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間の旅


自分の内の隅々を発掘に向かうことが日々の暮らしでよくある。
説明を付け足すと、日々私の思考は自分の内へ向かい、我が人生での邂逅を巡る旅に出発しているということだ。


私は幼いころからよく、自分の中の時間が止まることが多かった。
巷でよく言われる「一点見」とも言われるものであって、視線はどこにも定まらず、その瞬間はただ、ぼっ―としている。

何かの音も耳には届かず、誰かの声も通り過ぎる、私がしていることと言えば、どこか宙に浮いたある一点をじっと見つめているだけだ。

そういった状態に陥ることは主に家の中だが、気づくと人の輪の中に身を置いている時でさえもそんな世界にいることがある。


こんな私も自分の中にいるからか、人との会話で皆に追いついていくことがなかなか難しい。
会話においての話だが、私にとってはどうしても「間」が産まれてしまうのだ。そのため、頻繁に「聞いてる?」とも言われてきた。
もちろん、人の話を真剣に聞いた後のことで、なぜ、そんなことを言われてきたのかは私が一番不思議に感じている。
それは私にとってある種の悩みでもあったが、先日ある人からの言葉でそんな自分を許すことができた。

その言葉を聞いたとき、ふと気づくと自分の目から大粒の涙が静かに流れていた。
言葉が遅い、頭の回転が遅い、理解が遅い、そういった言葉は沢山いただいてきたが、まさか自分の「間」を肯定してもらえるとは思いもしなかった。


ただじっと人の言葉に耳を傾ける事を、この10年仕事にしていたわけだが、それはありのままの私でいることが自分にとって心地よかったからだと納得がいった。


人の話を聴くという作業は、自分が知らなかったことについて考える事であり、自分の外側から自分の内側に何かをいれることである。

それに対し、文章を書くという作業は、自分がもう知っていることについて考える事であり、自分の内側から自分の外側に何かを出すことだ。


その「何か」とは、もちろん「言葉」である。
産まれてから長い時間、自分の内側に言葉を入れてきた。
その言葉からまた違う言葉が内で産まれ、その言葉たちは私の内でグルグル止めどなく巡り続けてきた。
だから、これからの時間は、自分の外側に言葉を出していきたい。

そして、今そんな風に思えている自分を丸ごと抱き締めてあげたい。


今の私の「生」は、あらゆる連関から放たれ孤立しているように見える一存在である。だが、本当にそうなのだろうか?

なぜなら、今の私は、今までの自分の生においての邂逅により在り、幼い頃から、大人になっても未だ持ち続け手放すことができない私の「間」は、邂逅の連環を生みだすためのものだったのだと今ようやく思えるようになったからだ。


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