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木皿泉「さざなみのよる」〜読書感想文〜

私がこの本を手にした理由は、タイトルの【さざなみ】という言葉が、視覚アンテナに引っ掛かったからだ。この言葉から、【さざ波】【揺らぎ】【揺さぶり】【揺れ動く】といった、静止することなく絶えず揺らいでいる様子を思い描いた。
そして、それが人間たちの姿と重なった。姿形といった身体的なものも、目に見えない人の感情や精神も、さざ波のように揺れ動いている様子が瞼に浮かんだのだ。

死を自覚している唯一の生物が【人間】だ。【死】というゴールに向け我々人間は歩き続けている。生をスタートすることがなければ、そこへ向かう必要もない矛盾の中、我々の命はある日宿る。その宿った身体がこの世界に落ちた時、生が始まる。


生きるとは、どういうことだろう?

この本を読んだ後、【生きる】ことを私なりに今一度考えてみた。本の中の言葉を引用しながらあらすじを交え、私の考えと重なり合わせ書いてみよう。

読書をスタートしてすぐ、主人公ナスミは43歳という若い年齢で、どこかに逝ってしまった。その後、彼女の周りに居た人間たちへさざ波が拡がり、時間と空間を超え、それぞれの奥深い部分に根を張っていった。それは、彼女が生きた証にもなり、その拡がりは、彼女自身の存在を核とした光の姿を描いたものにもなった。


5年前、私の祖母も、どこかに逝ってしまった。あれから5年、今もまだ悲しみの輪郭は私の中でつかみ取ることができる。亡くなってから数年は、私の時間なんて存在してないように感じていた。だが、変わることなく同じ日常が更新されていき、私がいる世界の全ては絶え間なく動いていた。私はただ一人、この世界を万華鏡から覗いているようだった。

生きている時間、人は何人も何人も会う人がいて、それと同じ数だけ別れを告げる人がいる。誰かに会ったら、ちゃんと『さようなら』を言い、次の人に繋いでいく。祖母は私と出会い、私に『さようなら』と言ってどこかに逝った。残された私が生きるということは、『続けっ!』だった。誰かが死んでも誰かの人生は続く。祖母が死んでも、私の人生は続いていった。

では、祖母が生きている間、私は彼女から何をもらい何をあげたのか、そんなことは誰も知らない。2人が立て合ったさざ波は、私の中にいつまでもいつまでも残り続けることを知った。

誰にもあるありきたりの風景の中に、悲しみも喜びも全てある。その風景が混ざり合う中で、小さな波も大きな波も立て合って人は生きていると思う。
生きている間に交わした言葉、共にみた風景、共に過ごした時間、想い出、記憶や経験、そういった一つ一つの波が人間の存在を絶えず動かしている。私は祖母と出逢い、ちゃんと祖母に『さようなら』を言う事が出来たのだろう。

人は流れていく、自分と言う存在も日々同じではなく、この時間と空間のあちこちに姿を現し、自分1人では己の姿を見つけることは難しい。だから、その姿を捉えた相手の中に、私は自分自身を見つけていく。もう祖母を通しての自分を見つけることができないなら、私は私が戻れる場所でありたい。そして、誰かが私に戻りたいって思ってくれるようなそんな人になりたい。

私が私に戻る時、天空の小さな光になる。そう考えると、夜空でチカチカと点滅する自分自身を想像することができる。


人間はどこからきて、どこへ向かうのか?

この問いの答えと同じだった。私はきっと、『私が私に戻って』一つの輝く星になる。その日まで、楽器のように高い声で笑い転げ、低い声で怒り狂い、自分の感情をさざ波のようにたて、その余波の中で絶えず揺れ動き生きていきたい。そして、また、人とさざ波を立て合って存在していたい。


生きとし生けるものが幸せでありますように。
どうか、全ての人が最後の最後まで、幸せでありますように。

そう願わずにはいられないほど、涙を流し続けてしまう1冊だった。その涙に浄化された気分で、最後の1ページを閉じた。


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