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「自分のために生きよう」という言葉

社畜であることを卒業しようと試みている。
いつも、何かをすることに罪悪感がある。
いつも、何かをするたびに「頑張らなきゃ」と思う。

でも、これは人間としておかしなことだと、コーチングでバディになった精神科の先生に伝えられた。
普通、人間は「楽」に過ごすものだと。

その先生は、驚くほど働いている。
家族に申し訳なく思うくらいに働いている。

もちろんお医者さんになるくらいだから、勉強量だって、教養の深さだって、その積み上げてきた軌跡は私の比にならない。
その先生は「楽しい」ことをしているのだそうだ。楽に生きているのだ。
ごく自然に、真っ当に。

がんばって生きるのは、力んで毎日を過ごすのは、アクセルとブレーキを同時にガン踏みしているようなものだったのだ。
いや、こんなこと昔からわかっていた。でもこの陳腐な言葉が腑に落ちないのだ。
生活をがんばっている日本人、多数派だと思うのは私だけだろうか?

また、パートナーが面白いことを言っていた。
彼はいま、いわゆる人生の夏休み中なのだが、それは「休み」ではないのだそうだ。毎日、休んでいないんだそうだ。
じゃあ、なんなの?と聞いた。

「さぼり」なんだそうだ。

わあ、もったいない。と思った。
毎日、何かをしなければならないという強制もなく、契約を交わした会社に対しての責任もない。なのに、さぼりなんだそうだ。

いったい、私たちは誰に何を強制されているんだろうか?
世の中?それって誰だ?
何処の馬の骨とも知らない他人に何を言われようが、正直、どうでもいいはずなのに、どうしてこうも他人の言葉が気になってしまうのだろうか?

頭の中で、小さな声がささやく。
そんなことをしたらダメだよ。もっと頑張らないと。
あなたは怠け者なんだから。

いったいこれ、誰の声なんだろう。
少なくとも私は「社畜を卒業」しようとしているのに。

記憶は小学6年生の頃にさかのぼる。
心当たりがある。ものすごく鮮明にリフレインする記憶がある。

まったくもって、私を社畜ロボットにしたのは間違い無く義務教育の、民間で働いたこともない教育者たちだった。
なんで、私にそんな不幸な価値観を植え付けてくれたんだろうと思う。

私は社畜にはなりきれず、人間に戻ろうとしている。
(なりきれず、と自然に出てきてしまうあたり、全然まだ卒業できていないことがうかがえてしまう。笑)
これを、鬼社畜の先輩方は見たらきっと眉をひそめるのだろう。
また甘いことを言ってというのだろう。
これだから若いものは云々カンヌン。

でも、私は鬱になって、体を壊しまくって、初心に帰ったけど、
私はこんなことをしたくて映像を始めたわけじゃない。
私は伝えたくて、この仕事を始めたのだ。

しかも、成果を出している人は、驚くほど「社畜」であろうとはしていない。自然と夢中になって、仕事にのめり込んでいるだけだ。

結果的に私が仕事に人生の全てを捧げることになったとしても、
人間の私でいようと思う。

人間になろう。人間に戻ろう。

まだ私には眩しく、手に余る「自分のために生きる」という言葉だけど、
本当に心からこの言葉を身に沁みさせようと思う。

また、ドキュメンタリーで「泣きながら生きて」という、中国人の不法就労者の10年間を追ったものを見た。
下放政策で学びへの道を閉ざされ、想像を絶する絶対的な貧乏の中で、自分の人生ではなく、次の世代にしか希望を託せない生き方に、何度も泣いた。
それなのに、この人は恨み言ひとつ言わない。
そうか、と思った。恨み言を言えるのは、もはやそれ自体が恵まれた環境で生きているあかしなのだ。
しかも、この話は「ありふれた」ものだという。絶望しかない。

誰かの基準で、誰かのルールで、誰かに振り回される人生を送る必要がない国に生まれたことに、改めてありがたさを噛み締めた。
日本に生まれた私は、自分で自分の人生を選ぶ自由がある。誰がなんと言おうと。
努力に可能性を見出せる、ここは希望の国なのだ。

私は、人間として生きたい。

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