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誕生日は「見返りを求める好意」を露にできる理由にはならない

少し前に、とある人の誕生日にまつわるエピソードがプチ炎上していて、そのとき私は友人のサプライズ誕生会の企画制作の真っ最中だったこともあり、誕生日について考えさせられた。

そこから大分経っているので、冒頭のエピソードについてはわざわざ蒸し返すことではないなぁと思うのだけど、挙げておかないとそもそもの前提がわからなくなりそうなので、名前だけ伏せて簡単に説明しておく。

なんでも屋さんのようなことを請け負っていることで有名な某さんが「私の誕生日に『おめでとう』と言いたい人は依頼として受け取るので、依頼料をください」みたいな感じのツイートをしたのだ。
ニュートラルな立場で紹介したかったけど、簡潔にまとめようとした結果、原文よりも乱暴な物言いになってしまったかもしれない。(元のツイートは既に削除されている)

私は特にこれについて強い感情はなにも抱かなかった。
なかなか多方面に嫌われそうな大胆なことを言うなぁ、とは思ったけれど、気に食わない人は祝わなきゃいい話だし、その人は有名人だからたぶんお祝いという隠れ蓑を利用した、開封するのも不快なDMとかに悩まされていたんじゃないかなと想像できたから。

そもそも個人的には、ファンがいることが糧になる芸能人ならいざ知れず(それでも行き過ぎた行為はだめです)、SNSをフォローされているだけの不特定多数(普段から絡みがあるなら話は変わるけど)から誕生日を祝われて素直に喜べるか?という疑問もある。

いい大人なんだからそんなことにわざわざ突っかからず、適当に「ありがとう~」でいいじゃん、めんどくさい奴だな、とは自分でも思うのだけど、実際に私はそういうのが億劫になって数年前に、登録しているすべてのSNSから誕生日を非公開にした経緯がある。

見知らぬ他人からだけではない。私としては一番億劫なのは、以前勤め先が同じだった(が、接点はなかった)、もしくは仕事のつながりで一度会ったことがある(が、話した記憶はほとんどない)といった程度の認識しかない「知人」からのお祝いだった。転職経験が多いこともあってその手の知人は多いが、その中でも特に誕生日を非公開にするきっかけになったのが一人いて、勝手に心の中で「誕生日おじさん」と呼んでいたその人は、毎年誕生日になると欠かさず「おめでとう」という言葉とともに近況報告を求めるDMを飛ばしてきた。

せめてだれしも見られるフィードにコメントしてくれ。
なんでDMだ。
個別でやりとりする気満々か。クローズドさせるな。

と、毎年思っていた。
彼が知っている私のSNSアカウントはFBのみで、つまり送れるDMというのはメッセンジャーのみ。
メッセンジャーは仕事の都合でたまに使う程度だったので身近な存在ではなく、そのため最初のうちは「久しぶりに開くと何通か溜まっている内のひとつ」くらいの感覚でさほど気にしていなかったのだけど、それでも何年も繰り返されると蓄積するなにかがあった。

対面で発するならまだしも、テキストとして起こされた文章は、それが良かれと思われた内容だろうがなんだろうが、どうしたって少なからず「押しつけ」の面をもつ。
(対面で話す場合も関係性や言い方、環境によってはそうなりえるけど、それは一旦置いておく)

もちろん文字だからこそ思いやりや誠実さがにじみ出ることもある。でも基本的には、相手の心情を一旦切り離して自身の言いたいことだけを言い放ってしまえるテキストメッセージには、言い逃げできるという面をおおいに感じる。

散々SNSの話をしているのでやや脱線するが、返信するのに時間も手間も生じる手紙には、よりそういった面を強く感じる。まさしく父がそういった手紙をよく送ってくる人だったので、やりとりする機会のなくなった今でも手紙には若干の嫌悪感と「私もそう思われないように気をつけなくては」という過剰な強迫観念を抱いてしまう。

メッセージが送られたら、それを受け取った上でその人に向けた返事をしなくてはいけない。
(形式上は)誕生日のお祝いとして送られてきたのだから、面倒だったら「ありがとうございます」とだけbotのように返せばいい。
でも、なにも考えず惰性で送られたことが明白な、いや、それならいいのだけど、実際はこちらになにかを期待していて、それが透けて見えるようなメッセージに、どうしてちょっと嫌な思いをしながらお礼を言ったり、もしくはどう返そうか考えたりしなきゃいけないんだろう、という気持ちが頭によぎる。

誕生日おじさんに限らず、毎年複数人からそういったメッセージはあったから余計にその思いは強い。
勝手に向こうが始めたプロジェクトの共同責任者にされて、負担が大きい。

人の「見返りを求めた好意」ほど鬱陶しいものはないのだ。
そう思う私はひねくれているのかもしれないけど、こちらが大切に思っている人からの好意だったら見返りを求められようが負担に感じることはないから、自分の「大切な人」と「そうじゃない人」の線引きが強すぎるだけという気もする。

そんな経緯で私は全SNSから誕生日を非公開にしたわけだが、そうしたことで誕生日を祝ってくれる友人の数も如実に減った。でも特に気にしていないし、むしろ通知もないのに連絡をくれる友人はわざわざその日を覚えてくれているということだから、より愛を感じられ、ライフハックとしては正解だったと思っている。

ところで、いつかに観た映画の中で、主人公が「自分に興味があるか否か」をミドルネームを聞いてくるかどうかで量っていた。ミドルネームを持たない私は誕生日で代用できるんじゃないかなという気がしている。(とはいえ私自身、普段から話の流れ次第で誰彼構わず誕生日を尋ねるし、逆に、親しいのに聞いたことがないということもあるので、それだけで判断はできないけれど)

その考えでいうと、SNSの誕生日通知はその邪魔をしているということになってしまうだろうか。

「おめでとう」のカツアゲにもなりえるし、あけすけな見返りを求めた“好意”の押しつけにもなりえるし、でも本当はただ、「今日、この人の誕生日なんだ」と知って、これから仲良くなりたい人や久しく会っていない人に連絡をするきっかけになってほしい。…というのは、ここまで閉鎖的な話をしてきた私が言えたことではないが、でも実はそう思っているんです。

まぁ、誕生日に限らず、人の好意ってそれだけでだれしも受け入れられるべき「喜ばれるもの」と思われがちだけど、それが相手にとって押しつけになっていないか今一度振り返らなきゃいけないよね、という話。

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