「おかえりモネ」「カムカムエヴリバディ」:朝ドラの可能性

1:朝ドラ、その特殊なかたち

  連続テレビ小説、通称朝ドラ。
 週5回各15分の枠を半年続ける、特殊な形式のドラマである。
 忙しい間でも15分でドラマも見た、生活のバリエーションをもたらす効果がある反面、たった15分でほぼ毎日放送がある気楽さからか、親しみの反面侮られやすい枠でもある。
 実際特殊な形態である分、難しさも独特なのではないかと思います。
 1回は15分とは言え、週に直せば75分です。1回45分の大河より長いのです。
 半年、例えば120回分1,800分を45分で割ると40話。
 五輪とコロナで短縮を余儀なくされた「青天を衝け」が(初回と最終回は拡大1時間とは言え)41回ですから、放送時間を合わせればほぼ大河の長さと言っていいでしょう。
 しかし1回は15分。
 放送時刻(8時、12時45分、11時)の性質から「ながら見」を想定され、シーンどころか1話まるごと見損ねる可能性のある視聴者を、その見落としで置いていかない工夫がいる。
 その繰り返しで半年1,800分を走らなくてはならない。
 4コママンガで三国志を描くようなものではないでしょうか。

 そう考えていくと、朝ドラの「定型」と思われている話の理由がわかる。
 総時間1,800分クラスに耐えられる話の枠は、どうしても複数のライフイベントが発生する主人公の一代記が有利である。
 主人公の一生、という時系列で進む話はまた、今人生のどこら辺で何をやっているのかという想像がつけやすいので見落としが致命的にならない。実在の人物をモデルにすれば尚更です。
 だから伝記が多い。
 一方で15分の枠しかない上「ながら見」が前提なので、長い説明を入れることができない。
 多人数の複雑に絡み合う関係性を複数の視点から見せたり、昨日も修行今日も修行と全く変わらない15分を流す訳にもいかない。
 徹底的にわかりよく、ある程度はドラマらしい話の動きが要る。
 家族、友達数人、近所の人(同僚)数人、恋人と見れば何となくわかる人間関係。
 本題でなければ容赦なく省略される、リアリティで言えば本来必要なややこしさと時間。
 説明がなくても見てわかる、何なら見なくてもうっすらわかるアウトライン。
 結局「朝ドラ」で想定されるこの気楽さとわかりやすさが、親しまれる反面必要以上に低く見られがちな理由ではないかと考えられます。
 怖くない相手になら何言ってもいい奴です。

 長時間の物語を支える骨格と、それを短時間にかつ簡潔に集約する力。
 その両立の解が限られる故に、他の作品と構成が似る。

 だけれど、その「15分」と「1,800分」の相反する性質を攻略するのは果たして「主人公の日常生活でつづる人生のミニチュア」だけなのか。
 2021年度上半期の「おかえりモネ」2021年度下半期の「カムカムエヴリバディ」。
 もしかしてそれぞれ異なる方法で、この厄介な枠のスケール感を拡張してみせているのではなかろうか。

2:深さの「おかえりモネ」と広さの「カムカムエヴリバディ」

 「おかえりモネ」は、気仙沼出身の永浦百音を主人公に、彼女が高校を卒業後故郷を出てから気象予報士として気仙沼に戻るまでの7年間を、震災から10年の時間軸と併せて描いた、朝ドラとしては短期間の時間軸を舞台にした作品である。
 震災で受けた心の傷から主人公が故郷を離れ、気象予報士の使命に希望を見いだし、その使命を故郷でこそ果たしたいと願って再び故郷に根を張るまでの物語でした。
 15分では視点は主人公のごく身近な範囲に限られる、という制限を逆手に取るように、主人公の内面を深く緻密に掘り下げる。
 主人公、という枠で15分のわかりやすさを担保しながら枠内の情報量を1,800分に増やしていった。
 百音と妹の未知、友人である亮とその父新次、百音のパートナーとなる菅波と掘り下げるのは概ねこの5人の話で、後は仕事についても生活環境についても比較的シンプルに進んでいくメリハリがありました。
 書き込みが繊細かつ緻密な分、全体の予想がつけやすいか見落としても話はわかるのか、という点ではいくらか難しいところはあったかもしれません。
 そこを割り切った分、人物の繊細な心のひだには圧倒的なリアリティがありました。
 むしろ15分に限定されているからこそ見ていられる濃密さだったかもしれません。
 そして1,800分があるから描ききれた話でもあったでしょう。
 15分と1,800分、枠の性質の再解釈だったような気がします。15分の狭い井戸を1,800分の深さに掘り抜いたドラマでした。

 現在放送中の「カムカムエヴリバディ」は、橘(雉真)安子、雉真(大月)るい、大月ひなたと母系の物語を3世代繋げる、朝ドラとしても珍しい100年のクロニクルです。
 るいとひなたの物語は長く重なるとは言え、1人に使う話数は当然に他の朝ドラよりも少なくなります。
 ある週は週の途中でいきなり10年の歳月を飛ばし、別の週は1週間に週を費やす。15分の枠という範囲の限定で求められる以上に飛ばせる部分は省略し、必要なところは濃密に。
 話のスピードのメリハリは、主人公の後ろにある歴史を浮き上がらせます。
 主人公と周囲の人、という15分向けに整理されたわかりやすく限定された視点を、それぞれ全く別の人生を選択していく3人の主人公を重ねることでその人生の背景となる社会の広がりが見えてくる。
 100年、と一口に言っても間に戦争があり、その影響を受けた次の世代が築いてきた社会から、その更に先へという人生の連なりです。
 3人の1人1人の話もむしろそぎ落とし、周囲の人が都度入れ替わることによって交差する人生と生きる社会もまた色を変える。
 母系という軸で結びつけることによってオムニバス的な主役交代に一貫性を持たせ、15分の視野をスライドさせる事で映る社会を広げていく。
 15分の枠を掘り進める「おかえりモネ」とは全く逆に、15分の枠を薄く層に広げて重ね合わせ、1,800分のスケール感を目一杯に広げていく。
 延べ人数の広がりで「社会」を描く、15分の枠の外し方。
 これもまた「朝ドラ」のできることを拡張した姿のように思います。

 1回15分、視聴者のながら見を前提とする「わかりやすさ」と同時に1,800分の長い放送期間を引きつけるだけの「物語性」を求められる「朝ドラ」。
 正解の形がほとんど決まっているだけに、パターンが似た物語が増えていく中で「おかえりモネ」と「カムカムエヴリバディ」と、根本的に違う解の作り方ができていく年度違いの一年間、もしかしてとんでもなく異例で贅沢な時期なのでは。
 大河とも違うけど、間違いなく普通のドラマよりずっと長期間の枠である朝ドラ、できることが増えてもいいんですね。
 いい時期に居合わせたな、と思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?