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お爺さん(74歳)の思い出   その26 戦後の我が家

太平洋戦争が終戦を迎えたのは、1945年(昭和20年)8月15日です。忘れがちになっている終戦記念日、二度と戦争をしないためにも、8月15日の終戦記念日は、皆さんでもう一度戦争を考える日にしたいものです。

私の家では、父の兄(長男)が満州に渡って仕事をして、そこで終戦を迎えています。終戦後の帰国が大変だったと、おばが話してくれました。父の兄が満州からシベリアに抑留された事から、叔母は子供3人(男の子4歳、女の子2歳)を連れての、日本への引き揚げです。途中で女の子は亡くなっています。
男の子と2人、命ガラガラやつとのことで、帰る事が出来とのことです。
叔母は、東北出身で満州で叔父と知り合って、結婚しましたから、九州の我が家へは初めて来るわけです。本当に大変な旅だった事が想像できます。
叔父は、我が家から満州に働きに行ったわけですから、帰る家は我が家なのであります。

叔父が、シベリア抑留から帰ってきたのは、それから3年後だったそうです。
その間、叔母は我が家に一緒に生活していました。

父は、兄が戦争から帰って来れないため、家を継ぐ事になります。本当は、炭鉱に働きに行きたかったようです。


そこから、農業の努力が始まります。祖父が他の地域から来た者ですから、自分の土地も山もありません。父は、田んぼを地主から借用して米作りをする傍ら、山に入り他人の木をもらって、炭焼きを始めました。

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山仕事は、祖父譲りでしょうか?慣れた者であったようです。
私も、小さい頃から一緒に山に行って、作業の手伝いをしました。炭焼きは農閑期での仕事ですから、冬場の仕事です。当時は九州でも山間部では、結構な雪が降っていましたから、雪山での仕事は大変です。

 でも、感心した事があります。父は、一面真っ白な雪の中で、焚き火を始めます。何処にそんなに燃えるものがあるのか?子供の私には不思議でした。焚き火で暖まりながら、ノコや斧や鉈などの手入れをします。その間私は、焚き火が消えないように、薪を集めて燃やします。

この、冬山での焚き火や雑木の伐採の経験は、後々私の生活に、大いに役に立っています。

炭焼きという作業は、雑木を倒して一定の長さに玉切り、大きいものは斧で割ります🪓。
その後、炭を作る窯に運び、窯の中に並べます。そして、火を🔥入れますが、最初うちは入口の薪は燃えても、中の炭木にはなかなか火が入りません。そこで、火が入りるまで約24時間、入り口の火が消えないように、監視しなければなりません。夜通しでの監視になります。
中の、炭木に火が入ると、煙の色が変わります。それをよく見極めて入り口を、小さく塞いで蒸し焼きにします。

煙が殆ど出なくなったら、入り口を全部塞いで、火が消えるのを待ちます。それで中が冷えてきたら出来上がりです。

多くの手順があり、父は自分の感覚を頼りに素晴らしい炭を作っていたようです。

本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。

今後もよろしくお願いします。

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