鎌倉殿の13人:27回を見る前に。

 頼朝が死んで、いよいよドラマのタイトルにもある「13人の合議制」が始まる。
 この期に及んで改めて思うのです。
 幕府、というこの先1868年の明治維新まで至る政治形態は、まだできたばかりだということ。
 前例がない組織が、唯一の頼りである創建者を失った。
 現代から振り返る目には当たり前の権限移譲ができる訳がない。

「征夷大将軍」という官位と治安維持の権限を得て、全国の所領運営を委任された形にして実質的な政権を握る。
 将軍の下の機構が違いこそすれ、700年以上続く政治形態が決して当たり前ではない時代があった。
 頼朝だからこそ将軍と官僚による政治を行うことができ、それを頼朝でなくても引き継いでいける形を作り上げていけなかったら、幕府という形はほんの一時のムーブメントで終わった筈である。
 武家に対する臨時の最高位に過ぎなかった「征夷大将軍」を統治権に結びつけたのは頼朝の政治力があってこそ。
 頼朝の動きやすいように作られた組織、後を継ぐ形も何も前例がない、誰もが認める突出した有力者のいない鎌倉。
 福原に都を作りきれず宋銭の流通も定着させられなかった平家の後を追う可能性は十分あった。

「俺より強い」と認めさせることが支配権獲得の絶対条件だった板東において、絶対権力者に上り詰めた男が死ねば、世襲よりむしろ新たな最強の男を選ぶ発想の方が当たり前だったろう。
 しかし求心力の核になれそうな強者は皆頼朝が殺してしまった。
 互いに「昔は俺の方が偉かった」と思う程度の強さしかない。
 同時に今のいいポジションは手放したくなかったり、むしろより上のポジションを狙っていたりする。
 その上自分が面倒な仕事は誰かに押しつけたいのである。
 しかし対等以下の相手に偉そうな態度は取られたら屈辱なのである。
 屈辱を晴らす最上の手段は相手の殲滅である。
 西の奴らに支配されない板東武者の国を作る、頼朝の死を夢への転機と呼ぶにはあまりに救いのない。

 地獄の扉が開いた。説明なしに見る側が直感させられるのは、これまでの脚本の積み重ねだと痛いほど思うのです。

 頼朝以前の板東では既にない、13人並列の勢力図。
 戻りようのない頼朝以前の板東のやり方しか考えられない者が、いずれ我慢はできなくなる。
 京都から来た貴族出の官僚たちは板東者を抑える武力を持たない。
 それは政子と小四郎の姉弟以外に幕府の守護者はいなかろう。

 政子は頼朝への愛の他、京都の朝廷に対していまだ鎌倉は影響力の脆弱な段階にあることを大姫の件で知っている。御台所の責任の重さを知っているからこそ、放り出すことが取り返しのつかないことになることを察することができる。
 小四郎は武士のくせに仲間のつきあいや武芸の競争より倉の米勘定が好きな変わり種であり、それ故に戦がないということの利点がわかる。頼朝の側近として無慈悲な処断をすぐ近くで見ているから、その死の意味もきっと引きずっている。感情に蓋をする、ということはその場しのぎの先送りに過ぎないからだ。

 2人とも、板東の武家社会からは最初から少し浮いていた。
 違うからこそ頼朝を運命として選び、だからこそ頼朝の遺した幕府の守護者になるのはわかる。
 わかるが、悲壮だ。
 天が頼朝を愛したというのなら、頼朝を通じて幕府という制度を継続するよう天に選ばれてしまったのではないか。

 物心付いた時には頼朝が覇者だった、次の世代が既に育っている。
 血筋以外に頼るもののない頃の頼朝の状態まで戻されてしまっているのだけれど、頼朝に従う御家人の姿しか見たことのない頼家と、小四郎の溺愛の元もしかすると父親以上に「少し浮く」道を歩き始めている頼時、頼房はその少し浮くところを地に戻すことができそうだ。
 次の世代は次の世代の修羅を生きなければならないことが確定している。
 それでも「少し浮いている」部分にしか未来が見えない。

 悲壮美に溺れず、つまり「闇落ち」することなく、むしろ落ちる方が普通だろう艱難辛苦を越える強さは「少し浮いている」からなのか。
 そこが哀しくも可笑しくも美しくもあるんじゃないかな。
 闇に落ちるより遙かにハードな道のりを、覚悟を決めながらも楽しみに見ていこうと私は思うのです。

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