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倒れていたものは まさかの神様

1月1日を迎えたと思ったらもう1月11日ですね。
ずっと慌ただしく、そしてやりたいこともどんどん見つかって、やりたいとなんとなく思っていたことも突然目の前に現れたり、一コマの移り変わりが激しいです。

テレビで例えるなら、コマーシャルがない感じでしょうか。いや、コマーシャルのちょっとした休憩時間も自分で作り出しているから慌ただしくもあるのかもしれません。

先日はいろんな状況も重なって久々の実家へ。
今回の能登の震源地を中心に円を描けば、大丈夫!という入り口の場所に実家があります。

近くのお風呂屋さんに行けば、避難所暮らしの方々も集まる、といった環境です。

地震発生時はその場にいなく、その後その地を訪れてみれば、街は大丈夫だったように見えました。実家もどうなっているのかとも思いましたが不思議なくらいに影響はありませんでした。

ご近所さんは割れ物もいっぱいあった様子ですが、何一つ割れてませんでした。

倒れていたもの!はごく少し。たいしたことなくてよかった!!とお気楽に過ぎ去っていたのですが、数日経った今になってすごく意味あるものが倒れていたように思えてきました。

それは「天神様」の一部が倒れていたのです。

「座敷の床間に飾られた天神様」

こんな言葉を綴るとどんな風情ある家かと思われそうですが、どうやらこの天神様をお正月に飾るのは北陸、富山県と福井の一部ならではの風習のようですね。

お正月は床間の掛け軸が通常のものから「菅原道真公」に変えられ、雪洞と呼ばれるぼんぼりと飾りの榊と三宝に鏡餅と干し柿や御神酒などが供えられます。

長男が生まれたら女性側の実家が用意するようです。

私自身は兄がいるのでお陰さまでの天神様だったようです。学問、習い事など上達するようにという意味も込められてもいます。

子供の頃は、お正月1月2日に、この天神様の前で真面目に書き初めを書いてましたよ。

色々調べてみれば、この風習は自然崇拝を最もごく自然に表し残されている珍しいカタチでもあるようです。

天神信仰とは雷神に対する信仰。農耕にとってはなくてはならない雨をもたらす雷です。

そういえば、細田守監督の映画「おおかみこどもと雨と雪」の舞台は富山でしたね。

両親にとってはひ孫も誕生したわけですが、県外で暮らすことを選んだ私たちにとって、天神様の風習は途絶えてしまったのかもしれません。

お正月だからこその天神様のぼんぼりが倒れていたこと。今回の震災、私にとっては「天神様」を思い出してね!というメッセージでもありました。

それは、改めて自然への感謝の心の大切さを実感です。天神様の風習は単なる年中行事ではなく、私たちが自然と共生し、敬意を払うべき存在に感謝を示す方法だったのですね。12月25日から1月25日まで神の領域を設け、見えないものを見える化していたのです。

自然崇拝というごく自然なかたちで感謝を伝える行為も、現在の社会では商業主義に埋もれ、煩わしさとなってしまったように思います。

また、暮らしの中にある神に感謝することを、次世代へ丁寧に引き継ぎたいものです。が、引き継ぎたい丁度その年頃は、受験戦争という家庭内の緊張感が最も高まる時期と重なります。

とはいえ、私たちの周りには、既に存在する自然の神々が、私たちを見守り、導いてくれています。この神々に感謝し、敬うことができる力を育むことこそが、真の幸せ、自由に近づく鍵なんだと今になってようやく思います。

パワースポットなどと、どこかの神々を探し歩いてきましたが、まさかの

「あーーーここに既に共にいたんだーー」

です。感謝です。

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