『5、百年経っても読まれる小説の書き方、説明はしない』
六年前に日本に行った時、ホテルの側に地下鉄の駅があった。ホームに立つと録音されたアナウンスメントが聞こえた。暫らくは気にならなかったけど、そのうち自分は日本語を理解できることを思い出して、聞いていると、なんでも、「改札はホーム中央のエスカレーターで二階に上がったところにあります」というようなことを、延々と一日中毎日繰り返している。聞いていると気が狂いそうになった。
日本に住んでいる友達に、あれはせめて五分に一回にしたらどうだろう、と聞くと、そういうことをすると、不親切だ、と駅に文句が来るらしい。
みんなが小説でやっているのはこれだ。不親切だと思われたら困るから、永延と永延と、一生懸命「説明」をする。
小説の中でそんなに説明したい人は、美術館のパンフレットでも書けばいいと思う。特別展はいつからいつまでですよ。定休日は何曜日ですよ。美術館へは電車なら何駅から十分、バスなら五分。しかし、常設展の定休日は特別展と違うので注意しましょう。この画家は何年にどこの国で生まれて、どこで絵を学んで、なんとかという美術運動に参加し、子供は何人、なんとかという病気でなん才で亡くなりました。そういえば、前売りを買うとお得です、というのを忘れていました、すみません。
美術館のパンフレットみたいな小説が溢れている。これはかなり最近の傾向だ。多分、ここ十年くらいの間にネットに広まったのだろう。伝染力が強いのだと思う。面白いことに、先日小説を書いたから読んでくれないか、と同僚に言われ、そうしたら英語の小説も説明的になっている。世界的な現象なのかも知れない。
よくある小説のパターンはこんな感じ。
この王国の名前はxxと言います。王様の名前はxxです。彼は体格がよく、鋭い目付きをしています。王女様は美しく、黒髪は長く艶々しています。王国の名産は葡萄です。葡萄から美味しい葡萄酒を作ります。王女様が十八になったので、王様はいいお婿さんを探してやりたい、と思っています。しかし、隣国の王子はアニメが好きで、三次元の女性を見ると、ショックのあまり失神する癖があります。反対側の隣国の王子様は、男前ですが、残念ながらゲイでした。
このように延々と美術館のパンフレットみたいに説明が続いていく、それが今の小説の主流になっている。じゃあ、次の文章はどうだろう? これは先週、私が実際にネットで見付けたものです。もちろん、内容は変えてあります。
子供が事故で亡くなってしまいました。とても悲しいです。もう三ヵ月になるのに、私はまだ夜、熟睡することができません。もっとああしてあげればよかった、もっとこうしてあげればよかった、と後悔の念ばかり浮かびます。夫は私の力になってくれようとしますが、私はこのまま立ち直れないのでは、と心配です。
これも説明以上のことはなにも言っていない。小説的な要素が全くない。こういうことががありました。私はこう思いました。だから私はこうしました……。ただ繰り返している。地下鉄のアナウンスと同じだ。気が狂いそうになる。子供が亡くなって、一見、大きなできごとについて話しているように見えるけれども、内容は無意味だ。
この作品を論破してみよう。
子供が事故で亡くなってしまいました。
どんな子供だったの? どんな事故だったの? どんな風に亡くなったの?
なんにも書いてないですよね。
とても悲しいです。
なぜ悲しいの? どんな風に悲しいの? どのくらい悲しいの?
なんにも書いてない。
もう三ヵ月になるのに、私はまだ夜、熟睡することができません。
なぜ眠れないの? どんな風に眠れないの? 熟睡することができないってどんなこと? 眠れないとどうして苦しいの? 眠れないとどうなるの?
この辺で止めておきますが、こういう、なにも書いてない作品は多い。小説的なことがなにも書いてない。説明だけ。実際にこれを書いた人がいるのが信じられない。薬の使用上の注意の方がよっぱど感動的だ。xxの症状のある人は医者に聞いてから使用しましょう。まれにxxのような副作用があります。副作用の酷い時は、すぐ使用を中止し医者に相談しましょう。子供の手の届かない、涼しい室温で保管してください。
子供の手の届かない、涼しい室温で保管してください。これってなんとなく、目前に風景が広がっていきますよね。子供が事故で亡くなってしまいました。とても悲しいです。より、ずっと視覚的で、感動的だ。
小説って、いつから、どうして、こうなってしまったんだろう? お互いに読み合って、感想を言う、という文化が無くなったのが原因だろうと思う。以前なら、書いた小説を持ち寄って、批評し合う場所があった。文学論争に発展して、新しい文学運動が起こり、小説界そのものが進化していった。小説界を離れて、政治活動に発展した。その様な歴史を知ろう。
大きな出版社も、文芸誌も、元々は、作家が創った文芸雑誌、または同人誌であった。同じ文学を目指す作家が集まってできた。
現在の小説家は、なにも言わない。批評するチャンスがあったとしても、いいことしか言わない。……みんなで一緒に堕ちていく。
「百年経っても読まれる小説の書き方」は、私ひとりで行う、文芸運動だ。
もし、あなたが小説を書いて、人々にあなたにしか見えない特殊な世界を見せて、人々を感動させたい、と思うのであれば、考えた方がいい。
駅で一日に何万回も繰り返すアナウンスメントを聞いて、ああ、この駅の改札は、エスカレーターで二階まで上がったところにあるんだ! と感動して涙する人がいるだろうか? 美術館のパンフレットを読んで、特別展と常設展の休館日が違うんなんて、なんと素晴らしいことよ、と感動する人がいるだろうか?
じゃあ、一体「説明」ってなに? 「小説」ってなに? と、聞かれた場合に、私が答えるとしたら……
YouTube「百年経っても読まれる小説の書き方」
重い物を主人公に持たせて、暑い日に丘を登らせる。
「高校は丘の上にあった」って言ったら駄目なんですよ。それは小説じゃない。ただの説明になってしまう。重い物を主人公に持たせて、暑い日に丘を登らせる。そして主人公に、「どこの馬鹿があんなとこに学校造ったんだよ!」と叫ばせる。それが小説。
さっき言った、私の同僚が英語で書いたファンタジー小説。女性の登場人物が会話の中で「説明」している。
これって会話の中の説明ですよね。会話の中で説明する人も非常に多い。主流の一つになっている。ちなみに会話文は一見ストーリーが流れて見えるけど、実はストーリーを止めている。登場人物が喋っているのを、みんなで聞いている、その時間、ストーリーが止まってしまう。その上、会話の中で説明すると、ストーリーが完全に止まってしまう。
じゃあ、私だったらどう書くか?
「小説」らしくする為に五感を使った表現が、とても大事。なぜか、と問われても答えるのに膨大な言葉がいるから、今は止めておく。
それではこれから、前出の子供が亡くなった、という小説をもう一度、別の方法で論破してみよう。非常によくある書き方。自分で気付けるようになろう。
私ならこう書く。
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