「鎌倉殿の13人」:No.2の死について

 梶原景時が死んだ。
 ドラマが始まって以来、もう何人もが非業の死を遂げているのではあるのだけれど、やはりこれはひとつのターニングポイントなのだと思う。
 頼朝が死んだことは勿論物語を大きく動かす要素ではあるものの、むしろ頼朝という人そのものを送った感じであり、これから時代が動いていくひとつの予感という程度に留まった。
 これに対し景時の死は、頼朝の死に始まる混乱が穏やかには収まらないことが確定した帰還不能点である。
 これまで、そういう物語の流れが決定的になるポイントで描かれた死はもうひとつある。
 上総広常の謀殺である。
 山木攻めから始まった頼朝の戦争が、上総広常の死をもって板東武者に対する統率を強め、平家の滅亡と鎌倉幕府の成立へ向けて流れていく。
 挙兵序盤の局面を過ぎ、御家人にも頼朝にも油断が出て互いを軽んじる部分が出てきた(この象徴が頼朝と亀との関係であり、千葉や岡崎など御家人による謀反の計画でもある)危機を乗り越える為に、罪無き上総広常を切った。
 引き締めと求心力の強化を経て、頼朝は宿願の平家打倒を果たし、板東に政権を得た。
 この流れを思い出しながら、景時の死を改めて振り返ると、いくつかの共通項が見いだせる。
 ひとつは、御家人と鎌倉殿との関係に不安定な要素があること。
 戦の中弛みとも言える頼朝の場合と、代替わりで試される頼家の場合とは原因に違いはあれ乱れがあることに変わりはない。
 そして、御家人に対し鎌倉殿が見せる不信の種が女性問題であること。
 最後に鎌倉殿が御家人に対する姿勢を改めて見せる必要がある、その中で行われた「No.2」に対する処断であること。
 この三つの共通項の内容を頼朝のときと比較することで、頼朝の成功とは逆に今度は頼家の破滅に繋がるターニングポイントである、ということが浮かび上がる。

 戦の中弛みなり、代替わりなり、これからこの鎌倉殿は御家人達をどうしていくのか、ということを示して旗色を示すべき下地があった。
 大体腕っ節と気の強さを好しとする板東武者の気風の中、女性問題が面目に影響するのはわかる。
 だからこそ今、強い男である証明が迫られる。
 頼朝が地元の漁民の女である亀に手をつけたのと、頼家が配下である板東武者の妻に手をつけたのとでは、「女にだらしない」ことは共通だがイメージダウンの大きさが違う。
 御家人の(あえて言えば)資産に手を出して奪う棟梁だという姿だからである。
 しかも頼朝への忠勤をもって知られる安達盛長の息子の嫁であるとなれば、尚悪い。誰もが知るほどの忠誠を尽くしてなお家の中へ手を出され、逆らえば「首打て」まで言われるのである。
 この鎌倉殿に所領は本当に安堵してもらえるのか、疑問が出る。
 強さを示し、恐怖で引き締めを図る為、景時が広常の先例を思い出すのは無理もない。
 しかし結城朝光では足りない。
 むしろ結城は三浦の囮であり、連判状という形で御家人達にひっくり返されてしまう。
 この場合において「景時の処断」という決定は「広常を切る」に匹敵するかといえば、ならない。
 連判状の勢いに便乗し、肯定する形は「数で押せば通る」ということに他ならないからである。
 これでは争いは収まらない。
 収められない鎌倉殿への信用は落ちる。
 御家人からの信用が落ちれば幕府の力も頼朝一代で終わるし、朝廷の巻き返しに抵抗できるだけの大義名分を持てる勢力は既にない。
 ここから承久の乱までの混乱と危機が始まる、その転機が景時の死と考えていいだろう。

 頼家は父に倣って、御家人全てを信用しないと言っている。
 しかし、安達に何故手を出してはいけないかをわからないように、時連が近習の最年長であることを気づかないように、頼家はそもそも御家人それぞれの見分けがついていないのである。
 関心が無いまま「疑う」ことだけを覚えてしまったので、それぞれが抱えた事情も、父との関係も、全て知らなくてもよいことに分類されてしまった。
 子供なのである。
 むしろ子供だからこそ、景時は自分の背後に庇って出さないつもりでいた。そこを私欲だと疑われてしまえばそれまでだ。
 景時の失敗でもあり、跡継ぎの育成さえ自分の地位を危うくする疑いを持った頼朝の、他の御家人とのつきあいより若君の抱え込みを図った比企の失敗でもあるのだけれど。
 頼家の未熟と繊細さも含め、総じて「不運」とも言える。
 つまり神仏の加護は確かに頼朝を去り、頼家の上には残らなかったのである。

 頼朝が神仏の加護を得た男ということを、これまで誰よりも尊んできたのは景時である。
 広常を切るときも双六を通じて天に問い、頼朝と義経が共に神仏の加護を得ているからこそ両立しないと読み、平家が滅んで戦が終わった今は義経を排除すべきと率先してその死に関わった景時である。
 後鳥羽上皇の文が、義経に向けられた後白河法皇の寵愛と同種のものであることに敬虔な運命論者である景時は何を感じたか。
「なまくらで終わりたくはなかった」
 刀の価値は使い手の価値と思う景時の自嘲は頼家に向ける呪詛となる。
 義経が行くなと釘を刺された奥州へ向かうように、景時は京都へ武装して向かう。
 それを「討ち死にの希望」と義時に伝わるのは、義経に対する書状を共にしたからこそのことだろう。

ところで、景時を始め「神仏に愛されている」という頼朝の特性が多くの板東武者の心を引きつけたのは何故かと言えば、死に近い時代の中でも戦が身近な武士には殊更「加護」が魅力であったからだ。
 頼朝の敬虔さは、死に対するおそれの強さでもある。
 頼家に敬虔さがないのは、危険な戦が減った証でもある。
 だから義時の賢い愛息にも、戦って死ぬ誇りを求める気持ちは当然には伝わらない。

 梶原景時の死は、上総広常の死に定まった頼朝の神話の終わりであり、頼朝の息子達が加護なく失われていく物語への流れを定める転機である。
 景時が忠実なのは、血筋ではなく運命だ。
 私心のなさは冷淡で、不憫を見る者は数少ない。
 平家打倒を果たし、徴税徴兵権は全国に及び、その大きな視野で行く末の希望を見る者はさらに少ない。
 夢はなく、危険も薄く、それでも現状がこれより上向かないことにも不満がある。
 それが今の鎌倉である。
 守り導く神仏のない、人の世の戦いがこれから始まるのだろうと思う。

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