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母性という言葉の幻 

3人展の最終日。仲間の前で恥ずかしながら泣いてしまった。長く宿泊した宿を大きな荷物を引きずり、外の空気を吸った瞬間スマホが鳴った。

母だ。

一瞬に面倒という言葉が頭をよぎった。今回は後に伸ばすほうが面倒と思いすぐに出ることにした。

「どこにいるの?」3人展の話はしていたのでそろそろ自宅に戻った頃だと思ったのだろう。まだ長野にいることを伝え、展覧会の話題にスイッチが入った瞬間、母は即座に

「どうせ売れないでしょ」

と言う。まだ今日もあることを伝えすぐに電話を切った。
いつものこと。「そうだよね。売れないの知ってたし!!」と、自分でも驚くような言葉まで浮かべながらギャラリーに向かった。

ギャラリーに着いて仲間との最終日ならではの問いに「母からどうせ売れないでしょと言われた〜〜」と泣きながら答えていた。50歳だというのに。仲間は「売れたんだよ!!お母さんは心配しているんだよ!!」と力強く言ってくれた。

「母性」の映画からの問い

この3人展の開催前、ハタチの娘から映画を観ることを勧められていた。それが「母性」。娘から「母性」を勧められて見ないワケにはいかなかった。

「母性=愛」が当たり前のようだけど、「母性=教え」を映画から感じた。子育てに愛が最も素晴らしいということは、どこかで感じてながら、現実世界の「教え」に愛と通づることがないことをみせてくれた。私にとっての「教え」というのは宗派を問わず宗教上であったり代々受け継がれていたり、道徳の時間で習ったような正しいと言われていることかな。

この映画から私に投げかけられたと感じた二つの問いを先に答えてみる。

母性とは。
私は、母性は「元々備わってはいない」と思う。そもそも母性という言葉は幻を指しているとさえ思えてきた。

母性があるから子を抱くのではなく、子を抱くから幻の母性と言われるようなホルモンが出る、ただの体の仕組みなのではないだろうか。

辞書にあるような子供を守るための女性に備わっているものは、「女性の強さ」であり「母だから」ではないように思う。

私のママ時代を振り返れば、子供たちが幼稚園時代はママ友同士のトラブル、園の先生に対する不満も盛んだった。私も体験した。保育園でサポーターとして働いたこともあるけれど、「母性」なんて言葉はどこにも必要なかった。上手く喋ることができない幼児期は、女性の強さを発揮できる場だったように思う。

また女性は、娘である女性と、母である女性に別れるとある。私はどちらなんだろうか。
私は、母である女性として子育てをしたけれど、今の社会で母だけでは生活苦となったために、娘である女性を利用した母であった。

今の生活苦にも娘であることを利用している自分を発見した。利用するからには、冒頭の母との会話にもあるように、母からの言葉を受け入れなければいけないと思っているのだろう。

正しい母親と正しくない母親

主人公の戸田恵梨香さん演じるルミ子。大地真央さんが演じたルミ子の母は、映画を観ている間、最初から最後まで私が知る正しさ、美しさからは、一切はみ出さない行動だった。

リルケの詩集と共にルミ子の夫となる田所の絵を読み解く言葉が、私自身、本心から憧れてしまいそうな存在を演じていた。実際、すぐに図書館でリルケの詩集を手にした程だ。

その憧れるほどの母の元で育った子、ルミ子といえば「正しい」であろう知識からは、ほど遠くかけ離れていた行動だった。

同じ母として対照的なのが、ルミ子の夫、田所の母を演じる高畑淳子さん。褒め言葉やポジティブな言葉はなく、我が子を愛し嫁には冷たい。こちらも「正しい」「美しい」であろう知識からは、かけ離れた行動だ。

こんな女性たちがいるものか?と思いながらもじっくり見つめれば、実の母は田所の母タイプであり、主婦時代の義母はルミ子の母タイプだ。

母が田所の母タイプというのは、冒頭のポジティブ言葉を言わないところから想像できると思う。

そんな母とは違い、義母からは、結婚当初から離婚の報告をしても一切嫌な言葉は言われてはいない。全てが美しいであろう言葉であった。それは「正しい」「美しい」を知っているからなんだと今回の映画を観て感じた。

正しいは本当なんだろうか

ルミ子の母タイプ、田所の母タイプ、このどちらかが良い悪いではない。ただ、正しいとかけ離れた行動からは、美しくないものを感じ「逃げる」ことを選択できるけれど、どこまでも正しいであろう行動が積み重ねられてしまうと、美しい世界に「逃げる」隙間すら見つからないものなのかもしれない。これがルミ子の「母から認められたい」と一心に思い続ける結果となったように思う。

究極を言えば、この映画の私にとってキーワードとなった「母親なんだから」にある「母親は子供を守る」の教えこそ本当なんだろうか。その言葉から生まれる問題の方が実は多いように思う。

「第一に母親を守ることが子を守る」「我が子だけを愛してもいい」。そんな、とんでもないと言われそうな教えがあったとしても、結果、子育てしやすい世の中になりそうでもある。

田所の母が「母親なんでしょ」と言って我が子以外の命を救ったシーンは紛れもない、女性の強さと優しさを感じた。理性を通り越して感じるまま突っ走り、「如何なる相手でも命を繋ぐ」これこそ「母性」という幻の言葉が当てはまる行動なんだと思う。

男女問わずに対して「正しさ」は「正しいとは限らない」がこの映画からのメッセージとして私は受け取った。

当初はルミ子の母に全てが正しいと思い込んではいたが、命にどちらかを優先できるとは言い切れないと後になって思えてきた。目上を敬う。そんな教えを守ったという見方さえ芽生えた。

また、ルミ子の娘役永野芽郁さんの清佳から見た親子ストーリーと、親ルミ子から見た親子ストーリーの違いも、どちらが正しくて正しくないが関係ないようにさえ思えてくる。

そして正しい、正しくない、その先にある「自由」な行動を選ぶときの選択。自らの責任次第という立ち位置に立ったとき、自分の中に湧き上がる「恐怖に向き合えるかどうか」なんだと思う。それが山下リオさんが演じる田所律子の家を出るシーンが教えてくれた。

刺繍針とキラキラ輝くビーズを買いにこの街へ訪れ映画を観ている私がいた。単語を並べれば「母性溢れる私」に見えるのかもしれないが、私は、正しい、正しくないの選択から今を我慢することなく、今を楽しめる女性で生きていきたいと思った。そのたった一人でも楽しい今を生きる人がいることが、未来に命を繋ぐのだと思う。

「愛」と通づるものは現実世界では「自由」なんだと思う。


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