見出し画像

Eat Local. Live Organic.

僕たちが食べるものは、全て誰かがどこかで作っている。

当たり前のことだが、工業的に生産された食品に囲まれた都市生活をしていると、そんなことに気付くことはあまりなく、僕たちの体を作っている「食」について考えることもあまりない。

10年前に京都の田舎に移住して、ひょんなことから畑を始めたことで僕の人生は一変した。鍬を持って土を耕し、種を植え、毎日水をやり、芽が出たら支柱を立てたり周りの雑草を抜いたりして世話をし、ようやく付けた実をハサミでチョキっと外してそのままパリッと食べたキュウリのおいしさ!放っておくと自分の背丈よりも高くなり、脚立を使わないと実が取れなくなるオクラは、畑でそのまま食べると筋もなくて甘くてとんでもなく旨い。

でも、8月に種まきする白菜は、小さな苗の期間はまだ暖かいため虫が付きやすく、気付いたら見事なレース状になって食べつくされてしまう。初めて大きく育ったスイカを、そろそろ収穫かと思ってウキウキしながら持ち上げてみたら、意外なほど軽くて、よく見たら穴が空いてて中身だけすっかり食べつくされていたりもした。犯人はたぶん、アライグマ?

画像1

いずれにしても、食べ物は本来、ヒトと自然との間にできるものである。

ヒトは、自然との境界線をその時代の「食」によって定義してきた。

元々は「そこに在るもの」を食べる狩猟採集から、「食べるものをつくる」農耕を始め、社会構造の変化の過程で「食べるものをつくる」ことを人任せにするようになった。ただ、輸送手段が飛躍的に発達した近代以前までは、少なくとも「作る人」と「食べる人」そしてその食べ物が作られている「自然」の距離はそう離れてはいなかったはずである。

僕が住んでいる京都で言うと、観光地でも有名な大原から荷車に野菜を載せて「振り売り」をする「大原女(おはらめ)」さん達の姿は未だに見られる光景ではあるが、それがおそらくどの地域でも当たり前に見られる日常だったのだと思う。

画像2

現代の農業は一見大規模化しているように見える。特に戦後、より効率的な食糧生産を目指して農業の工業化が一気に進んだ。農薬や化学肥料の開発、農業機械技術の発達、流通と情報の高度化などにより、他のどの分野とも同じように、大量生産、大量消費のシステムに「食と農」も組み込まれていったかのように見える。

ところが、国連食糧農業機関(FAO)によると、途上国、先進国を含む世界全体の食料生産の8割以上は、実は家族型小規模農家が担っているという調査結果が出ている。これを受けて、国連は2014年を「国際家族農業年」と位置付けた。世界全体で見ると、実は食糧生産の大部分は未だに家族経営型の小規模農家が支えているらしい。いわゆる「先進国」の幻想は、あたかも大規模な工業的農業が全世界を席巻しつつあるかのように見せていたが、現実はそうではない。国連は2019年から2028年の10年間を「家族農業の10年」と位置づけ、家族型小規模農家を再評価する機運が世界的に高まっている。

さて、話を日本の田舎に戻すと、人口は減り、若者は都市に流れ、本来人が耕さないと維持できない農地が放棄され、これまた人の手が入らないと維持できない山林も荒れ、空き家が増え、農村コミュニティが崩壊しつつある。と同時に、都市でのストレスフルな生活に嫌気が差したり、単純に自然に近い暮らしを求めたり、それぞれの理由で田舎に移住しようと言う若い世代の人たちが増えて来ているのも事実である。

僕はそんな疲弊する田舎のコミュニティと、理想を抱いて田舎に移住する若者との間で起こる様々な化学反応こそが、これから目指すべき多様性を許容できる社会の根幹を作るための本当に大事な現象だと思っている。

そして、そんな両者の大きな接点であり、融和の鍵を握るのが、「農」と「食」との関係性だと思い、地域の持続可能な農業を地域社会で支える仕組みを目指して、Organic & Local な八百屋369(ミロク)商店を営んでいる。

画像3

そんなわけで、自分の考えを整理する意味も含めて、日々の暮らしと仕事の中で思うことを書かせていただきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?