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「いじめとは何か」を言語化する。

はじめに

 「いじめ」。今やその存在は悪い意味で当たり前となっているものである。年々、確認数が増加しているが、同時にその基準は非常に曖昧となってきている。無視されたから、仲間はずれにしたから、原因なんて人それぞれで、被害を受けた人の気分次第とも言えてしまうものになってしまった。

 社会に生きる私達が生きづらいのはもちろん当然のことだ。どこにでもマナーは存在し、法律を守り法律に守られる生活をしているから。しかし、子供は少年法という一定の自由がある故に、無法地帯とも言える状況になっている。私はふとこう考える時がある。

『子供の社会は大人の社会よりも生きにくいのではないか?』

 そこで一度、私の中でいじめという問題を再認識する機会を設けるとともに、いささか文章にするには難しい「いじめ」という問題を文章化する挑戦をするためにこれを執筆している。

いじめはどうして生まれるのか。

 『そもそもいじめとはどうして生まれるのか。』

 これについて考える大人はたくさんいるだろう。私自身もよく目にしてきた。しかしながら、その大半は明瞭でない回答を口にする。

 それもそのはず。「いじめを考える者」=「いじめられた過去を持つ者」ではないのだ。要領を得ない回答をする者が多いのは必然だろう。それにいじめはいじめと認識されなければ、いじめではない。

 「いじめの認識」はいじめの原因であると私は考えている。原因と言っても「いじめられる原因」ではない。いじめられる原因を考える者は論外だ。いじめをまったく理解していない。それについては後述する。ここでは「いじめの認識」について話を続けたい。

 「いじめの認識」によって「いじめ」は誕生する。そもそもいじめの種はどこにでも蒔かれている。ある程度関係値のある者同士であれば、そこにはいじめの種はもう植え付けられている。ただ発芽するための要素がないだけなのだ。

 では「いじめの認識(=発芽するための要素)」とは何か。「AさんがBさんにされた行為をいじめと認識する」ことである。ただ、それだけなのである。

 これを聞くと「そんなふざけた話があるか!」と言う人がいるかもしれない。しかし現状はそうなっているのである。いじめの定義はできないのだ。あえて言語化するなら「ある人に対して与えられた行為のうち、その人が(強く)不快だと思うこと」であろうか。曖昧なことには変わらない。

 痴漢によく似た現象である。痴漢も曖昧なものだ。あえて言語化すれば面白いことに「ある人に対して与えられた性的行為のうち、その人が(強く)不快だと思うこと」といじめとほぼ同じになる。

 パワハラ、セクハラなどのハラスメントなどをはじめとして、共通するのは「ある人に対して与えられた行為のうち、その人が(強く)不快だと思うこと」なのだ。これに条件が付け加えられた行為が「いじめ」以外の名前を持つ。ただし大人の社会だけではあるが。

 ここで『はじめに』を思い出してほしい。

子供は少年法という一定の自由がある故に、無法地帯とも言える状況になっている。

 私はこう言ったのだ。子供の社会には痴漢もセクハラもパワハラもない。ないというと語弊があるため言い換えると、痴漢やセクハラ、パワハラとして認識されない。すべて不快なものは「いじめ」と認識されるのだ。たまに「性的嫌がらせ(性的いじめ)」などという言葉が使われる限りである。

 これがいじめのからくりなのだ。定義が曖昧であらゆる不快なものを含めるためにいじめはいとも容易く生まれてしまう。

いじめられる人が悪い論

 これは前々から一定の層で言われている論である。聞いている者からすると罪悪感が生まれないものなのかと不思議になるが、これを間違っていないと思う者がいるのは事実だ。

 しかし、この論理は間違っている。この論理が無くならない原因としてはどう間違っているかを言語化できない点にある。私はここで言語化してみようと思う。

 「いじめの原因」は「いじめの認識」と言ったが、ここで前述した内容を振り返りたいと思う。

いじめられる原因を考える者は論外だ。いじめをまったく理解していない。

 この文章について軽く説明すると、いじめられる原因というのはそもそも存在していないことにある。これはいじめられる人が悪い論に繋がるところでもあるが、子供の社会にいじめられる原因は何もないのだ。正確に言えば『いじめと認識された瞬間にいじめであるために、すべてがいじめの原因んであり、何かが特別な原因になることはない』ということである。何かが悪いからいじめになるといったことはないのだ。極端な話、日本の99%以上が何とも思ってない行為でも1%がされて不快と思ったらいじめになる程度の話なのである。

 ここまでは一方的に論理が違うことを述べてきたが、恐らくこれで納得するならば最初からそのような論理を唱えてはこないだろう。そこで一度、別の視点から説明したいと思う。

 『大人の社会では「いじめ」と言わない理由』。これについて少し話したい。いじめは子供間で起こるものといった認識は共通認識で間違いないはずだ。時折、大人が子供に仕掛けるいじめもあるが、行為が幼稚すぎてわざわざ触れようとは思わない。それは犯罪者か犯罪者予備軍だということを警告しておくに留める。

 大人の社会では法律が厳しくなる。少年法で守られなくなるわけだ。これは大人だからこそ自分自身の行動に責任を持ち、マナーを守ることができなければその責任をとって、賠償をする。これが社会の治安を守るシステムである。しかしながら大人の社会にも「いじめ」のようなものはたくさん存在するのだ。

 パワハラやセクハラなども既に名前を挙げたが、これ以外にも子供の社会ではいじめと認定されるものの、大人の社会では気にもされないことは多く存在する。

 ここで1つ名前を挙げたいのは「イジリ」である。今回はこれが一番説明しやすいと考えたために名前を挙げた。これ以外にも該当するものは多く存在するだろうから、それは読んでいる方の胸に留めて、これからの生活にどうか活かしてほしい。

 イジリは子供の世界では完全ないじめである。誰かが誰かの欠点などをおもしろおかしく責める。「欠点」、「おもしろおかしく」、「責める」などと子供の社会では「いじめ」と認定されるような条件がてんこ盛りだが、大人の社会ではこれを受け入れることが1つの芸のように扱われる。そして受け入れられない人は「面白くない人」「めんどくさい人」などと社会的に生きづらくなるような全く受け手に得のない芸なのだ。

 子供の社会と大人の社会でこのような違いが見られる理由には、経験の要素が大きい。人生経験である。「ここでどんな発言をすれば良いか。」「ここでどんな立ち回りをすべきか。」など大人の社会では当然のように要求される一種の技術であるが、これは子供には到底できるはずもない技術である。だからこそ子供は自身の状況を改善する術を知らないのだ。また、いじめる側もどこまでが相手が嫌に思わないかの感覚も感じ取ることができない。

 つまり、いじめとは人生経験の足らない子供同士によって引き起こされる大人の社会の縮図なのだ。

 大人の社会でも子供の社会でも同じことは起こる。しかし、人生経験が足りないことでいじめる側も度を超えすぎた行為に繋がり、いじめられる側も上手く切り抜けることができない。これは子供に責はないのである。人生経験の足りない子供に「いじめをするな」と言っても無理なのである。

 だからこそいじめられる方が悪い論は成立しない。いじめる方もいじめられる方も人生経験は等しく足りていない。その状況でいじめが起こるのは半ば運と言っても過言ではないのである。誰にでも起こりえることなのだ。

 いじめられる方が悪い論を唱えるのは大部分がいじめられたことがない人だろう。そういう人はただ運が良かっただけなのだ。もしくは鈍感だったに過ぎない。私はここまでをいじめられる方が悪い論が間違っている根拠にしたいと思う。納得しない人は恐らく今後も納得しないだろう。そこまでして理解を求めるつもりはない。

いじめをなくすために

 私達のようなもはや子供と言えない年齢になった人たちは、子供の状況を見て「いじめを撲滅する」とよく発言する。しかしその方法を聞かれると、口を濁すだけである。いじめを見て見ぬふりする大人すら多く存在するのが日本の現状だ。子供を変えようとしてもいじめは絶対になくならない。

 「いじめの認識」でいじめは生まれる。私達は子供の誰か不快にさせようとする行為を止める責任があるのだ。つまり人生経験を積ませてあげなければならない。それは「教える」もしくは「叱る」という行為である。いじめに回数はない。一度でもいじめは成立する。いじめをなくすには事前にいじめが何なのかを教える必要があるのだ。そしていじめになりそうな時はすぐに叱る。

 いじめをなくすためには大人の積極的な子供への働きかけが必要であり、同時に大人が子供に寄り添うことが必要なのだ。

まとめ

 「いじめとは何か」「いじめが生まれる原因」「いじめられた人が悪い論」「いじめをなくすために」などと言語化していったが、そのどれもが「いじめ」という問題の深刻性を示していた。子供社会の厳しさやそれについて考える大人の楽観、そして大人の行動はすべていじめの問題を深刻にしている。私達はいじめという問題を忌避しては絶対にいけないということを再認識すべきなのだ。

 今一度、私達がいじめという問題について考える機会に繋がったのであれば幸いである。稚拙な文章についてはご了承願いたい。

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