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ノイズと有機農業

地場野菜の移動販売八百屋と、地域のオーガニック野菜の共同集荷便のプロジェクトを並行して運営しているのだが、気付くと毎日集荷と配達で長時間車を運転しており、その間何を聞きながら運転するかが重要になっている。
しばらくはポッドキャストにハマって、コテンラジオを全話2回聞いて、海外のFood & Agriculture関連や、時事関連のメディアを聞いたりしていたけど、それも飽きてきて最近はSpotifyのランダム再生で手あたり次第いろんな音楽を聴いている。とは言え、稀に新しい出会いはあるものの、たいがい新しいアーティストの曲なんかは1、2曲聞くだけで飛ばしたくなってしまうので、結局長く聞こうと思うと自分が昔から好きだったアーティストに自ずと絞られていってしまう。

そんな中、今日京都市内の配達の帰りにふと学生の頃好きだった大友良英を聞き始めたら、結局家に帰るまでの1時間半、なんと一曲も飛ばしたいと思わないぐらい気持ちよく聞けてしまった。
大友良英って、世間一般的にはドラマ「あまちゃん」のオープニングテーマを作った人として知られてるのかな?僕が好きなのは前衛音楽、ノイズアーティストとしての大友良英で、ちょうど20世紀の終わりごろ、大学生だった自分がドはまりしたノイズ・アーティストの一人なのだ。Ground Zeroの「革命京劇」はほんまに何百回も聞いたと思う。

流れとしては、NirvanaからSonic YouthからBoredomsから大友良英だったんだけど、とにかく日本のノイズシーンが好きで、でもノイ友はいなかったからひたすら一人でライブ通いまくってた。当時やけに流行ってたOasisとかのブリットポップは論外で、ハードコアやパンクスは外向きに発散するエネルギーが苦手。テクノやドラムンベースなんかも流行ってたけどオシャレで明るい?感じが苦手。
ノイズの内省的で自虐的で実験的なエネルギーがすごく好きで、一人ノイズにハマっては4畳半のアパートでヘッドフォンで大音量でノイズを聞きながら悶えたり、ライブに通っては、マゾンナのライブでキモイ奴と仲良くなったりしてた。

中でも神戸で開催されたFestival Beyond Innocence って言う2日間のノイズ漬けの絶頂エクスタシーなイベントは、内橋和久やRuins、非常階段、山本精一、大友良英 からJohn Zorn や Christian Marclayなどノイズ、実験音楽界の大御所が勢ぞろいで、あこがれのスターたちの演奏を間近で見ては感動し、爆音の海に漂い過ぎて途中から頭蓋骨の後ろの方でピ――― って音が鳴り始めてなんか光が見えたのを覚えている。当然この時もノイ友おらず、一人で行って、二日間一言も誰とも話をせず、でも大満足で帰った覚えがある。

そういえば大学の卒論も、「イタリア未来派と現代のノイズ・ミュージック」の関連性について書いた。産業革命と同時に「工業」が登場し、昼も夜もフル稼働で動き続ける機械音と、そのリズムに突き動かされる労働者の生活の変化。そのスピード感とダイナミズムと騒音を最初に芸術に取り入れたのがイタリアの未来派だった。どーでもいい内容の、どーしようもない卒論やったけど。

さて、そんな根暗でキモイ奴がいま京都でOrganic & Localを広めようと、いろんな人を巻き込んで活動しているんやから面白い。こんなインダストリアル・ノイズにまみれた、根暗で病的な奴が、有機農業なんて言う高尚な分野に関わっていいのだろうか? 
でも、そんな一見相反する要素が、自分の中では何の矛盾も無く共存している。

僕にとってのノイズとは、あらゆる生命が発する雑音である。

都市で育ち、都市で暮らしてきた自分は、都市のノイズにまみれたいと思った。それは、延々と走り回る車の重低音や、テレビやラジオから垂れ流され続けるファジーな高音、人々の会話や生活音。ノイズ・ミュージックはそれらをサンプリングなどのデジタルテクノロジーでブラックホールのように吸収し、即興的で実験的な演奏で再構築して、アートとして爆発させる。その分厚い壁のような音の海の向こうに、都市社会で孤独に生きる自分にとっての光が見えた気がした。

さて、20年後の僕は、もうかれこれ10年以上田舎暮らしをしてきているが、田舎にもノイズがあることに気付く。
田んぼを包むカエルの合唱、朝の小鳥のさえずり、夜中響く鹿のせつない鳴き声。大雨の後の川の轟音、風に揺れる木々の梢、正午を知らせるエーデルワイス。消防団のサイレン音や、日中延々と鳴り響く草刈り機のエンジン音、農薬散布のヘリコプターの恐怖のプロペラ音。
都市のノイズが都市社会を反映しているように、田舎のノイズは、田舎社会を反映している。
守るべき自然と、存続の瀬戸際にある農村。

そんな中、有機農業っていうのは僕にとってまぎれもない光なのである。

食の安全や環境問題に関心がある都市の若者が、志し高く農業をしようと田舎に移住して、その村で何十年ぶりかに赤ちゃんの泣き声がこだました、と言う話をたまに聞く。赤ちゃんの泣き声は、過疎化が進む農村にとっては希望の光以外の何物でもない。

ノイズにまみれると、まみれまくっていると、一筋の光が差す瞬間がある。

肝心なのは、まず、「まみれてみること」なのかもしれない。

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