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小説『十字架とカモノハシ』NEMURENU参加作品。

NEMURENUは、誰でも参加できるnote内の創作サークルです。
作品を読んで欲しい、感想を貰いたい、という方にお勧めです。
私は参加5年目。7月のテーマは「単孔類」。



 こないだ、進路が決まらないのは世情に疎いからだ、と担任に指摘されて悔しかったから、朝の電車通学ではニュースを観ることにしていた。
 急ブレーキで電車が止まる。いきなりだったから、乗客の身体は、がくんと前にのめり、悲鳴まで聞こえた。聖華せいかは座っていたから影響はさほどなかった。車内アナウンスが流れる。「只今、停車位置の修正をしております……」。
 ほんとだ。電車がゆっくりバックしている。こんなこと滅多にないから聖華には面白かったけど、さっきの急ブレーキで怪我をした人がいたらヤバいよな。なんで面白かったのかと言えば、今まで前に向かって走っていた電車が、いきなりバックするというところが、ゾクッとする経験。説明は難しい。
 電車って前にも後ろにも動けるんだなって、当たり前だけど、きっとそういう哲学的な発見。太宰治の中二病小説『女生徒』に書いてある、「哲学のシッポ」という言葉を、聖華は今朝、ここで初めて体験したのだった。
 両手で握った携帯。イヤホンで聴く。
「頭の中を覗かれている、という理由で人気小説家に刃物で怪我をさせた、小説家志望の容疑者の裁判がこれから始まります」
裁判所にぞろぞろ入って行く人々。携帯で見ると、その人達はとても小さい。リポーターにしては、やけに男前のリポーターが喋っている。
「国選弁護人の猪俣聖夜せいやさんのお話を伺います」
聖華は思わず、「あ、お兄ちゃんだ」と声に出す。左と右と前の人から、じろっと見られる。
「私達は十分討議を重ねてきました。被告人の無実を確信しています」
お兄ちゃん自慢の弁護士バッジに、金色のオーラが回る。大企業の顧問弁護士になって、たっぷりお金を搾り取っているみたいな弁護士も沢山いるのに、お兄ちゃんはいつも金になりそうもない案件の、いかれた裁判をやっている。……頭の中を覗かれるってどういうこと?
 
「ああ、あれな、まだ判決が出ていないんだ」
「どうやったら人の頭の中を覗けるの?」
「それそれ、お前はいつも変な本を読んで、変な文章を書いているから、なにか参考になると思って」
聖華は兄の聖夜と毎月会うことになっている。それは去年決まった。
「容疑者は作家志望で、プロの作家にアイディアを盗まれていると信じている」
空を覆う背の高いポプラ並木を抜けたそこには、動物園の看板。途端に動物園の匂いがしてきて、聖華は嫌な気持ちになる。
「なんで動物園だったの?」
「行きたいって言ってたじゃないか」
そんなこと言っていない、と聖華は確信して携帯の履歴を見た。兄も一緒に覗く。
「ほら、お前、書いているじゃないか。カモノハシが見たいって」
「でも、カモノハシは絶滅危惧種だから日本の動物園にはいないよ、って書いたでしょ、その後で」
「そもそも、なんでカモノハシなの?」
「やっぱりお兄ちゃん、私のメッセージをちゃんと読んでいない」
兄は自分の携帯を引っ張り出して読み始める。
「なになに……、クラスの男子にカモノハシに似てるって言われたんだ……。よかったじゃない、カモノハシ可愛いし」
聖華はカモノハシは可愛くなんてない、と不貞腐れて黙り込む。
「カモノハシはアヒルに似ているだろ? アヒル口が可愛かったんだ。その男子、お前に惚れてるな。どこのどいつだ?」
聖華はますます黙り込む。
「お前な、アヒル口になりたくて、そういう整形する人もいるんだぞ。鼻の下を縮めて短くすると上唇がちょっと上に向くんだって。その手術が失敗してこないだ裁判をやった」
兄は屈んで聖華の口を見る。
「ほら、可愛いじゃないか。じゃあ、入るぞ。アヒルくらいだったらいるかも知れない」
兄は聖華の手を握る。聖華は断固反対で兄の手を振り解こうとする。兄も必死で聖華の手を離すまいとする。聖華の手はもがいて、大きな兄の手から少しずつ抜け出ようとしている。
「この前会った時は平気で手を繋いだのに、一体なんなんだ? ……ほんとに中二病だな」
とうとう聖華の手が兄の手から抜けた。聖華は自分を誇らしく思って微笑む。
「引っ掻かれた! お前、ネコみたいだな。爪を切ろうとしたら、そういう抵抗をするんだ、ネコって。ネコはな、俺がぎちっと手を握っていると、少しずつ力任せに脱出を図る」
 動物園という、少しの非現実空間に聖華は眩暈を感じる。
「お前な、よく考えろ。俺達みたいな立場で、ぐれるのは当たり前過ぎて、逆にカッコ悪いんだからな。昔、芥川賞をとった村上龍という作家が……」
「いい、それ、もう三回聞いた!」
「じゃあ、四回目を言ってやるから聞け。村上龍という作家が芥川賞をとった時、インタビューで、どなたと一緒に喜びを分かち合いますか? と聞かれて、世話になっている両親と分かち合うつもりです、と言ったら、今時貴方みたいな作家が両親となんて、って笑われて、でもその後、村上龍が、ぐれる方が簡単なんだって。カッコいいだろ?」
 どこの誰が見ても綺麗なほどの美人が向こうから颯爽と歩いて来て、聖華達と擦れ違った。大量の柴犬の中にいる、一頭のボルゾイみたいだった。比較がマニアックだけど。
 聖華はもし自分があんなに綺麗だったら、どんなに人生が楽しいだろう、と想像する。何でも自分の思い通りになって、朝起きた時から寝るまでの人生が素晴らしいんだ。
「私も今の人みたいに綺麗だったら、人生が素晴らしく楽しくなるのに」
兄は何か言おうとしているみたいだけど、なんとなく振り向いて、女性のロングスカートの、揺れているお尻の部分を目で追っただけだった。聖華も振り向いて、彼女のロングヘア―が歩く度に跳ねるのをいつまでも見ていた。
 なんとなくお嬢さんのことを思い出した。お嬢さんというのは、聖華が今、着ている服の前の持ち主のこと。
 
 アヒルもいるけど、白鳥の方が格好いい。聖華は自分の口がアヒル似か、白鳥似か考える。アヒルや白鳥は撒かれた餌を必死に追い掛ける。兄が餌を撒いている人に聞いてみる。
「それってアヒルですよね?」
その人は笑っている。
「これはガチョウですよ」
アヒルとガチョウの違いはなんだろう? 二人は疑問に感じたけれども、その人は忙しく去って行ったので聞けなかった。
「お兄ちゃん、頭の中を覗かれるって、その人ただの病気でしょう?」
「それがな、精神鑑定は真っ白なんだ。全く正気なんだ」
この動物園には大勢の鳥類がいる。フラミンゴや、孔雀や、ペンギンも。白鳥に似ているって言ってくれればいいのに、カモノハシなんて、と聖華は不満だ。
 動物園にいると、嫌でも、「進化」という言葉が頭を横切る。白鳥の首が長いのも、孔雀の羽がああなのも、みんな進化の悪戯だ。
「お前、どんなに綺麗でも幸せかどうかなんて誰にも分からないぞ。……そうだ、いいことを思い出した!」
 兄は聖華の腕を掴み、二人はサルの檻の前の木陰のベンチに座った。母ザルが生まれたばかりの子ザルを抱いて木を登って行く。サル達は、ケケケッ、とか、キキキッ、とかいう奇声を上げている。
「お前の自分は可愛くないかも説だけど、その説を覆す事実があるんだ」
「だって、可愛い子ばっか先に貰われて。……あーあ、整形したい」
「考え方が中二病だぞ、気を付けろ。俺、教会でボランティアしてただろ、ちゃんと食えてない近所のガキどもを集めてめし作って……」
「うん、あれは毎回美味しかった」
「その時、誰かのおばあさんが一緒に来て、あそこにいた女の子達の誰より、お前の方が大きくなったら美人になるって。その人、昔、芸者さんの置き屋さんをしていて、女の子供のことをよく知ってるんだ」
 聖華はカトリック教会に捨てられた子で、それは兄も同じで、聖華は児童養護施設に四才までいて、誰も欲しがらなかったから、教会に住む家族に引き取られた。兄もその家族にいて、聖華も猪俣の姓を貰って、二人はきょうだいになった。年は十三も離れていて、それは今も同じだ。当たり前だけど。
 その家族には、出たり入ったり、いつも五、六人子供が住んでいた。教会には子供を捨てる人もいるけど、ネコやイヌの子を捨てる人もいる。
「なんでそのおばあさんのこと今まで教えてくれなかったの?」
「単純に忘れてた、ごめん。勉強とか忙しくて、あの頃。俺、考えたけど一理あるぞ。ああいう小さい時に派手な顔している奴等は、崩れていくけど、お前みたいな地味な奴は、徐々に花開くんだ。中学生になったら自然に二重になったって喜んでたろ? それが証拠だ」
奇跡的に二重になった時は嬉しかった。瞼の脂肪がすっと抜けたみたいに。聖華は親も親戚も誰も知らないから、大人になったら自分がどんな姿になるのか、全く予測ができない。醜いカモノハシの子から、優美な白鳥になれるのかな。だったらいいな。
 
 二人は、賑やかなサル達に手を振って、レストランに入った。聖夜はカツカレーを前に十字を切る。聖華もスパゲッティを前に十字を切る。
「お兄ちゃんって、まだそれやるんだね」
「お前だってやったじゃないか」
ただの習慣で、手が勝手にやってしまう。でも、兄が酔っ払った時、兄の友達に、「処女は絶対妊娠しない」と言っているのを聞いた。
「私、そう言えばこないだ美容院に行ったら、貴女みたいな顔は化粧映えすると言われた。なんかね、もったいぶって、私最近よく化粧映えする顔ってどんな顔かしら、って考えるんですよね、って。それでお客さんの顔は化粧映えするって」
「そうだろ、お前の顔は土台がいいんだ」
 
 聖夜は、またなにか思い出した、と言って、レストランでさっさと食べて、ゾウとかキリンとか、動物園のスーパースター選手達の檻を一通り回ったら、ポプラ並木をさっきと反対向きに歩いて、電車に乗った。電車はどちらにも進める。前にも後ろにも。それは今朝、確認したばかりだ。
 ラッシュアワーが終わるくらいのぎりぎりの時間で、聖華達は、途中から座ることができた。聖華は携帯に保存してある『女生徒』の一番いい所をまた読んだ。

 

いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。 

太宰治『女生徒』青空文庫



 聖華はこの本を、中二病の聖書と呼んで大事に思っていた。
「お前、なんでそんなに荷物持ってんの?」
いいじゃない、そんなこと。実は今日は、学校が終わって、でも家に寄っていると約束に間に合わないから、学校で着替えた。もう何年も大事に着ているワンピース。教会の慈善箱に入っていて、本当は売ってお金にしないといけないんだけど、こっそり貰った。
 聖華はワンピースが誰のものなのか知っていた。教会が丘の下にあって、お嬢さんの家は丘の上にあった。昔々の子供の連続テレビに『まぼろし探偵』というのがあって、まだ子供と少女の中間みたいな吉永小百合が出て来る。


『まぼろし探偵』

 

 お嬢さんはあの時の吉永小百合に似ている。顔中が女らしくカーブして、品がいい。長いまつ毛が目を囲んで、少女漫画に出て来る人みたいで、きっと縦ロールがよく似合う。お嬢さんの服は聖華が着ると、胸の所が余った。いつも小指がちょっと上がっていて、そういう仕草が聖華の憧れだった。
 お嬢さんは、毎日曜教会にお祈りに来ていた。その時はいつも兄の隣に座った。お祭りの時や、花火の時や、クリスマスの時や、盆でも正月でもない時にも、必ず兄の隣だった。
 お嬢さんは嫁入り先が決まって、結婚式の前の晩、兄の所へ来て、長いこと二人は部屋から出て来なかった。お嬢さんのお母さんが家に迎えに来た。お嬢さんは気丈な様子で背筋がしっかり伸びて、泣いてはいなかった。兄の顔は蒼白で、でもやっぱり泣いてはいなかった。玄関でお嬢さんは手を差し伸べて、兄の手を握り、男同士みたいな握手をした。
 そうしてお嬢さんはお嫁に行った。どこかの偉い外交官の所に嫁いで、今はどこかのヨーロッパとかの外国に住んでいる。結婚式は家の教会で、お嬢さんは夢みたいに綺麗で、私の後ろにいた誰かの声が聞こえた。
「どんなに仲が良くても、教会に捨てられた子じゃあしょうがない……」
聖華はその後の結婚式では、兄が可哀想でずっと泣いていた。ついでに自分だって教会に捨てられた子なんだから、しょうがない、と言われても、しょうがないと思えて、結婚式というよりも葬式のノリで泣いていた。
 兄は聖華の隣にいて、その意地悪な言葉は蚊の鳴くくらいの声で、兄には聞こえなかったかも知れない。そもそも蚊ってどう鳴くの? でも多分聞こえていた。聖華は、もし本当に蚊が鳴いているんだったら、そいつを叩き潰したいと思った。兄も聖華も振り向いたりはしなかった。二人は前を向いて生きて来た。それか、前を向いて生きて行きたいと思っていた。
 教会には、誰でもこっそり赤ちゃんを置いて行けるような小さなドアがあった。小さなドアは可愛いピンク色で、コウノトリの絵が描いてある。ドアには鍵が付いていて、外から鍵を掛けると、もう絶対開かない。赤ちゃんが誰かに盗まれないようになっている。設置された当初は、捨て子が助長されると、意地悪な報道をされた。だけど、だから、兄も聖華も、今でもちゃんと生きている。コウノトリのドアがなかったら、二人はもう死んでいた。叢の中で。毛布に包まって。

こうのとりのゆりかご動画/慈恵病院

 

 聖夜が聖華の手を握って、その駅で降りた。いきなりだったから、手を握られていることに気付かなかった。中二病だからね。聖華は聖夜の手を激しく振り解く。爪を切られるネコみたいに。お嬢さんのワンピースは小花柄で、袖口が膨らんでいて、昭和レトロっぽい。見回すと、そこは有楽町だ。
 ちゃらい若造が聖華に声を掛ける。普段、聖華にはそんなことは起こらないし、でも兄も一緒なのに、なんで? 男のジーンズは膝から靴先まで見事に破られている、ヒッピーななりだった。兄が一歩出て聖華を隠す。
「僕、ファッションの勉強中なんですけど、その方のワンピース、どこのかな、っと思って」
お嬢さんのものだったから、聖華は知らない。
「襟の裏にラベルがないですか?」
襟の裏を見せろなんて、いきなり? 男はしつこかった。兄が聖華の後ろに回ってラベルを探す。聞いたことのないデザイナー。
「その人、オートクチュールで、あんまり表には出てないけど、皇室の服を創っている人ですよ」
男はしきりに流石だ、流石だ、と感心して、袖を引っ張ったり、スカートを広げたりしながら写真まで撮って、喜んでいた。
 兄の感想は、なんでも熱心なのは偉い、ということだった。
「熱心なのは偉いけど、人を刺すのは駄目だよな」
例の小説家志望のことだな。
 日がまだぎりぎりビルの谷間にあって、若いネオンと日が交差して、カラフルな火花が散って、宝石箱を掻き回したみたいな大騒ぎになっている。聖夜はなぜか、自慢の金色に回る弁護士バッジを外すと、大きなデパートにずんずん入って行く。聖華は迷子にならない様に後を追う。
 
「給料日前の週末ってこんなもんですよ」
その人は兄にそう言って、メイクの道具を揃え始め、聖華を丸い椅子に座らせる。聖華はなにが起こっているのか分からずに、兄と彼女を交互に見る。
「この人に任せておけば大丈夫だ」
「本当に先生の妹さん? 触発されるわ!」
兄は聖華と一緒に鏡に映る。一流デパートの一階には、得体の知れない香りが満ちている。世界中の香水を掻き混ぜたみたいな。それを魔女が大きな鍋で煮たみたいな。
 何色も違う色のファンデーションをはたかれる。それだけで、聖華は違った顔になる。後で参考になる様に、と兄はビデオ撮影をしている。
「馬鹿な弟の為に色々していただいて」
「この裁判は勝てますよ」
聖華は、兄がどの裁判でも同じことを言うのを知っていた。兄が、小説家は今日退院した、と彼女に告げると、彼女はよかったわ、と大きくて長い溜息を吐いた。
「貴女の方へ影響がないといいですけど。こんなに目立つ所で働かれて」
「私はもう嫁いで苗字が違うから……。弟の所へは毎日行っているけど」
「最近の著作権関連の判例を紐解いているけど、弟さんの場合はかなり特殊ですから」
回りに、人が少しずつ増えて行く。兄達は事件の話を止める。
「お兄さんに似ていないのね」
「僕達、親は違うんですよ」
「よかったわね。こんなに素敵なお兄様がほんとのきょうだいじゃなくて」
彼女は鏡の中の聖華にウインクする。予想外の成り行きに聖華は真っ赤で下を向く。心の準備ができていない。彼女は聖華の顎を持って、やや乱暴に顔を上へ向かせてメイクを続ける。
 困った時には何でもいいから別のことを考える。それが聖華の常套手段だ。そうだ、さっき道端で褒められたワンピースのことを考えよう。そうしたら今日、制服からわざわざ着替えたのは、兄に会う為だということを思い出す。聖華が赤くなって困惑しているところも、兄がビデオに撮っている。あ、でも、着替えてよかった。……制服にメイクは似合わない。
 いつの間にかギャラリーが増えている。「若月さんがメイクしてる」と、こそこそ言う声が宙を巡る。それぞれの制服を着た人達が、瞬きもせずに、若月さんの手を追っている。聖華は、デパートのスタッフに二重に囲まれている。二重の外側の人達は内側の人達の隙間から覗いている。若月さんがなにかする度に、へー、とか、ほー、とかいう感嘆の声。聖華は、鏡の中の他人になった自分の顔をぼーっと見詰める。ギャラリーに、色んな方向から一杯写真を撮られる。
 
「聖華も大人になったよ」
聖夜に手を握られていても、他人になった聖華が嫌がることはない。
「若月さんはね、十代の時に一人でパリに乗り込んで行って修行をした人だよ」
だからあんなにスタッフが見に来て。客をほっぽって来た人もいた。
 さっきのヒッピーに会った所へ戻った。売るつもりだったら、マニアがいるから紹介しますよ、と彼が言ったら、兄は、大事な物だから売りはしないよ、と笑いながらも、金額を言われたら、暫く固まっていた。ヒッピーは気が変わったら連絡ください、と言って、メールアドレスをくれた。
 大事な物だから売りはしない、と言うことは、兄はお嬢さんが着ていたことをちゃんと覚えている。聖華は教会の慈善箱からこの服をパクったことに、改めて罪悪感を覚えた。返すつもりはないんだけど。
 二人は、銀座にしては大衆的な値段のレストランにいた。二階の窓から、ネオンの大波が押し寄せる。波が引く時、別世界に連れて行かれるような気がする。
 聖華のつけまつ毛のまつ毛が重たい。まつ毛越しに見ると、聖夜はいつもはビールなのに、赤ワインを飲んで、頬を赤くしている。聖華は大分長いことアイスコーヒーをぐるぐる回している。兄に買ってもらったリップスティックを開けてみた。何色って言えばいいのか、よく分からない色。強いて言えば、さっきのフラミンゴの色。元気な色。フラミンゴが一斉に空に飛び立つのを見てみたい。あんな色が本当にあるって気付いた時には、神様が信じられるような気がする。
 それで気付いたけど、聖夜も聖華も、今夜は十字を切っていない。
「警察の調書によると、容疑者が先に書いた時もあるし、その逆もある。……だからお前にも意見を聞いてみたい」
兄が本気で聖華の意見を参考にしたいんだと知って驚く。
「犬が出て来るんだ。でもストーリーには関係なくて、突然意味もなく、その場に暫くいて、出て行く。それに、人が宙に浮くんだ。部屋の中で。それも突然意味もなく浮くんだ。一番よく似ているのは、星に着陸するシーンで、操縦桿を握る主人公がコントロールを失って、急降下するところ」
「SFなの?」
「そういうのもある。未来を描いた物は多いんだ」
「……お兄ちゃん、町田さんって知ってるでしょ? あの人が、夜行き場のない子供達の為にボランティアで映画観賞会を始めて。教会の下の一番大きい部屋で。なんか、悪い親を持った子達は不幸だけど、悪い大人ばかりじゃないところを見せたい、とか言って」
「町田さんって、警察官の町田さんだろ?」
「そうそう、それがね、町田さんの選ぶ映画って、全然子供の観る様なのじゃなくって、芸術的って言うか、小学生は速攻で熟睡状態なんだけど、私達は一緒に宿題できるから、まあ、効果はあるかな、みたいな」
「え、なになに、どんな映画?」
「町田さんの好きな映画ね、観てると結構ハマるのもあって、この間、三時間丸ごと町田さんと一緒に観て、なんて言うの、一つの場所をずーっと三分くらい映し続けるみたいな映画。芸術的な。それで、それはSFだった。それで、それは全部ロシア語だった」
「町田さんも一人でいたくない時があるんだろ。丁度いいよな。いい年で独身だし……。で、だからどうしたの?」
「……その時観た映画に似ている」


映画『ソラリス』

 

 聖夜と聖華はさっさと食べて、でもデザートはちゃんと食べて、今夜、町田さんがいるという、教会の近くの交番に向かった。
「いいですよ。給料前でみんな家で大人しくしているから、事件も無さそう」
町田さんは、聖夜が差し出した、例の事件の調書を暫く読んでいた。
「一緒に観たあの映画みたいでしょう?」
「なんだ、聖華ちゃんか。今夜は聖夜さんが随分綺麗なお嬢さんといるな、とびっくりしていました……。成る程、確かに似てますね。犬が突然画面を横切ったり、人間が宙に浮いたり」
 町田さんはこないだ聖華と一緒に観た映画をコンピューターに映した。流石、町田さんで、一発でその部分に辿り着く。宇宙船に乗った男がコントロールを失って、でもなんとか、その目指す惑星に着陸する。それから人が宙に浮くシーン。
「そのSFは『ソラリス』というタイトルで、惑星が渦を巻く海に覆われていて、その海は意識を持っている。……考える海。でもね、犬も出て来るけどほんのちょっとで、もっと出て来るのは違う映画ですよ。聖華ちゃんと一緒に観た『ノスタルジア』に出て来る。他にも犬は殆どの映画に出演するんです」
 また町田さんは一発でそのシーンを当てる。犬は何処? あ、いた。……ジャーマンシェパードみたいな。もっと大きいかも知れない。この映画でも人が浮いている。


映画『ノスタルジア』


「それから、この監督の作品に共通しているのは、雨が降るシーンで、しょっちゅう土砂降りの雨が降っている。なぜか家の中でも降るんです。その被告も原告も絶対この監督の映画を観ている。じゃないと偶然過ぎる」
「容疑者は、確かに雨のことも言っていた……。でもどうして容疑者も被害者もこの映画のことに気付かないんだろう?」
「この映画は人間達の無意識に働き掛ける。脳に浸透するんです。……まるで、この監督が神になろうとしていたみたいに」
「原因がはっきりしたら、容疑者に悪意はなかったと証明されるかも知れない」
 
 そこで、財布を落とした、と男が青くなって入って来る。よく見ると、そいつは聖華にカモノハシに似ている、と言った奴だ。
「お兄ちゃん、この人が私にカモノハシに似ているとか言った人よ」
「え、聖華? マジで? へえ、綺麗だな。全然気付かなかった!」
そいつにじろじろ見られる。兄がこう聞く。
「君はなんで聖華にそんなこと言ったの? カモノハシみたいに可愛いからだろ?」
兄は怒っていると言うより、面白がっている。
「全然違いますよ。カモノハシは単孔類たんこうるいと呼ばれて、生物学上何処にも分類されない特殊な動物で、何処にも属していない、孤独である、というところは、分類学上で言うと蝙蝠に似ている。孤立している。単孔類は卵を産んで母乳で育てる。蝙蝠は鳥の様に飛び子供を産む。単孔類とは、単純の単に、通風孔の孔、すなわち、穴、という意味です。言葉の由来は、単孔類は、口から消化器官から性器から排泄器官まで、一つの穴で繋がっていることです。単孔類に属するのは主に、世界でたった二つの動物です。カモノハシとハリモグラ」
そいつが変な所で沈黙するから、じれったくて、そこにいた三人が同時にハモって聞く。
「だから?」
「……だから、聖華がクラスでどんなグループにも属さないで孤高に生きているのがカッコいい、ということを伝えたつもりです」
……全然、伝わっていない。


カモノハシの進化 どうやって絶滅せずに生き残ったのだろうか?




 そいつは町田さんに色々聞かれて、名前とか電話番号とか、それで帰って行った。殆ど入れ違いに母親に付き添われた小学生が、財布を拾った、と届けに来た。町田さんは子供に名前と電話番号を聞いて、偉いな、と褒めてあげた。拾われた財布は特徴からして、あいつのに間違いなかった。
「じゃあ、これから教会の下の部屋で観よう」
「え、お兄ちゃん、一つに二時間も三時間も掛かるんだよ」
「観ないとしょうがないだろ? 弁護の為だ」
 
 何時間もして、夜勤明けの町田さんが来てくれた。聖華がドアを開けに行ったら、既に空の下が明るかった。
「あ、この後直ぐに馬が出て来ますよ」
町田さんの言う通り、馬が画面を横切る。
「犬だけじゃないんだ。しかし、本当に雨がよく降るな」
「この後、大事なシーンですよ」
人が宙に浮いている。兄は映画の時間を記録している。いつそのシーンがあったか。
 兄が興奮気味に言った。
「これ、調書にあった。家が燃えるところ。容疑者の書いたものと被害者の書いたものがかなり近いんだ」
「もうじき終わりますけど、次も観ますか? 次のには雨も一杯降るし、火事もありますよ。犬も出るし。宙に浮くシーンはないけど」
兄は呆れ顔だ。
「町田さん達みたいに、マニアの方は、こんなによく覚えているものなんですか?」
「三十回以上観てますから。きっと事件の方々もそうだと思います」
聖華は、じゃああの時、町田さんと一緒に観た時、彼は既に三十回観ていたんだな、と驚いだ。
 
 教会のお母さんが顔を出して、ミサの前に朝ご飯食べちゃいなさい、と三人に声を掛ける。聖華はすっかり顔を洗って、まつ毛も取って、元の聖華に戻ってしまった。シンデレラだった夕べの……。
 外国から優しい青い目をした神父さんが来ていた。聖華はミサに集中できなくて、焦点の合わない目で、ステンドグラスの色の陰を追っていた。一年前の出来事を思い出していた。
 中学に入って環境が変わって鬱になった。学校にも行けなくなった。聖華は指で突くと涙がぽろっと零れる人形みたいになってしまった。都心から、ウルトラマンみたいな金色に回る弁護士バッジを着けたお兄ちゃんが飛んで来て、それから毎月一回、丸一日中、聖華と過ごすことを勝手に決めた。効果はあったと思うけど。色々励まされたし。
「人の言うことなんて気にすんな。お前さえよければいいんだ」
自分の為に生きたことのない聖華は、どうしていいのか分からない。カトリック教会が聖華の世界で、人の為になることが正義で。
 半端じゃない寂寥感を感じた。寂寥感なんていう言葉、学校で習った時は、そんな一生に数度しか使わない様な言葉を教える学校制度に腹が立ったけど、なんだ、結構使える。
 その頃出会ったのが、太宰治の『女生徒』だった。太宰だけは聖華のことを分かってくれる、様な気がした。ただの気のせいかも知れない。日曜のミサでは専ら聖書の下に『女生徒』を隠して読んでいた。だって、聖華にとって、聖書がこれだから。
 
 聖華は町田さんと一緒に法廷にいた。傍聴席の最前列に座った。町田さんは警察官の制服は着ているけど、制帽は手に持っていた。被告人を見ると、なんだか小学校の時に隣の席にいた、ひろし君に似ている。目立たないけど、性格がさっぱりして、感じいいな、みたいな。ひろし似の被告人は、自分の席に座る前、兄に大きく頭を下げた。
「示談が成立するかも知れない」
今朝、兄はそう言っていた。被害者の弁護士と検察官に連絡を取るつもりだと。聖華は隣に座っている町田さんに、それは何かと聞いてみた。
「示談とは、簡単に言えば、金で解決することだよ。示談して和解をすれば、執行猶予が付く可能性が非常に高い」
 しかし裁判はもう始まっていた。兄は会場に向かって熱く語り始めた。風変わりな事件であり、人気作家が被害者だ、ということもあって、傍聴席は満員で、マスコミらしい人物もあちらこちらに見られた。傍聴席の後部にいる、被告人の姉、若月さんが聖華に小さく手を振る。彼女にぴったり寄り添っている男性は旦那様かな。だとしたら、若月さんより随分若い。
「怪我をされた作家の方、そして被告人は、双方同じ映画監督に傾倒しており、無意識に映画の風景や、人物、ストーリーを真似てしまうのです。その為、双方の小説に似るところがあったのです。著作権を侵害された、という被告人の主張は単なる誤解によるものです。また、障害事件に於いても、被告人には被害者に対する殺意は全く認められません。動機は自分の小説を守ろうとした、純真無垢な文学者の精神です」
聖華は、純真無垢な文学者の精神、が裁判官に通じるのか、怪しいな、と思った。でも、盗作の原因が分かったのは裁判に大きく影響するに違いない。町田さんが立ち上がった。驚いたことに、次の証人は町田さんだった。
「私が纏めた映像を観てください」
大型スクリーンに映画を映す。いきなり宙に浮く人間を観て、あっち側の弁護士が唖然とする。
 いきなり理由もなく犬が出て来る。そして犬は理由もなく去ってしまう。そしていきなり理由もなく家が燃え上がる。あっち側の弁護士は、一度立ち上がって、また椅子にへたり込む。
 あっち側の弁護士が、兄とひろし似の被告人と町田さんを順番に見詰める。証人台の町田さんが話を続ける。
「アンドレイ・タルコフスキーは、一九三二年に生まれたロシアの映画監督です。この監督の映画は、非常に中毒性があって、私もそうですが、ハマると、とことんハマって、映像やストーリーが自分の血となり肉となるんです。無意識の世界に入り込むので、自分が影響されていることにさえ気付かないんです」
兄がその後を続ける。
「被告と原告の作品には似た箇所がある。しかし、原告の小説が被告より先に書かれたこともあれば、原告の小説が被告の後に書かれたこともある。その謎がこの映画で説明できます」
 
 兄は、白い紙にマジックで「減軽・執行猶予」と下手糞に書いた。裁判所の外に出て、嬉しそうに紙をテレビカメラにかざす。太陽はまだ空の天辺にあった。思ったより長い裁判だったけど。
「町田さん、有難うございます。証人が現役の警察官なのはポイント高かったです。それに聖華が映画のこと覚えてくれていたから」
兄は聖華の頭を激しく撫でる。折角ヘアアイロンで整えた髪が台無しになる。
 聖夜と聖華は町田さんと別れて、教会に向かう。裁判がまあまあ上手くいったことのお礼のお祈りに。この教会の中庭に、その敷地にしては大袈裟なサイズの噴水がある。石造の天使が二匹いて、一匹は大きく翼を広げ、空に飛び立とうとしている。もう一匹は下を向いて、懸命にお祈りをしている。
 床を這うステンドグラスの影が何処にあるかで、聖華は大体の時間が分かる。祭壇の正面にある十字架とキリストの像。聖華の原体験。
「お前はなんでこのキリスト様がそんなに怖かったんだ?」
聖華はキリスト像が怖くて、ミサの時によく泣いていた。兄が聖華を、お人形みたいにいつまでも膝に抱いた。
「だって死んでるんだもん。苦しそうに。今でも怖いよ」
「後で復活したんだからいいじゃないか。……お陰様で今日の裁判が上手くいきました。……父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」
兄は、キリスト様とマリア様に向かって十字を切った。処女は絶対妊娠しない、と言ってた癖に。
 聖華はキャンドルに点火した。思いがけず火は大きく燃えて、聖華はクリスマスのミサを思い出す。教会中が暑くなるくらい沢山のキャンドルが燃え盛る。人の動きに合わせて火が踊る。子供の時、キャンドルの火が一斉に同じ方向に動くのが面白くてずっと眺めていた。……何かを思い出す。そうだ、あの火みたい。家が燃え上がる。前後の脈絡もなく。聖華はもっと沢山のキャンドルに火を点ける。
 ドアが開いて、風でキャンドルの火が一斉に横になびく。細かい火の粉が散る。大きな犬が一人で入って来る。いきなり。飼い主はいないし、リードもない。ジャーマンシェパードくらい大きい。犬はフレンドリーに聖華と聖夜に微笑んで、祭壇の前に静かに丸くなる。
 教会に捨てた人がいるから、聖華はいつになっても自分が誰だか分からない。カモノハシみたいに、誰にも何処にも属さない。寂しい、寂しい。悲しみの多かった聖華の人生が、走馬灯のようになって駆け廻る。泣きたいムードが盛り上がる。涙がぽたぽた落ちる。聖華はいつかの、指で突くと涙がぽろっと零れる人形みたいになってしまった。
 ウルトラマンの回る金色が火の粉を飛ばして、聖華の側へ駆け寄る。あれっ、聖華が宙に浮き出した。聖華は聖夜の肩に手を回す。聖夜は聖華の腰を抱く。二人はそのまま宙に浮いて行く。ゆっくり、ゆっくり。下を見ると、丸くなっていた犬は静か教会を出て行く。キャンドルが二人を追って周りに浮き始める。……消防法に違反している。
 雨が降って来た。教会の尖った屋根を激しく叩く。ステンドグラスに滝の様に雨が流れる。あんなにいいお天気だったのに? 教会の中にも雨は降る。キリスト様の上に落ちる。泣いているみたいに。
 聖夜と聖華はとうとう教会の高い天井に近付いた。聖夜が天井を、バスケットボールのボールをゴールに投げる様にポンッと叩くと、今まで上がって行くばかりだった二人は、ゆっくり落ちて行く。これを惰性の法則と言う。電車の急ブレーキで人が前に動くのも、惰性の法則の仕業だ。
 床に着いて、二人は抱き合う。聖華の頭は背の高い聖夜の肩くらいだ。
「お兄ちゃんも私も、カモノハシみたいに、何にも属していない。私達を捨てた親にすら。……それに神にも。イエス様にもマリア様にも」
聖夜に手を握られる。以前のように自然に。聖華は聖夜の握られていない方の手を開く。
「あなたは誰? それに私は?」
 
 笑い声が聞こえる。赤ちゃんの。聖華と聖夜はコウノトリのドアへ急ぐ。そこへ捨てられて、赤ちゃんが大声で泣いているのは聞いたことがある。でも、この子は大声で笑っている。たった今、親に捨てられたところだというのに。
「まだ遠くに行ってないだろ!」
兄は教会の外へ走る。聖華は赤ちゃんを抱き取った。何が楽しいんだろう? どうして笑っているんだろう? ……兄はなかなか帰って来ない。
 やっと戻って来たら、若い女性と一緒だった。とても若い。十代なのは確かだった。黒いミニスカートに、膝上のハイソックス。黒っぽい口紅。コスプレぎりぎりくらいの。
「僕達、責任を持って預かります。でも、あなたのことをちゃんとこの子に伝えられるように、名前や連絡先をください」
 女性は一生懸命、何かを言おうとしているみたいだけど、唇が震えて言葉にならない。聖華は、自分や兄もこんな風に置いてけぼりを食ったんだよな、と憤る。
「私や、ここにいる私の兄も、あのコウノトリのドアに捨てられたんです……。でも私達には、親や親戚のことを知る方法が全くない……」
それを聞いて女性は、聖華達を見る。女性に子供を生んだ後の動物の様な熱さを感じる。身体の奥から湯気が立つ様な。言い方は悪いけど。
 聖華は言葉を続ける。
「……だから、私は今でも自分が誰だか分からない。こんなに可愛い子だったら、きっと直ぐ貰われる。私のことを欲しい人は誰もいなかった」
「お前、変な方向へ話を持って行くなよ」
ドアがノックされて、制服を着た町田さんが入って来た。このご機嫌な子は、町田さんの心を速攻で奪ってしまった。警察官を見て女性はショックな様子だった。
「男の子さんですね。お名前は?」
 責任感のある弁護士と警察官がここにいる。兄が器用に赤ちゃんをあやしている。背の高い兄に抱えられると、赤ちゃんがとても小さく見える。
 聖華はそっと表へ出た。聖華は自分が誰だか知らないけど、でも、誰かにならないと生きて行かれない。でも、誰かになるのは凄く大変。
 きっと凄く強くならないと。親なんて誰でもいい。関係ない。聖華の進化はここからスタートする。ここから誰かになる。カモノハシみたいに孤高に生きる。電車が前にも後ろにも進めるみたいに。物心が付く前に与えられて、いつの間にか失くしてしまった十字架みたいに。
 あ、あの犬。さっき教会の中にいて丸くなっていたジャーマンシェパード。飼い主さんに連れられて歩いている。歩くリズムがまるで詩のようだ。擦れ違う時、犬は聖華に励ましの黙礼した。
 雨が終わって、外の大きな十字架から水が滴り落ちる。聖華は雫を両手で受ける。噴水のいつもより激しい音に誘われた聖華は、二匹の天使達と一緒に、天を仰ぎ、虹を探した。
 
 

 

07/16/2024


                                                        Photo: Suzy Hazelwood

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