「守銭奴 ザ・マネー・クレイジー」:喜劇とは何か。

1:「喜劇」とは。

 「守銭奴」は17世紀フランスでモリエールの書いた喜劇である。
 確かにアルパゴンの常軌を逸した吝嗇は滑稽と言える。
 言えるがしかし、怖い。
 ビニール素材の中で柔らかく拡散する寒色のライトは、アルパゴン邸が氷の館であることをイメージさせる。
 ストーブの赤、フロアスタンドの暖色の光はすぐ消され、主であるアルパゴンは無駄が行われていないか、自分の金が盗まれていないか、頻繁に邸内を巡回する。
 邸内に響きわたる警報めいた呼び出しベル、続いての足音に家族も使用人もおびえを見せる。
 ある一家の様子ではあるけれど、これは圧政の姿である。
 そして館の外は外で冷たく雨が降り、外に逃げれば解放される訳ではないことが示される。
 物語の後半、アルパゴンが庭に埋めた金が消えた後が更に怖い。
 館の庭、とされる荒涼たる光景。捨てられた古家具と枯れ木が点在する中、真ん中に金を隠していた人一人入る程度の穴が開いている。
 何故「人一人」の大きさだと断言できるかと言うと、かなり暗くされた舞台の中、その穴から出てきた影が人の大きさになり、アルパゴンであることがわかるというのが、このシーンの始まりだからである。
 ほぼ幽鬼である、その後ろ姿は正直ホラーである。
 ものすごく怖い。

 喜劇 とは。

 少なくとも所謂コントと同様の意味とは受け取れない。
 滑稽ではあるかもしれないが、その笑いに幸せの暖かみはない。
 つまり、喜劇の要素は「楽しい」ではないことがわかる。
 ならば、喜劇が悲劇とも他の演劇とも違うジャンルを形成している基礎は何であるか。
 本作の笑いの基礎は、現実にはありえない程に誇張された吝嗇、という歪みである。
 現実にありえないことと、現実とのギャップで人は笑う。
 一方で、現実にはありえないながら、観客はこのありえない吝嗇ぶりの想像ができる。
 概ねの人は、程度の差こそあれ皆吝嗇であり、他人の吝嗇に悪態をついたこともあるからです。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、それでこそ現実とのギャップで人は笑うのではなかろうか。
 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にあり得ないことが起きる仮定の世界を、皮肉に笑う。それができるのは誇張された自分の欲を投影できるから。
 しかし皮肉で笑わせる、というのはポイントを外すと寒い。
 皮肉は愚かさを笑うという意地の悪い笑いであるからである。 
「冷笑系」という皮肉を皮肉る表現が現れて久しい。
 少し視点をずらすが故に論点から正面に取り組むことを回避する、その自分を棚に上げた無責任な「上から目線」は嘲笑の対象であるということです。
 的を外せば皮肉は簡単に「冷笑系」に堕す。
 あくまで自分の底にある愚かさを共に笑うように導かなければ後味が悪い。
 高ぶった感情で不都合から目を逸らせることなく、観客に冷静に欲望の醜さを共有させなければならない。
 おそらく公演する時代と土地に合わせて皮肉をチューニングするのが演出の腕前ともなるでしょう。
 その繊細で難しいアイロニーの演出と支えるロジックの構築を、本作に見たように思います。

2:プルカレーテの喜劇

 思えば2020年の野田版「真夏の夜の夢」も喜劇ではあったのですけれど。
 恋の移ろいやすさと、想いだけではない富や社会的立場を手に入れる打算、それに振り回されるさまを笑う「真夏の夜の夢」。
 しかし野田秀樹がシェイクスピアへ大幅に手を入れたテキストで示されたのは、恋や打算を争う以前に世界からはじき出された者の復讐であり、その復讐から世界を取り返す戦いの物語だったように思います。
 シェイクスピアの世界そのものを皮肉の対象とする、換骨奪胎の手法そのものが喜劇的ではあるけれど、物語としては脱喜劇であったと考えることもできる。
 日本で見られるここ五年の作品4本しか見ていない私にとって、今回が初めて見るプルカレーテの喜劇となります。

 今回の「守銭奴」について、おそらく一番大きな変更はラストシーンだと思います。
 岩波文庫「守銭奴」(鈴木力衛訳)を紐解くと、物語は二組のカップルの結婚式の費用をアルパゴンの晴れ着までアンセルムが負担することを約束した後、ジャック親方の為に警部の要求する捜査費用も負担して、全て丸くおさまったところでアルパゴンが金の入った「わしのかわいい箱」に執着を見せ一座から離れていくところで終わる。
 人々が離別家族の再会と結婚の支度に沸き立つ中、一人金しか見ていない「守銭奴」アルパゴンの滑稽を笑って幕となる。

 プルカレーテ版において、ジャック親方はすげなくアルパゴンに見捨てられたまま、誰にも省みられることなく警部に引きずっていかれる。
 アルパゴンは、戻ってきた箱を抱えたまま何にも関心を示さなくなり、遠巻きに人々が離れ舞台を去った後、箱を抱いて再び金を埋めていた穴に入っていく。
 その姿は、やはりアルパゴンの死を想定するのが妥当でしょう。
 では、何故アルパゴンとジャック親方は死を暗示しながら舞台から去らなくてはならないのか。
 圧政を強いる狂気の支配者がアルパゴンであり、その傍らにある忠実な道化がジャック親方だったからだろうと思うのです。

 本公演の演出において、金とは支配力の源泉でした。
 ため込んでいる金をいつかは、理由によっては、使うだろうという期待が家族や使用人たちをアルパゴンに引き止めている。
 一万エキュの盗難がアルパゴンを一層の狂奔に駆り立てるのは、金を失うことが支配権の喪失に他ならないからです。
 クレアントはラ・フレーシュを通じて父から奪った一万エキュの箱を抱えて初めて父アルパゴンと交渉する力を持つ。
 交渉条件を飲み金を取り返しても、一度膝を屈したアルパゴンに支配力は戻ってこない。
 既に場にはアンセルムがいる。
 更なる金持ちでしかも気前よく金を使うアンセルムの出現に、人々は一斉にアンセルムの側へ走っていく。
 そのアンセルムに対し、アルパゴンは結婚式の費用や自分の晴れ着と言った支出の要求をするのが精一杯で、それも受け入れられてしまえばもう抵抗のしようもない。
 金を使わないことで圧政を強いてきたアルパゴンは、金を使わないことで支配権を失うのです。
 行動は同じまま立場の反転するアイロニー。
 そして支配する相手も失った中、使うこともなければ何の効果ももたらさない金を抱えて消える。
 その姿は狂った王の哀れな末路と写りました。

 一方アンセルムも何でもかんでも金を出すのではなく、ジャック親方はそのまま警部に引きずっていかれる。
 勿論ジャック親方に罪はある。ヴァレールを陥れ危うく死刑にする所だった、しかし1万エキュの盗難については無実である。
 それなのに連れていかれるのは、誰もジャック親方を気にしていないからです。
 ジャック親方はアルパゴンに酷使される姿を滑稽に描かれる道化であり、誰からも見捨てられる弱者である。
 ジャック親方の焼いた子豚の丸焼きを手元に残し、引きずられていく彼をただ見捨てる。アンセルムだけでなく他の一同も決してただ善き人ではあり得ない。
 子供たちも、使用人も、皆それなりに弱くずるいです。
 警部に払う調書代、それが払えないし誰からも払われない為にジャック親方は(おそらく)死ぬ。
 酷使に耐える忠実もいろいろ器用にこなす技術も買われないアイロニー。
 それにアンセルムはアルパゴンから提案されたエリーズとの婚約を一時は履行するつもりでアルパゴン家を訪れている。
 なのにアンセルムがアルパゴン邸に持ち込んだ大きな袋の中身は大団円のサプライズとして現れる、マリアーヌの母で自分の妻です。
 考えれば考えるほど、何故そうしたかと。
 かつて動乱でナポリを追われたドン・トーマ・ダルブルチは善き支配者であるだろうか。
 経緯の差こそあれ、息子と娘の養育に金を払わず、息子の恋人である娘のような年頃の女と結婚しようとした点では、アルパゴンとアンセルムに大きな違いはない。
 アンセルムの善き支配は、所詮金の払いの気前良さからくる現段階の期待の内でしかないのです。

 金を使わないことで発生した支配権を、金を使わないことで失う。
 支配力の目減りを気にして使えない金を、金以外の全てを失った後も後生大事に抱えて消える支配者の末路。
 金を使う、ただその一事でそれまでの全ての経緯を忘れて歓迎される新たな支配者。
 動かさなくとも状況でその価値が大きく変動する金というアイロニー。
 その価値の変動を支配権の移る様で示すロジック。

 金という購買力の魅力。
 だから人は金を求めて支配される。
 従順な被支配者からひたすら搾取したい欲望と、寛大な支配者からひたすら与えられたい欲望とは表裏一体である。
 そして命まで購買力に左右される恐怖。
 強い者が助けない弱者を人の多くは省みない。
 命をさえ守るその力を人は求め、手に入れば執着し、目減りを恐れて使えなくなる。
 しかし使わなくなると金は金でありながら購買力をなくし、支配力もなくすのだ。
 元から金のないジャック親方同様に、アルパゴンは省みられることなく打ち捨てられ、購買力をなくした一万エキュを抱えて穴の中へ消えていく。
 笑いで終わらないからこそ金が持つ支配権の側面が浮き上がる。
 狂王の圧政最後の一日。
 その見立ては繊細で悲しみを含んだアイロニーであり、そのアイロニーは明確なロジックで支えられた動きの中にある。端正な喜劇のありようだと思いました。

3:再び喜劇とは。

 あり得ないことを現実の延長線上に構築するためのロジック。
 そして誇張された姿が滑稽に写るよう作るためのアイロニー。
 現実にはあり得ないことが起き、しかしそのあり得ないことが想像はでき、そのギャップを笑う。
 共感というには冷たく、自分の身を振り返ればうすら寒い。
 喜劇は楽しいものなのか。
 そう言われたら、時と場合によるんじゃないですかね……という歯切れの悪い答えになりそうな気はする。
 笑いどころがかみ合わない喜劇は、おそらく一切笑えない。
 幸せや嘆きを分かち合う種の物語より、笑いを引き出すのはずっと難しいのではなかろうか。
 そして人の無意識の下に持つ醜さを笑うのは醜いことであるか。
 勿論そんなことはない。
 醜いものが存在しないという仮定で蓋をする物語の方が高尚かと言えば、却って子供だましと言うだろう。
 世間の、人の、自分の、醜さをよく知った大人が改めてそれを醜いと確認して笑うことは、むしろ必要なことなのではあるまいか。
 あまり日本では馴染みの薄い作品性かもしれません。
 しかしそれが海外の古典作品に触れる意味ではないかと思います。

 シャープなロジックと繊細なアイロニーで構築された「守銭奴」に、そんなことを考えました。
 素晴らしかったと思います。

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