見出し画像

「多元追憶ストライクエンゼル」への道:2009〜2010

 「多元追憶ストライクエンゼル」への道、それは監督佐橋龍とその仲間が、ストライクエンゼル第一話のYouTube公開にたどり着くまでの物語である。
(現在作品に関わっているスタッフキャストは作品でのクレジット表記で表記、それ以外の関係者はイニシャルにて表記する)

 2009年、佐橋の母校慶應義塾普通部で開催された労作展(文化祭の様な催物)で、佐橋は「サイレント仮面」を発表し、一部のオタク趣味を持つ学友たちから注目を集めた。佐橋にとっては当時ハマっていた庵野秀明タッチな編集も、アクションヒーローもののテイストの作品の中では学友たちにとって新鮮なものに見えた様だった。皆一様に「仮面ライダーじゃん」と感想を言いに来る中、一人だけ佐橋の真意に気付いた男がいた。「サイレント仮面ってエヴァだよね?」そう言いにきた男が後にSection2のプロデューサーとなる男原裕一朗(以下:原P)であった。原Pとはそれまで仲が良かったわけではなかった。お互い中学2年、抑えられない思春期の鬱憤ゆえに喧嘩や罵倒し合いも日常茶飯事だった。その原Pの佐橋への当たり方が変わり始めたのが「サイレント仮面」の公開だった様に思う。
 その原Pと本格的に意気投合したのが共通の友人からもたらされた、「マクロスの河森正治監督が我々の先輩である」と言う情報だった。当時「劇場版マクロスFイツワリノウタヒメ」の公開に際し、テレビで「マクロスF」の再放送をやっていた。そして何より奇跡的にも河森監督についての話を聞いて僕と原Pは同じ日に「超時空要塞マクロス愛・おぼえていますか?」を鑑賞、次の日には佐橋も原Pも「ヤックデカルチャー!」「キースーマカウケイ!」とゼントラン語を連発するマクロスオタクと化していた。「サイレント仮面」でやんわりと繋がれた絆はクラスの一部の人間の中で起きたマクロスブームによって縁として結ばれたのだった。
 時を同じくして、佐橋は小さな同好会活動を始めたいと漠然と考えていた。週末に集まり、ハマっているアニメや特撮について話し合う、そして行く行くは一緒にオリジナル作品を作る仲間として活動していきたい、と。すぐに何人かのコアなアニメ特撮ファン、友人に声をかけて人数を集めようとした。その時「ゲームも加えてほしい」と言ってやってきたのが、後の監督助手等制作周りを手助けしてくれることになる田中峻矢(以下:タナさん)であった。そして佐橋、原P、タナさん、アニメ特撮ファンの高橋(現在は飲み会のみ参加)の4名でスタートしたのが同好会「アニゲー特研究会」であった。当時のアニゲー特研究会の設立と活動理念は「古き良き時代のアニメや特撮を研究、布教する」ことにあった。今思えば佐橋を始めメンバーの全員にとって布教すべき「古き良き時代の作品」とは何か、それすらも良くわかっていなかったが、その理念は現在の「Section2」の活動の根幹でもあると言えるだろう。しかし佐橋には明確にひとつそのイメージがあった。それが「宇宙戦艦ヤマト」だったのだ。

 アニゲー特研究会の最初の活動は2009年12月12日公開の「宇宙戦艦ヤマト復活篇」を鑑賞しに行くことだった。現在のSection2の活動の始まりは新時代のヤマトであったと言っても過言ではなかったのだ。そしてその劇場での鑑賞はメンバー各々に衝撃を与えた(タナさんに至っては現在に至るもその日見た「宇宙戦艦ヤマト復活篇」が最高のヤマト体験であり、大きなカルチャーショックであったと語る)。そしてその時佐橋に芽生えた野望が「復活篇を超えるSF作品を作ること」だったのだ。その時の佐橋にとってヤマト復活篇の公開は、もはや過去の作品であったヤマトが自分の世代に劇場で見られたことの喜びと、良く言えば「ヤマトらしい懐かしさ」、正直に言えば「現代の作品的にはズレてしまった古い作品性」への煮え切らない思いが渦巻いていた。佐橋の決意は固く、その上映後人生初の企画会議をしたのを覚えている。ヤマト復活篇のどこが良くてどこが更新すべき古い点なのかを話し合った記憶がある。そしてその日のうちに導き出されたアニゲー特研究会の記念すべき第一号作品は宇宙戦艦を主役にした世界と異世界宇宙との戦争の物語であった。ふたつの平行宇宙がぶつかり、そのふたつの違う文明、歴史を持った地球が戦争を始めるという壮大な企画であった。封切りを2010年の慶應義塾普通部労作展と決め、まだ名もなき「宇宙戦艦企画」はスタートしたのであった。

 第二回目の企画会議のことも鮮明に覚えている。アニゲー特研究会4人で下北沢の模型屋を訪ねた後のファーストキッチンでのキャラクター設定会議だった。どのように制作していくのかという問題を一度度外視して行われた企画会議は中学二年生の夢を形にしていく様で夢のような時間だったのを覚えている。この時点で作品の主要人物の人格がほぼ確定し、桐生リョウジ(当時の苗字は大和リョウジ)を始め、古河トモヤ、藤原ダイチ、木崎サブロー、匠ケイスケ、天田ヒカル(当時の苗字は葛城ヒカルだったが、後に元ネタであるエヴァンゲリオンの葛城ミサトがAAAヴンダーの艦長となったため苗字を天田へと変更した)と言った主要キャラクターの名前が決められた。普通部が男子校だったためこの頃のアニゲー特研究会には(配役の問題やお年頃故の恥ずかしさから)「ヒロイン」という概念は無く、少年達の男の世界を描こうと話は進んだのである。そのため桜木セラや那奈井ユキエ、久織ミサキ等のヒロイン達が作品に登場し始めたのはまだまだ先のことであった。 
 そして満を持して主役の宇宙戦艦には“飛ぶ龍”として「ヒリュウ」という名が付けられ、タイトルはヤマトを超えるという意味を込めて「宇宙超戦艦ヒリュウ」と命名されたのだった。
 シリーズ構成は壮大であり、当時「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズも始まっていたことから、30分の実写作品を三部構成で制作しようということで、アニゲー特研究会は第一部のプロット制作やデザインワークを始めた。放課後に集まれるものは集まり、幸いにも図書室の視聴覚ブースに置かれていた「宇宙戦艦ヤマト劇場版」や「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」を鑑賞しながらあれこれと中二脳をフル回転させたのだった。
 この活動にさらに、後一時期のアニゲー特研究会の特撮を支えることとなるTと数名の佐橋の後輩が参加しプロジェクトは本格的に動き始めた。
 佐橋等は夏休みに入るとデザインした宇宙戦艦ヒリュウの造形や、既成のプラモを使いセット制作を開始、また本編撮影のために教員に交渉して数日間大きめの教室を借り切り、本編撮影も行った。それは夢のような日々であった。見慣れた教室に机と椅子を使って組んだヒリュウの第一艦橋を制作し、メンバー達はキャラクターになりきってヒリュウと共に未知の敵に立ち向かって行った。
 この時佐橋は初めて大人数で作品を制作する都合上、イメージの共有のため「画コンテ」を導入した。当時の佐橋の絵は今よりもさらに稚拙であったが、紙の上で物語を進めていく快感をこの時掴んだように思える。30分弱の「宇宙超戦艦ヒリュウ第一部大宇宙ノホウカイ」の画コンテを切り切った時の感動は今も忘れない。そしてその快感が現在の「多元追憶ストライクエンゼル」の画コンテ制作の原点なのかもしれない。
 数日の本編撮影には当時の佐橋の担任教員に艦長役として参加してもらい順調に進んだ。そして特撮も、しばらくミニチュア特撮から離れていた佐橋だったが仲間の協力もあり納期に間に合うことができた。
 こうして完成した「宇宙超戦艦ヒリュウ第一部大宇宙ノホウカイ」は2010年の慶應義塾普通部労作展で公開され、「サイレント仮面」以上の評判となった。
 が、それは同時に佐橋を始めアニゲー特研究会の一部野心を持ったメンバーの心に火をつけ、そしてヒリュウの最初の挫折へと突き進んでしまうのであった…

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?