはじめより御当家(※松平家)につかえ、文明七(1475)年七月十四日死す。法名霊槎。二男を清右衛門忠勝という。今常次郎貞正が祖なり。長弘が男孫太郎景孝、信光君に奉仕し、同国額田郡において采地をたまい、永正元(1504)年六月十三日死す。法名定忠。

遠貞の長男・長弘が松平家に仕えたのが永享の初めであるなら、『三河物語』が親氏によって中山十七名が征服された時期と一致する。が、この頃松平家の当主であったのは三代信光であろう。中山十七名の征服は、親氏ではなく信光によって行われたのではないだろうか。

いずれにせよ、中山十七名は松平氏が最初に入手したとされる地域である。天野氏がその地の領主であったなら、天野氏は譜代家臣の中でも最古参であると考えるのが普通だろう。

『士林泝洄』天野系譜では次のようにしている(系譜記載の内容を文章にした)。

遠貞の子・孫四郎景儀(長弘と同一人物)は三州中山庄岩戸村に生まれ、兄弟は多く松平家に仕え、文明七(1475)年に没した。その弟・清右衛門某(忠勝)は三州中山庄に住み、その子・清右衛門利貞は三州中山に生まれ、その子・清右衛門(孫一郎)貞親は三州安祥生まれで広忠に仕えて板田を領し、その子・清右衛門(又太郎)貞有も安祥生まれで広忠・家康に仕え、永禄6(1563)年の針崎の一向一揆に勇名があった。

針崎の一向一揆、即ち三河一向一揆に参戦していたのは、実際には貞有ではなく子の貞久である。
天野貞親というのは、徳川十六神将の一人に数えられる平岩主計頭親吉の母の父の名である。『士林泝洄』では貞有の妹が平岩新左衛門親重妻となっており(親重は親吉の父)、親吉が貞有の甥に当たるのは間違いないであろう。また親重の母も天野孫市女といい、平岩氏と天野氏の関係は深かったとみられる。平岩氏は安祥七譜代にも数えられている。

天野清右衛門貞有は、石川伝太郎忠輔・植村新六郎氏明・内藤甚太郎義清・林藤助忠満と共に「岡崎五人衆」「岡崎五奉行」と呼ばれている。
「岡崎五人衆」とは清康の家臣の中で特に武芸に優れた5人をいうと説明されるが、「岡崎奉行人連署○○状」といった文書に連署しているとおり、奉行人を務めていたのは間違いないから、「岡崎五奉行」の呼称の方が適切かもしれない(但し奉行人はこの5人に限らない)。

また、五代当主長忠の子・親盛の母が天野弾正某であり、親盛が福釜城主となった際には天野源兵衛忠俊が家長として附けられている。ということは、天野氏は長忠の代には既に松平家に仕えていたはずだ。

以上から私は、天野氏は「安祥譜代」あるいはもっと古く「岩津譜代」であると結論づける。

菊地浩之氏が『徳川家臣団の謎』で天野氏を山中譜代としたのは、康景に注目しすぎた故の完全なミスリードである。

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