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小説『皆で浴衣で盆踊り 第3話』

五、芥川龍之介の幽霊
 
 
 二、三日が過ぎると、天使から切腹願望や殺人願望が徐々に消えて行った。……母親を殺したい、と本気で思うなんて。日本刀で後を追うなんて。
 病院の食事は、栄養はあるのかも知れないけど、見た目はコンビニ弁当と変わりはない。色んな食べ物が、仕切りのある入れ物に、ちょっとずつ盛られている。近所のいつも行ってたコンビニの弁当に絡まっていた、気持ち悪い長い髪の毛を思い出した。
 天使は、食べなくなった。食べたくないのは、髪の毛のせいだと思っていた。実は、食べたくない、ということと、髪の毛には因果関係がなかった。天使はただ食べなくてもいい理由を探していただけだった。天使は病院の食堂に誰もいない時に、そこの大きなゴミ箱に食べ物を全部捨てていた。
 二、三週間すると、水しか受け付けない天使の目が、徐々に窪んできた。立ち上がるとふらふらした。力なく、ベッドに横になることが多くなった。外が明るい時も暗い時も、天使は目だけでいた。頭もなく、身体もなく……。
 
「ドクター、僕、なんでここにいるんですか?」
「いいだろう? ちょっとゆっくりしていけば」
 天使の観察だと、彼のいる病棟は、表情のないうつ病患者が多い。天使は自分も無表情に見えるのかな、って思ったけど、鏡を見たけど、自分で自分を見たって、うつだかどうだか分からない。頭の中が静かで、それだけは確か。
 それから、なんだか知らないけど、天使と同じ部屋の隣のベッドに、いつも天使に、自分の見た幻聴や幻覚の話をしたがる、大学生の男がいた。だから多分、この病棟にいるのは、うつ病患者だけではないな、と天使は考えた。
 
 あのパラダイスのようなおばあちゃんの部屋から、着物が皆、いなくなって、ザイダン、とかいう所に行ってしまった。あの、浴衣で盆踊りをしていた鳥類はどうしているのだろう? 窪んだ目の天使は、死にたくなる程、皆が懐かしい、と思う。皆で浴衣で盆踊りをしたい。櫓の周りで、太鼓に合わせて。
 
「お父さんに会ってどうだった?」
「え、会ってませんよ」
「向こうは会ったって言ってたぞ。感動したって」
 
 天使は、黒い色を好むようになった。黒は色じゃないと思っていた。天使の絵に黒はない。……誰かが着ている黒。全身黒のパンクな格好をして、鎖をじゃらじゃら腰の周りに下げた人を見た。その人は男性で、見舞いに来た人だった。頭の後ろは刈り上げて、頭の上の方から前髪までは、レタスみたいなグリーンだった。
 レタス頭の人は、天使のいる部屋の、天使みたいに純粋な高校生に会いに来た。天使は、その人の着てる黒を見ると落ち着いた。暗い色ばかりを目で追うようになった。天使には黒に魅かれている自覚があった。自分が異様に変わっていくのを感じた。
 パンクの青年に聞かれた。
「君、中学生?」
天使は標準より小さいから。コンビニ弁当で育ったし。頭悪いし。
「君はなんでここにいるの?」
「知りません」
「知らない訳ないでしょう?」
 天使はそう言えば、自分がなぜここにいるのか、あんまり考えたことなかったな、と思って、考えてみた。
「あ、もしかしたら、僕が日本刀を持って、母親を追い掛け回したからかも知れません」
「保護観察?」
「知らない。ドクターに連れ去られて来た」
 彼は何度も見舞いに来て、天使も、もっと彼と話すようになった。彼が会いに来る高校生は、彼の弟だった。幼稚園の頃から学校で何も話さなくて、そして、今は自殺願望がある、ということだった。
 一人になると、天使は暗く呟いた……。どうせ直ぐ忘れてしまう。自分の人生に起こった、そんなことも。あんなことも。お父さんに会ったことだって、もう忘れてしまっている。
 
 高校の国語の授業で、高村光太郎という詩人のことを習った。なんだか、こういう内容の詩だった。
 
「いやなんです
あなたのいつてしまふのが――」
 
 この言葉がその詩の中で、何度も繰り返される。天使はそんなに何回も言わなくったって分かるよな、っと思って、その詩には関心を持てなかったけれども、今、それを読んだら、きっと泣ける。
 天使はその詩みたいに、自分が行ってしまうのが悲しい、と思う人が何人いるか、指折り数えて、少なくとも小百合先生は、絵の共犯者として、死体のモデルの自分のことを、必要としているかも知れないと思った。一人だけか……。
 
 自分に起こった幻覚について話したがる、隣のベッドの大学生のコンピューターを借りた。借りる替りに、大学生が最近見た幻覚について聞かされた。それは箪笥の上に、知らない人達が座っていて、自分のことをずっと見ている、という幻覚だった。
 おばあちゃんの着物の部屋にいた鳥類みたいだ。箪笥の上に並んで。怖くなかったし、可愛かった。天使は、大学生の言った、箪笥、という言葉に反応して、それはどんな箪笥だったのか聞いた。扉を開けるとその中に小さな引き出しが沢山あって、その一つ一つに着物が三着くらい入っている箪笥だ、と言った。天使はおばあちゃんの箪笥を思って、奇妙な一致が怖かった。
 
 天使が子供の時、あんなにカナリアの飼い方の本を読んだのも、きっと、今の、この時、に繋がっている。偶然じゃないんだ。それは必然なんだ。
 大学生は文学を専攻していて、芥川龍之介の幽霊が自分に語り掛ける、という妄想があるんだけども、大学生にとって、その妄想は妄想じゃなくて、現実であるらしい。
 芥川龍之介自身の妄想について、大学生が語ってくれた。芥川には「関係妄想」という妄想があって、何かや、誰かが、自分に関係がある、と思い込む妄想なんだそうだ。全然関係ないのに。
 
 彼は大学の勉強の為に、コンピューター持ち込みを許されているのだった。天使は題名を忘れてしまって、大学生に聞いた。高村光太郎の詩だったら、きっと『智恵子抄』だよ、と教えてくれた。
 詩を書き写した。意外にも、さほど感動はなかったけれども、天使がどこかへ行ってしまうのが嫌だという人が、小百合先生以外には、天使の周りには誰もいないな、と、そう暗く考えた。
 長い間、両親に無視されて、きっと今が、その限界なのだろうと、そう思えた。怒りは感じなかった。日本刀を持ってた時は感じてたけど、あの後はやっぱり普通の天使に戻ってしまった。
 
 人間の身体の仕組みは分からないけれども、長い間食べないと、飢餓感が快感に替わる。天使は何日も置き去りにされた幼少期から、そのことに気付いていた。食べないと、気持ちがいい。
 それはある種の防衛機制だろう。防衛機制という言葉は学校で習った。天使はあらゆる種類の防衛機制を背負って育って、ある日突然、それに防衛機制という名前が付いて、今まで名前のなかった自分に名前が付いたみたいで、嬉しかったのを忘れない。
 
「いやなんです。いやなんです」という詩の言葉が、一日中頭の中で繰り返された。天使はまた大学生からコンピューターを借りて、そのかわりに彼の幻覚を聞かされた。それは、彼の頭の中に王様がいて、彼になんだかんだと命令する、という話だった。王様がとても怖いと、大学生は震える。
 
 天使は着物のザイダンを検索した。そんなに沢山の着物のザイダンはないだろうと思ったら、意外なことに、都内に三つもあった。おばあちゃんの着物はどれにあるんだろう?
 三つのザイダンのサイトに入ってみた。その中に、竹久夢二の描いた着物を再現して、展示してあるザイダンがある。そのサイトには、最近入手した着物、という項目がある。
 ……カナリア。赤と、黄色と、白と、緑色の。水鳥と、せせらぎ。くるくる飛び回る花達。ぽんぽん弾む手毬。浴衣を着た鳥類達の盆踊り。それは皆、そのザイダンにある。皆に会いたい。会って皆で浴衣で盆踊りをしたい。
 天使はザイダンに行くためには体力を付けるべきだと思って、食べ始めた。食べた後、吐かないでいるのが大変だった。数週間食べてなかったから、食べたら胃が緊張して、膨張感があり、痛んだ。でも食べた。食べたら気持ち悪くなった。でも食べた。着物達に会うため。ここを出るにはどうしたらいいか? ここは閉鎖病棟だから、勝手に外には出られない。
 
 ナース・ステーションにあった携帯を返してもらった。勉強が遅れてる。このままじゃ進級できない、と言った。勉強が遅れてるのは本当だから、嘘はついてない。まあ、勉強するつもりはないけど。服はどうする? 病院服で街をうろうろしてたら、直ぐ通報されそう。
 こないだパンク青年が、音楽を持って来てくれて、彼がどんな曲が好きか、それを聞けば分かるって。天使はどれも聴いたことがなくて、一つだけ知ってたのは、高校の軽音楽部の奴が、うるさく練習していた曲だった。ザ・クラッシュというバンドの『ロンドン・コーリング』。
 意外にもパンク青年は、天使にフィードバックを求めた。
「僕、今、食べるだけで大変で、何にも考えられない」
天使は正直にそう言った。
「食べるのが大変ってどういうこと?」
「行きたい所があって、体力付けないと行かれないし。まあ、そもそもこっから出られないし」
「行きたいとこがあれば、行けばいいじゃない?」
 それを文学部の大学生に聞かれた。
「どこどこ? どこに行きたいの?」
大学生は興味津々だった。天使はおずおず答えた。
「友達に会って、一緒に踊りたいな、って」
「踊りって何? どんな踊り?」
これも大学生。天使は、盆踊り、って言うときっと笑われるな、と心配したから言わなかった。パンクの青年は、腰の鎖を振ってちゃらちゃらさせながら、天使と大学生とだけに聞こえるように囁いた。
「行きたい所があるんなら、行かせてあげようじゃない」
 
 それをパンク青年の自殺願望のある弟に聞かれていた。
「なになに? どんな踊り」
天使は、しまった、踊りに突っ込まれて、にっちもさっちもいかなくなった、と思って、正直に告白することにした。
「ぼ……、盆踊りです」
深刻な顔で俯き加減で言ったせいか、意外にも誰も笑ってはいなかった。また大学生が、好奇心丸出しで身を乗り出す。
「さっき友達と一緒に踊るって言ってたじゃない。友達って誰? 誰と盆踊りするの?」
着物に住んでる鳥類、って言ったら、頭おかしいと思われるよな、っと天使は思ったけど、ここは精神科だから、まあいいや、と思って言ってしまった。
「着物に住んでる小鳥達と」
大学生は君は、大した詩人だな、と、天使を、褒めていた。
「着物に住んでる小鳥か。今度それをテーマに小説を書いてみよう。芥川龍之介と相談して」
 
 天使は、芥川龍之介と話ができることと、小鳥と盆踊りするのと、どっちが余計病的なのか、ちょっと考えてみた。自殺願望のある弟が聞いた。
「それどこ? 小鳥のお友達はどこにいるの? 僕にも会えるの?」
天使は携帯で場所を見せた。
「このザイダンにその着物があるんです」
パンク青年が携帯を覗く。
「なんだ、そんなに遠くないじゃない。ちゃちゃっと行って、直ぐ帰ってくればバレないよ。これから行く?」
 
 
六、ザイダン
 
 
 鳥類のお友達と、こんなに早く会えるかも知れないなんて。天使は夢なら起きたくない、と願った。
「僕、でもこんなにやつれて……、ここ出たら直ぐぶっ倒れますよ」
ぶっ倒れるという言葉は、やや品がないのでは? と天使は心配した。
「俺が一緒に行けばいいだろ?」
パンク青年がそう言ってくれた。天使の夢が現実に近付いている。
「あ、でも、僕、服ないし。靴もないけど」
そしたら、大学生がこういう提案を。
「俺がここにぶち込まれた時に着てた奴があるから」
 大学生が出してくれた服は、三原色が複雑に絡み合った、奇妙なスーツだった。パンク青年がこういう感想を漏らした。
「六十年代のヴィンテージだな。サイケデリックの」
 大学生と、パンク青年の二人は、サイケデリックについて、しばらく蘊蓄を傾けていた。それを聞くところによると、サイケデリック・ファッションとは、ピッピー・ムーブメントと合わせて出来上がった、薬によって幻覚を見るという、極彩色や幾何学的パターンがぐるぐる回るような、柄が特徴らしい。
 天使は、小鳥と盆踊りをするというのも、幻覚に当てはまるのだろうか? と、考えた。あ、でも、他にも盆踊り見えてる人もいたよな、だったら幻覚じゃないよな、と天使は思う。しかし、薬がなくても盆踊りをしたり、芥川龍之介に宿題見てもらえるのは便利でいいな。
 
 パンク青年は、ファッションの学校に行っているそうだ。天使は、世間様の面前でこんなの着てたらやっぱりぶち込まれるよな、っと心配しつつ、ぶち込まれると、ぶっ倒れるとでは、どっちがもっと品がないか、ということについて考えていた。
 パンク青年は、そのサイケデリックなスーツを天使に当ててみた。
「いいんじゃない? 俺も派手だし、一緒だったら、自然に見えるだろ?」
大学生もそれに同意した。自殺願望は、可愛い、と言ってくれた。なんだか大きくてぶかぶかだし、パンツの裾も長すぎるけど、盆踊りのためならそのくらい我慢できるよな、と天使は思った。サイケデリックとコーディネートした靴のことは、考えたくなかったので、今は考えないことにした。
 
 皆で計画を練った。大学生は居留守の面倒をみてくれることになった。誰かが、天使は? と聞くと、大学生が適当に誤魔化す。疑われたら、自殺願望も口裏を合わせてくれることになった。
「でも、どうやってここを出るの?」
天使が聞いた。
「俺の影に隠れて一緒に出よう」 
 天使の胸がどきどき鳴った。しかし、どうしても鳥類の友達と会って、盆踊りがしたい。天使の決意が固まった。
 
 六十年代のサイケデリックと靴に身を包んだ天使は、パンクの影に隠れて、天使のいた病室から廊下に出た。
「その、鎖のじゃらじゃら鳴るの、なんとかなりませんか?」
天使はじゃらじゃらが周囲の目を集めるのではないか、と心配した。パンクは鎖を腰から外した。なんだか知らないけど、テレビで面白いのをやってるらしく、スタッフも患者もテレビの方を向いていて、ドアを開けてくれる係の人もテレビの方を向いていて、天使達は自然にドアを擦り抜けることができた。
 天使は子供の頃ここに通院していたので、この界隈は詳しい。病院関係者と擦れ違わないように、二人は裏道を歩いた。少し行くと、お寺がある。天使は幼心に、病院の近くにお寺があるのは便利だな、と思った。
 盛大な葬儀が行われている。人は沢山いるけど、なんだか誰も泣いてなくて、誰もが憔悴して見える。きっと、いい気になって長生きし過ぎた老人が、やっと亡くなって、やっと解放されて、呆然としているんだろう、と推測した。
 
 パンク青年と天使は駅に着いた。
「電車に乗るんですか?」
「じゃないとそこに行けないだろ?」
天使は一文無しだったので、青年に切符を買って貰った。
「ご恩は一生忘れません」
天使は涙が出そうになって、サイケなスーツの袖で鼻を拭いた。
 ホームに出た。パンク青年は、天使にカメラを向ける。天使はどういうポーズを取っていいやら分からない。なんだか恥ずかしい。天使は前を向いたり、横を向いたり、後ろを向いたりした。原色カラーが眩しい。天使の飢えた脳に、色がぐるぐる回っているように感じた。
「服装史っていう授業があって、研究発表することになってるから、テーマをサイケデリックにしよう」
 日も高く、写真を撮るにはもってこいだった。青年に言わせると、そのスーツは仕立ても素材も高級で、かなり値の張るものであるらしい。大学生がスーツをどうやって手に入れたのか、今度会ったら聞いてみると言った。今度会ったら、という言葉を聞いて、天使は不安になった。
「そう言えば、病棟に帰る時はどうやって入ればいいんでしょう?」
「それは、考えてなかった」
 電車に乗った。人々の視線が気になる天使だったが、盆踊りのことを考えるのに集中することにした。
 
 そのザイダンのある駅に降り立った。
「へえ、意外と立派だな」
青年が感心した。
「普通はさ、ネットではさ、広角レンズ使ったりして、実物より立派な建物そうに見せるじゃない」
「友達が呼んでる!」
「どっちから?」
天使は天井を指差した。二人はエレベーターに乗ったはいいが、何階で降りればいいか、分からない。
 エレベーターのどこかで、カナリアが鳴いている。天使はエレベーターの中をぐるぐる回ってみた。目が回った。エレベーターの壁にポスターが貼ってある。パンク青年が読み上げる。
「葛巻すず、記念エキシビション」
天使はびっくりして、声を上げた。
「僕のおばあちゃんの名前!」
「三階だな」
青年はそう言って三のボタンを押した。二人は十階にいたから、なんだか遠回りだった。
 
 三階で降りた。入り口に、地味な紺色のスーツを着た若い女性が座っていて、天使達を見ると、立ち上がってご丁寧なお辞儀をしてくれた。二人もご丁寧なお辞儀を返した。入場券とかはいらないみたいだった。
「おばあちゃんの着物!」
部屋をぐるっと回った壁面がガラスケースになっている。天井から床まで。デパートのショー・ウインドウみたいな。着物は着物専用のハンガーみたいな奴に掛けられて、両手を水平に挙げさせられて、降参状態だった。天使はショックだった。強過ぎるライトを浴びされて、本来の、色が、柄が、死んでしまったように見えた。
 
 見覚えのあるおばあちゃんの箪笥も展示してある。あのお雛様も。人形達は、なにか言いたそうな顔で、宙に浮いて、二人で追い駆けっこするように、ぐるぐる回る。
「あれ、あんなとこに小鳥がいる!」
青年が指差した先に、カナリアが数羽見えた。黄色いのと、白いのと、緑のと。大きなガラスのケースに入って、逃げ場がなく、皆、ぐったりして見える。天使のお友達は、天使のことを見て、天使の方へ飛ぼうとするが、ガラスにぶつかって、皆、下に落ちてしまう。
 大きな展示用のガラスの戸には鍵が掛けられている。騒ぎを聞きつけて、他の鳥類もやって来る。嘴の長い水鳥がガラスケースを嘴で叩く。皆、外に出られない。花達も、ピースをしながら、ぐるぐる回りながら天使に会いに来るけど、ガラスにぶつかって落ちてしまう。天使は辺りを見回す。この部屋だけで着物が三十はあるだろうか?
 さっきの女性が来て、四階でも同じ展示をやっております、と、またご丁寧なお辞儀をする。天使と青年はエレベーターに乗る。四階で降りると、盆踊りの仲間が、ガラスケースの床で、頭を背中に突っ込んで、うつらうつらしている。
 青年が指差す。
「ほら、あれじゃない? 虫除けの薬」
床に置いてある皿の中に、白い粉みたいな物が盛ってある。小鳥にも毒なんだ。どうしよう? パンク青年がショー・ウインドーを蹴っ飛ばす。
「駄目だ。このガラス、絶対割れないぞ。鍵がないと無理だ」
何とか早く皆を助けなきゃ。天使は叫んだ。
「鍵を、鍵を探さなきゃ!」
 
 展示場の真ん中のガラスケースに、見覚えのある物が。「葛巻家に伝わる名刀」。そのガラスケースは刀を入れる小さいもので、土台の部分は床に打ち付けてない。天使は土台に体当たりした。台はガラスケースと共に倒れ、割れたガラスが飛び散って行く。
 四階にいて、お辞儀をしてくれた若い女性は、悲鳴を上げて部屋を出ようとするが、パンク青年が彼女の腕を、がっしり掴む。女性は、天使が鞘を抜いたのを見て、更に悲鳴を上げる。
「鍵はどこ? 僕の着物の鍵」
「私は知らない!」
「じゃあ、誰かに聞いて。早く!」
女性は紺色のジャケットのポケットから携帯を取り出す。携帯には、ネコだのイヌだの妖怪だのの携帯ストラップがじゃらじゃらしている。
「……鍵はキュレーターが持ってるそうです」
「それは誰? どこにいるの?」
天使の持つ刃が、ライトを浴びて鋭く光る。
「早くして!」
女性は震えながら電話の向こうにいる人と話をしている。小鳥達がぱくぱく苦しそうに息をしている。半分閉じたつぶらな瞳で天使を見上げる。
 
 鍵はまだ届かない。エレベーター・ホールに警官が溢れていく。パンク青年が、女性の両腕を後ろから捕まえて、天使は刃を女性の喉に向けている。天使が警官に向かって、思いっ切り喚く。
「鍵はどこ!」
警察の偉い人みたいな人が、首を出す。その人は警官の制服じゃなくて、スーツを着ている。
「君の目的はなんだ!」
「早く鍵を開けて!」
天使は声を振り絞る。大きな声を出したつもりだったのに、声が上ずって、泣き叫んでいるみたいになった。
「開けるだけなら鍵屋を呼んでやるから、女性を放せ」
「じゃあ、早く呼んで。三階も四階も全部開けて。皆が死んじゃう前に」
「皆って誰?」
「僕の友達」
 
 鍵屋がマッハの勢いで飛んで来る。流石、商売だな、っと天使は感心する。一つの扉が開いて、二つ目の扉が開いて、全部の扉が開いて、そこから鳥や花が弧を描いて飛び出して来る。あんまり沢山いるから、全部の色が混じり合って、もう何色なのか分からない。
 おばあちゃんが描いた、鳥や花もいる。一緒に盆踊りした鳥類もいる。羽ばたく音が会場中に響き渡る。
 天使が鳥に囲まれて、皆は、天使にわーわーと、大変だったと、報告をする。手にも腕にも頭にも鳥がいっぱい止まっている。重たくて、天使はよろめく。花達はUFOみたいに、天使の頭上の宙に、上下しながら浮いている。
 警官の中にも鳥や花が見える人もいるし、見えない人もいる。見える人は、飛んでいる鳥や花を目で追って、素晴らしいと歓声を上げる。見えない人は、悔しがる。
 天使が人質にした女性は、幸い鳥達が見えて、天使を理解してくれた。御免ねって、天使は彼女に、いっぱい謝った。
 
 警察の偉い人達みたいな人達が、鳥だらけになっている天使を前に、天使をどうしようかと検討している。パンク青年が寄って来る。
「こいつ精神病院から逃げて来たんで、病院に返してくれませんか?」
天使のぶかぶかなサイケデリックななりを見て、皆は納得する。
「君、名前は?」
警察の一番偉そうな人に聞かれる。天使は名前を聞かれるのが嫌いで、天使なんて変な名前付ける人がいるから、いつまでもいやんなっちゃう、と思う。
「……葛巻天使です」
「なんだ。ここの葛巻財団の関係者か?」
「なに、なに? 葛巻ザイダンって、なに?」
天使はその短い疑問文に、なに、を三つ入れてみた。警察の一番偉そうな人が、質問に答えてくれる。
「葛巻財団はな、葛巻家に伝わる財宝、特に国宝級の着物を沢山保持している」
「へー、凄いんだな」
と、天使は感心する。
 
「君のお父さんの名前は?」
そう、警察の偉い人に聞かれて、天使は一瞬忘れていて考える。
 まだ鳥だらけになっている天使。背中をよじ登っているのがいて、首筋がくすぐったい。天使は鳥が落ちないように腕を水平に上げて、でも疲れたから下げると、鳥が雪崩になって落ちていく。
「確か、あれですよ、なんだっけ?」
「自分の親の名前を知らないのか?」
 警察の偉い人にも、パンク青年にも沢山鳥類が群がって来る。なんだかヒッチコックの映画みたいだ。鳥に襲われて逃げ惑う人々。
 黒いパンク青年は黒い椋鳥達に人気があるようだ。黒くてうるさい鳥達は、どこまでもパンク青年についていく。
 
 天使はやっと思い出す。
「確か、葛巻武ですよ。会ったことないけど」
「ここのボスじゃないか。会ったことないのか?」
 警察の一番偉い人は、そこらの警官に聞いている。
「おい、葛巻武は今どこにいる?」
警察の一番下っ端そうな人がおずおず答える。
「先程の聞き込みでは、今、熱海に静養に行っているらしいです」
「優雅なもんだな。自分の息子が日本刀振り回してるのに」
下っ端の人は付け加える。
「葛巻武さんは、僕達のやってる詩の同人誌に寄稿されてる詩人さんです」
 足の長い、銀色の大型の水鳥が、警察の一番偉い人と、天使の間を優雅に通り掛かる。警察の人は頭を撫でてやる。水鳥は気持ち良さそうにして、羽をばたばたさせる。
「この鳥達どうすんの? 葛巻君」
偉い人は、水鳥の頭をまだ撫で撫でしてやりながら質問する。
 
 パンク青年が走って来る。
「天使君、皆、あっちの方で浴衣に着替えてるぞ」
「あ、じゃあ、僕も」
と、天使。
「じゃあ、俺も」
と、パンク青年。
 いつの間にか、櫓ができて、音楽も始まっている。鳥類と皆で輪になって盆踊りをする。こんなに幸せなことはない、と、天使は音楽に乗って身体を動かす。鳥類の皆が、こんなに元気になって、天使もとても嬉しい。
 
 さっきの警察の一番下っ端そうな人が、ぱたぱたやって来る。
「警部、葛巻武が次の新幹線で帰って来るそうです」
警部こと、警察の一番偉い人は、皆と一緒に輪になって踊りながら答える。
「そうか、じゃ、ここで待たせてもらって、親子の初のご対面でも見物しよう」
 鴨の親子が葱を背負いながら通り過ぎる。踊りの輪にいた天使がそれを見て、パンク青年に問い掛ける。
「あの鴨はなに? なんで葱背負ってんの?」
「あれは、あれだろ? カモネギ」
「ああ、なるほど、カモネギか」
と、天使は納得して盆踊りに戻る。
 
「警部、例の麻薬組織の捜査ですが、どうしますか?」
下っ端の人が、なんだか青くなっている。
「明日でいいだろ? 一晩くらい。減るもんじゃないし」
「そうですか? じゃあ……」
下っ端の人も盆踊りに加わる。ザイダンの人達も加わって、輪がどんどん大きくなる。太鼓を叩く係のカナリア達も、気合を入れて、どんどんと叩く。
 
 
七、雀のお宿
 
 
 宴もたけなわで、道の両端では、色鮮やかな縁日が繰り広げられている。金魚すくいや、いちご飴、お好み焼き、クレープ。射的の店には、さっき葱を背負っていた鴨の親子がいて、集まった警察官達に、プロは入場できません! と叫んでいる。天使は縁日を冷かしながら、ピンクの綿飴をもごもご食べていた。パンク青年は、焼きトウモロコシを豪快にばりばり食べていた。
 天使とパンク青年が、雀のお宿に入ると、雀が出て来て、お座布団を勧められた。天使達はどうもありがとう、と言って、お言葉に甘えてお座布団に座ると、赤いおべべの雀の少女が、お神酒でもいかがですか? と杯を持って来る。
 道の向こうでは、下戸の下っ端の警官が、甘酒一杯で、出来上がっている。警察の一番偉い人も加わって、杯を交わす。赤いおべべの雀の少女が、もうじき花火が上りますよ、と言いに来る。花火が始まるか始まらないか、くらいの所で、図体のでかい男が、ばたばた入って来る。あんまりでかいから、部屋が狭く思えるくらいだ。
「天使!」
と、天使に呼び掛ける。天使も雀の勧め上手で、すっかり出来上がってしまった。
「あれ、どっかでお会いしましたね?」
「あの時だ。君のお母さんが逮捕された時」
「ああ、その節はどうも……、ほら、花火が始まりましたよ」
 
 雀の少女がそのでかい男にお座布団を持って来る。天使はおばあちゃんの白檀の扇子で、ばたばた自分の顔を扇ぐ。雀の少女はでかい男にもお盃を渡す。男はどうもありがとう、と頭を下げる。
 そこへ、助さんと格さんが、粋な着物で通り掛かる。図体の大きい男は、いい着物ですね、どこで誂えたんですか? と、二人に聞く。助さんと格さんとでかい男は、三人で着物談義を始める。そのうち助さんと格さんも雀に上手く騙されて、杯を頂く。助さんが聞く。
「こんなに着物に詳しいなんて、素晴らしい方ですね。ご商売は?」
「着物に関したことが多いです」
格さんが感心する。
「何だ。本職じゃあないですか。失礼だがお名前は?」
図体のでかい男が、こう答えようとする。
「葛巻武です」
 その一瞬前に、花火の大玉が上り、空いっぱいに花が咲き、どん、と大きな音が空中に響き渡る。天使は赤いおべべの雀と一緒に「たまやー!」と叫び、盛大に手を叩く。
 さっきまで隣の茶屋で芸者遊びをしていた、警察の一番偉い人が雀のお宿に来て、天使達に加わった。
「どうです、武さん。貴方の息子さんは大したもんだ。大立ち回りで鳥類を皆、救ってやったのだから」
 鳥類の皆さんは、でっかい花火に、やいのやいのの大騒ぎ。さっき警察の一番偉い人に頭を撫でられた足の長い銀色の水鳥が、お三味線を持って、芸者の恰好をして、一番偉い人に擦り寄る。こんな所にお隠れになってらっしゃるなんて、いけず、と、言いながら一番偉い人に、長い足で蹴りを入れる。警察の一番偉い人は、済まん、済まん、と済まながっている。
 
 花火が終わって、ちょっとずつ騒ぎも引いてきた。警察の一番偉い人が、天使に聞いた。
「君はなに、中学生?」
「高一ですよ。僕、両親に捨てられて、コンビニ弁当で育ったから、身体が小さいんです」
「高一だったら、まだ背も伸びるし、大丈夫、大丈夫……」
銀色の水鳥は警察の一番偉い人に色っぽく、しなだれ掛かっている。
「……天使君のお父さんはこんなに体格がいいんだから」
働き者の赤いおべべの雀の少女は、ぱたぱたお料理を運んだり、ちゅんちゅんとお酒を注いだりしてくれる。
「警部、なに言ってるんですか? 僕にはお父さんなんていませんよ」
テーブルの向こうにいる葛巻武は、罪悪感で下を向く。
 
「天使君、なに言ってるんですか? そちらがお父さんの葛巻武さんですよ」
「え、マジで? へえ、じゃあ、僕、まだまだ体格良くなる可能性大ですね。それは良かった、良かった」
 色とりどりの、金襴緞子の着物を着たカナリア達が、一列に並んで、つつつっと入って来て、扇を持って日本舞踊を披露する。
 雀の少女は踊りに感動して、雀の涙を零しながら、天使にお酌をする。そしたら、そこになぜか、警察の一番下っ端な人がいて、ぶつぶつ言い始める。
「警部、高一に酒を飲ませるのは違法では?」
「何をしけたこと言ってるんだ。ここは無礼講だ」
 
 葛巻武が天使の隣にやって来る。
「天使、君の側にいてやれなくて悪かった」
「全然平気ですよ、そんなの。僕の入院してる病院のドクターに聞きましたもん。病気だって」
「忙しくて君に会いに行けなかった。竹久夢二の絵に描かれた着物を、実在の着物として復刻させる、という仕事をしてきた。やっと財団も軌道に乗ってきた」
 葛巻武の目に涙が光る。それまで日本舞踊を披露していた色とりどりのカナリア達がやって来て、親子の対面に、まあるい、つぶらな目から涙をぽろぽろ零す。赤いおべべの雀も、また雀の涙を零す。葛巻武が、天使に語り掛ける。
「やっとここのところ、新しく開発された薬のお陰で、大分調子はいいんだ」
「病気ってあれですか? 僕の隣のベッドの大学生は、芥川龍之介に宿題を手伝ってもらっているらしいですけど、そちらもそんな感じ?」
「そうだな、俺の場合は、高村光太郎だ。彼に詩の添削をしてもらっている」
「マジで? 僕、大ファンです!」
「言っとくよ」
 
「皆さん、お布団が敷けましたよ!」
と、働き者の赤いおべべの雀が叫ぶ。病気で疲れていた鳥類は皆、布団に潜って、すやすや寝てしまう。人類はまだ寝惜しくて、雀も寝てしまったから、手酌でわいわいやっている。天使は、葛巻武の、大きな手の爪の中に、色を発見する。ピンクとオレンジとライム色の。
「あれ、絵を描かれるんですか?」
 葛巻武は、携帯に自分の描いた絵を映して、天使に見せる。それは、お花が二人、綺麗なお着物を着て、お手々を繋ぎながら、野原をスキップしている絵だった。
 色は大正浪漫の、ちょっとくすんだ独特のあの色。竹久夢二の。泣けるような着物の色と柄。葛巻武は、夢二の着物を生き返らせようとしている。
 少女のまま死んだ少女。小百合先生の絵のことを思い出した。死んだ少女達は生まれ変わって、蝶になった、鳥になった、花になった。
 葛巻武の絵は決して古くならない類の物だ、と、天使は判断した。彼の絵の色と形は彼の本心だから。葛巻武は、真実、純粋な、芸術の心で生きてきたのだ。
 天使はこんな体格のいい、いい大人がこんな、のほほんとした絵を描くんだ、と、心から感動する。他の絵も見せてもらったけど、やっぱり、バレリーナが回るオルゴールとか、三途の川を渡っている金魚とか、いい大人が描かないようなモチーフを選んでいる。
 
 天使の、たがが外れていた思考回路が、突然上手い具合に回り出す。
「お父さん!」
「天使!」
天使の心から、寂しかった幼い心の思い出が去って、新しい楽しい未来がやって来る。男二人は手を取り合う。
 
 とうとう人類も皆、布団に潜る。パンク青年は黒い椋鳥達の真ん中で、黒一色になって寝ている。天使の隣には葛巻武がいて、天使の反対側の隣には、赤いカナリアが寝ている。カナリアは、楽しい夢の中で、なんだかもぐもぐ寝言を言っている。
 天使は幼い頃やたらに読んだ、小鳥の飼い方の本を思い出す。あの沢山の本は、この瞬間のことだったんだ。小鳥のお腹の下に守られた雛の気分になって、安心して眠りにつく瞬間に、天使は葛巻武にこう言った。
「できたら、天使なんて名前はよして欲しかったな」
 
 

 
(了)

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