史劇をブラッシュアップする:「麒麟がくる」の挑戦

1:「麒麟がくる」の特性と、大河ドラマと時代の流れ

 最新の研究を取り入れた、とは言うけどスチール写真から見る印象はもう少しポップ。
 どういう感じかなあ。……という感触で見始めて早四月。
 鮮やかな画面もあってか、史実ガチガチという感じは薄いけれど古くさいとも言えず、間違いなく今風なんだけれどどこか定番の匂いがある。
 史劇というフィクション性を大事にしながら、物語に取り込まれているのは確かに最新の研究なんだろうというバランスが不思議な感覚です。
「麒麟がくる」の特色と言っていい古臭くならない史劇のフィクション性について考えてみました。

 まず、古臭くないというなら「古臭い」というのはどういうイメージを指すのかを考えます。
 言葉遣いが古めかしく、動きに乏しく、前例に従ったシーンのアレンジ違い。
 ……とは言うものの、そういう大河ドラマはずいぶん長く見ていないように思います。
 10年〜20年くらい…?
 その辺りから「大河ドラマ」のイメージから脱却し、若者の取り込みを図れと言われるようになって、「若者向け」を試行錯誤している割に評価が出ない、そういう記憶があります。
 時代劇が老人向けと括られるようになって、どんどん減っていった時期と重なる時期。(これは景気の悪化と制作費削減の問題でもありますが。)

 今考えれば当時の視聴者層の間に、年代別の歴然とした文化のギャップが出た時期なのかと。
 そもそも「ゴールデンタイム」だった筈の日曜夕食時。
 家族向け、全世代向けと言いながら一番狙うのは働き盛り(40〜50代)のお父さん、お母さんの世代でありました。
 大体20年前は、社会の中核になる世代が戦後生まれに切り替わった時期なのです。
 今の60〜70代の世代は終戦生まれ、高度成長期育ちで意気軒昂。
 かつあこがれの意識は豊かな海外西欧諸国へ向いて、自分の国イズとてもダサいだった時代だと思うのですね。
 親の世代への反発は何時の時代でもあることですが、「敗戦」が絡んで一層の強さがあるように考えます。
 自らの血、親を育んできたものへの、全否定。
 戦時の国粋教育の強制への反動があれば、尚の事。
 歌舞伎や講談と言った大衆向けの芸能、その中に受け継がれてきた太平記や太閤記、曾我物語に忠臣蔵という文芸のフォーマットはその世代で継承が絶えたんですね。
 後は「そういうのが好きな人」が選んで修得する特殊な教養になってしまった。
 前提となる教養が、常識として受け継がれない。
 娯楽と言えば軍記ものは外せないな!忠臣蔵の豪華さは王様だよね!という世代の好みと社会の中核層の好みがズレてきた。
 というより古典を引用しても話が通じない。
 解説してくれる役だった上の世代とは、とうに距離の離れた核家族。
 特殊な教養を有さない人相手にわかる話を作らないと、先がない。

 だから、新しくないといけない。

2:わからない人を出さない・「麒麟」以前の試み

 見ている人の知識があてにできない、そんな中で史劇を中核とする「大河ドラマ」をどうするか。
 試行錯誤の結果のひとつが、「いつの時代も人は同じ」として人物像を現代人的に作る手法だったかと思います。
 服装と時代だけが時代風で中身は現代劇。
 今の倫理観を持った主人公が、歴史上の結果に逆らわず、しかし歴史の転換点には事実に関わらず必ず関わるよう行動する。
 あまり評判の良くないポイントです。
 ことに時代の要請的に選ばれたヒロイン主人公だと、かわいそうな程に評判が悪い。
 引き合いに出されることの多い「戦は嫌でございます」という言葉に思うのは、「いつの時代でも人を思う気持ちは同じ」というアプローチの難しさ。
 同じじゃないんですもの。
 同じじゃない行動原理を、無理に同じと言い張る為に感情という理屈のなさでねじ伏せる。
 その無理が、浮いてしまう。
 第一いつの時代でも同じ話をするのなら、その時代を舞台にする理由が無くなってしまいます。
 意味が薄い要素はドラマの弱点になってしまう。話の上で必要でないのに歴史がねじ込まれた、となれば興ざめもいいところです。
「今」の持ち込み方があまり好ましくない作風と言えましょうか。
 話として面白くなく、時代の要請で取り入れる「今の空気感」はあっというまに古くなる。
 教養を要しないよう、中身は現代を舞台にした他のドラマと同じ、というアプローチは飽きられやすい。
 長期間のドラマを面白く作る、という難しさが際だちます。

 それから長編歴史小説をドラマ化するアプローチ。
 原作に使える長編小説の書き手が限られてしまって、これも続けて何本も作る主軸にはなり得ません。

 次に、学問としての歴史を持ち出してくるアプローチが出てきます。
 これは勿論「上の世代と私たちは違うのだ」という機運に逆らいません。ゴシップや実録ものの大好きな国民性も考えると「本当のこと」というイメージは力があります。
 見る人の教養に添った娯楽から、見ることが教養を作る娯楽へという役割の変遷があったとも言えるでしょう。
「ドラマは史実であるか否か」という、そもそも娯楽の役割と学問の役割は全く違うのでは?という不思議な議論がしばしば起こるのは、役割の変遷でもあるのでしょうね。
 現実であるが故のままならなさは、上手く取り入れられれば話の筋書きを複雑にします。
 そして状況の説明ができれば、事情に翻弄される人物に共感をおぼえさせつつ、人物像にも深みを増すことができます。
 意味のある史実の引用が、ドラマ全体を支える骨組みとなる。
 事前に特殊な教養は要らない、あれば一層楽しめる。
 これこそ王道……と、言いたいところなのですが。
 欠点が一つあります。
 一から教える分、ドラマに込められる情報量が多くなる。
 例えば時代背景の説明、状況の動き、リアリティある人物像。これを先読みしやすいパターンも、説明不要の現在の常識も抜きで作るので、説明しながら見せるのは必須になります。
 事前の知識が要らない分、ドラマの中にレクチャーがある。
 与えられた情報を整理し、理解し、味わう。
 情報を使いこなす技量というのは、何も作り手だけに求められるものではないのです。
 詰め込まれた情報が多ければ多いだけ、整理がつかないまま消化不良を起こす人の数が増える。

 この顕著な例が「いだてん」です。
 わかります、制作側に視聴者を振り落とすつもりがなかったのは。
 ドラマの側から「こういう人だけ見ろ」と選別された感覚は全くありません。メッセージ性による視点の拘束もありません。
 その意味では「普通に一般向けの大河ドラマ」でした、紛れもなく。
 違いがあるのは情報の量です。
 時代を構成する情報の素直な圧縮パックであった故の豊かな世界観の広がり、その圧縮技術故の独創性です。
 圧縮、ということは受け取った側で解凍、される訳でして。
 フルスロットルで荒野を駆け抜けるが如き膨大な情報処理に、ついていけた人は結果的に多くない。
 日頃から何らかの形で複雑な筋を追うことに慣れている人か、必死でついていく気を投げ出さずに済んだ体力気力のある人です。
 それか、好きなところだけ拾って遊ぶ私のようなタイプか。

 情報量がリアリティを作る。
 それ故に「事前の知識は要らないが、見るのに疲れる」。
 品質、それ故の制限。
 史学のエッセンスを取り入れるアプローチのドラマは、多かれ少なかれこの問題に当たります。
「いだてん」の情報量は極端ですが、「真田丸」も「おんな城主直虎」も歴史好きに高い評価を得た反面、めんどくさい、堅苦しいという話はありました……。

 つまり歴史学のエッセンスを取り入れる手法では、事前の教養は問わずドラマの完成度は上がるけれど、体力気力とやる気について視聴者をふるいに掛けることになる。
 残された一握りだけを囲い込むと、その一握りが視聴層から抜けたときに残る人がいない。
 限られた層のみ喜ぶドラマを大型予算で作る不公平、という非難もありましょう。
 客を選ぶドラマばかり作っていられない、皆様の公共放送だもの。
 なら、他のアプローチで作られるドラマも模索が必要、となるでしょう。
 そういう視点で「麒麟がくる」を見直してみます。


3:試行錯誤を踏まえた「麒麟」の挑戦

「麒麟がくる」も基本的には、時流に即した実際の歴史研究を取り入れて作られる話だと思います。
 ただ、同時にドラマに盛り込む情報の量をこまめに落としているのが特徴です。
 例えば十兵衛お使いクエストと言われる「命令、実行、成長」の繰り返し、博才のないギャンブラーである東庵先生や恋する乙女・駒のような、行動の先行きが読みやすいキャラクターは、見る側に情報処理の負担を下げさせます。
 情報量をリアリティだとすれば、情報量を落とすと作り物っぽさが出る。
「麒麟がくる」の場合その作り物っぽさは失敗ではなく、物語性を強調している意図が伺えます。
 最初から「作り物だ」と宣言しているからこそ、ドラマなのに嘘を描いてはいけないという空気を無視することができる。
 本当のことを「勉強」しなければならない、という意識も軽くなる。
 それでも要所で最新の研究を反映させて見せることで、都合の良い陳腐さに堕ちないようにキリッと締める。
 切り落とす部分と盛り上げる部分、その見極めをしくじると形無しになる作り方ですが、そこは脚本チームを率いるベテラン池端俊策の技量なのだなと感嘆しきりです。
 新しい、というよりは古風な感じ。
 その感じの元はなんだろうと考えた際に、ふと思いついたのは「ベースの違い」という事です。
 池端先生は、「太平記」はもとより沢山の時代劇に関わってきた人です。
 歴史研究をエッセンスとして取り入れる、そのベースになる文脈は何か。
 現代劇の文法に歴史研究を交えて作る世界と、古典的な軍記ものの文法に歴史研究を交えて作る世界では、自ずと違いがあるのでは。
 太平記、太閤記。軍記ものの数々。
 時代劇が持つフィクションのルーツはむしろそちらであるだろう。
 歴史の骨に現代劇の手法で肉付けるのではなく、時代劇の骨に歴史を移植してドラマを組み直していく。
 だからこそ当時の染色技術上存在しない、衣装でしかあり得ない装束も、装飾的な陣太鼓の演出も、当たり前に乗せていく。
 脚本の依って立つところは史実ではなく文芸だから。
 今のやんわりと共有される「歴史」という教養。歴史の力、そして映像技術と美術の新しさを借りて一度は時代遅れとして廃れたオールドスタイルの文芸をブラッシュアップする。

 必ずしも成功しているか、と言われれば「粗は確かにあります」と答える他にありません。
 平素のシーンから鮮やかすぎる衣装と映像は、例えば伊呂波太夫一座など一際鮮やかに見える筈の人を埋没させます。
 十兵衛がお使いに行って人と会い、「麒麟のくる世」のテーマを思い起こさせるクエスト的なパターンを繰り返す構成は、情報量のセーブに役だっているのですが、やけに都合良く人に会わせてもらえる側面は否めません。
 そして恋心や母子の情愛、というところは割と昔ながらのパターンで作られている。それはわからないストレスの少なさと、わかりやすい新鮮味のなさとのせめぎ合いになっています。
 陳腐と新鮮との間を綱渡りの危うさで切り抜けているところはあります。
 しかしベテラン故に、そしてわかりやすく読ませる手法に長けている故に先が読めるピースも目立つ脚本を若い演出の荒っぽさが補う。コンセプトの主張が表に出がちな演出の若さ・荒さをベテランの脚本が制御する。
 いい関係で作品ができているのではないかなと思います。

 ベテラン池端氏の一つ上の世代の常識だった、史実とは違うかもしれなくても教養だった世界を二つ下の世代へ継承する。
 歴史を扱うエンターテイメントのアプローチの、もうひとつの形。
 今、ここじゃない場所のドラマを魅力的に作る試行錯誤の形のひとつ。
 文芸からの逆襲。
 文芸の素養のないところに、改めて事実としての歴史を尊重する史劇ができ、ある程度日本史がブームになった基盤があるからこそ文芸が返り咲く地盤ができる。
 通じる人だけ、老人だけ相手にしてればいいやと視聴層を絞った結果、教養のない作り手がパターンだけを強調し、つまらなくて老人さえ見なくなった「時代劇」の衰退を見てきただけにこれはちょっと心ときめくものがあるのです。
 古いものから新しさを見いだす温故知新。
 ベストを見る思いというよりバリエーションが増えたことを言祝ぎたい。
 古くて新しい道を模索する、「麒麟がくる」のチャレンジを私は楽しみにしております。

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