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伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』~読書感想文~

「見えない人が見ている」世界への招待状となるこの本。

私は目が見える。身近には目の見えない人がいないので、想像したことがなかった入口を、身体性を大切にされている美学者であり、この本の筆者伊藤亜紗さんが手品師みたいに開いてくれた。そして、自分と重なり合わせ随所に共感できる記述を沢山見つけた。

私はこの方も、そして、芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問=美学、という存在にも、この本の中で初めて出会った。

私自身は日々、混沌たる中で自身を見つめることが多い。そして、それらを言葉にしてしまうと、自分という存在がカオスの中に埋もれていることをよく感じる。

◇時間は存在するのか?
◇見える世界と見えない世界はどこで繋がるのか?
◇空間とはなんなのか?
◇私とはいったい何者か?

そんな疑問は常に私の中で大切に抱え込まれている。これらのことに関しても、美学者としての一考えが書かれており興味をもった。

目が見える私は、視覚からの刺激がある。それらに反応することも日常生活で多々あり、そこから認識することもある。しかし、その認識は本当にそうなのだろうか?といった疑いを持つために、自分の内側が混沌たる世界になっていく。私自身、見ているものが全てなどとは全く思っておらず、むしろ、見ることによって知覚されたものを自分のものとも思っていない。

本の中のあるエピソードで、目の見える人が目の見えない人へ絵画の説明をした際、湖と野原を見間違えた事が書かれていた。その時見えない人は、「見える人も盲目だ!」と思ったそうだ。この箇所には大笑いした。
なぜなら、【言い得て妙とはこのことだ!】とまで私自身が思ったからだ。

目が見えるからと言って、なんでも見えているとは限らない。目が見えないからと言って、なんでも見えないとも限らない。それは、「見えない人が見えていること」があるはずで、視点がないがゆえに、そこに縛られることのない自由な精神で見えている世界が存在するはずだ。見えない人は外界からの刺激が少ない分本質が見え、見える人は刺激に踊らされ、その情報を真実だと思い込んでしまうことは十二分にありえることだ。

個々の視覚からの導線があるとしたら、その先には一体何が待ち受けているのか?

そんなことを想像してみると、鎖でがんじがらめになる自分の姿が浮かび上がり恐ろしさを覚えた。だからこそ、そこだけに導かれるのではなく、目にうつった瞬間的な知覚に注目し、それらの断片を精神内でつなぎ合わせ、全体像、物事の本質を演繹できる人間に成長していきたいとお腹の底から思った。

「障害とはなにか?」この疑問もここ数年ずっと持ってきた。この問いかけに関する私自身の考えを広げてくれる見解を本の中に見つけられたことは本当に良かった。

目が見える人にぜひとも読んでいただきたい。社会に無理やり自分を合わせなければというプレッシャーを見事に払いのけてくれる本であり、読み応えのある1冊だ。

是非一度、本を手に取って「あちらの世界」へ冒険の旅に出かけてみてはいかがだろうか?
私は次に、伊藤亜紗さんが書かれた「手の倫理」を購入してみた。その感想文もいつかここで書いてみたい。


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