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ポルクライクってなあに?

ひとつ前のイタい投稿でお伝えしましたお遍路小説は、二ヶ月書いてまだ六日目という気の遠くなりそうな途中経過ですので、今日は別の取り留めのない話をしましょうか。

「ポルクライク」という言葉をご存知でしょうか?
2022年1月29日時点では、ググってもあんまり出てきません。

なので一旦「ポルクライク」は置いておいて…… 。

話は変わって、カレーってなあに?
と問われたら、人それぞれ その人なりに頭の中にカレー像が浮かんでくるんじゃないか、と思います。
でも、厳密な定義はありません。
・どのスパイスを何種類くらい使ったらカレーなのか?
・そもそもスパイスって何なのか?
・具は何を入れたらカレーなのか?
・煮込むのか?炒めるのか?それとも?
・カレーとは調理法のことなのか?
・カレーとは料理名なのか?
・インド(ネパール・パキスタン・スリランカ・タイ・等々)料理のそれはカレーなのか?
etc
これらの問いの一つに対しても全部に対しても正解はありません。
正解が決まると、それ以外は不正解ということになりますが、正解はありませんので、不正解もありません。
だから、たとえば「コーヒーはカレーの一種だ!」と言い張ることは理論上は可能です。
理論上の可能性と共通認識にしてもらえる妥当性はまた別物です。
私が生きている世界はそういう世界です。
だから、人によっては、もしかしたらあなたも「カレーなんて存在しない」と主張する人もいたりします。その主張にも正解/不正解はありません。そう主張する事もそう主張する人も良いとも悪いとも私は思いません。
否。強いて言えば、同調はできないけど素敵な主張だとは思います。さらに言えば、そう主張する人に興味すら湧くかもしれません。
だけど、私の中には確かに「カレー」が存在しますし、願わくばあなたの中にも「カレー」が存在していて欲しいと思います。
確かに存在しつつも「カレー」はいつも揺れています。私の中のカレーも揺れていますし、多くの他人の中のカレーも揺れているように私には見えます。
幽霊のようで幽霊ではありません。幽霊の幽霊らしさは実体が無いからこそ幽霊的であり得るのに対して、カレーは実体があるとも言えるし無いとも言えそうです。その点でもカレーは揺れています。

この投稿を書き始めた時の目論見通り、取り留めのない話になってきました。
まだまだ取り留めなく揺れましょう。

「コーヒーはカレーの一種だ!」という主張を例に挙げましたが、そもそもコーヒーってなあに?
・木のこと
・実のこと
・生豆のこと
・焙煎豆のこと
・淹れた液体のこと
etc
これら全部コーヒーだと言うのが妥当な気が私はしますが、一般的にはどうなんでしょう?
おっと…… 主語が大きくなり過ぎました。あなたはどうお考えでしょうか?
聞いておいてすいません。返答は不要です。
コーヒーについては、コーヒーとは何なのか? という以外に私にとってもっと興味深い点があります。
コーヒーが植物から飲み物になるまでの工程もさることながら、コーヒーが今の淹れ方や飲み方に定着するようになるまでの歴史的な流れです。
木が育ち、実がなり、種を取り出し、洗ったり、乾燥させ、運び、焙煎し、挽いて、淹れて、飲む、こんなにも しち面倒臭い方法が世界的に定着してるというのが、なんだかものすごいことのように思えてなりません。
コーヒーの実を初めて見た人が「液体にして飲もう!」とゴールを決めていたはずもなく。仮にそう決めていたら、それはそれでなんだかものすごいし…… 。
途方もない可能性の中から取り留めなく試行錯誤されて地球に定着しているように思えませんか。
私はそう思えてなりませんし、そう思うとなんだか意欲が湧いてきます。
その意欲はどこに向かうのか? 何の役に立つのか? わかりません。
その取り留めなさこそ、初期のコーヒーの実と同じ類の可能性を秘めている気がします。
こんな話もまた取り留めない…… 。

ちなみに、「取(り)留め」を辞書で引くと
はっきりしたまとまり。それと定めた目的。「―のない話」
と出てきます。

いいですね。取り留めないですね。
せっかく取り留めのない話なので、取り留めないままで、もうちょっと続けましょう。

カレー(仮にカレーというものが存在することにして)に使われるスパイス(仮にスパイスというものが存在することにして)もまた しち面倒臭い方法で世界に定着しています。
スパイスは植物の一部を乾燥させたりして使うわけですが、クミンやカルダモンやブラックペッパーのように種を使うのはもちろん、ターメリックは根(正確には地下茎)、シナモンは樹皮、ナツメグは仁(種子を割った中の部分)、サフランは雌しべ、クローブは開花直前のつぼみ、等々、です。
ここまで読んでくださって取り留めなさに慣れているあなたはもうわかりますよね。
そう。
なんだかものすごいです。
なんだかものすごく取り留めないんです。
スパイスがそもそもこうなのだから、それをさらにこねくりまわして作られるカレーは揺れて当然なのかもしれません。

取り留めない話もここまでくると取り留めのないこと自体が取り留め(はっきりしたまとまり。それと定めた目的。)になってきそうです。

そして一旦は置いておいた「ポルクライク」がそろそろ戻ってくる頃です。

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この写真に三つ並んで写っている物は何だかわかりますか?
そう。だいたい石です。
だけど写っているのは石だけではありません。
暗くてわからないと思いますが、後ろにテレビがあります。
台の上に木製のコースター的な物を敷いて、その上に石を並べてあります。
でも、それだけでもありません。
実は、右の二つは石ですが、一番左の球体は軟式テニスボールなんです。
どちらも自然にもまれて風化した物です。

言葉で形容してもあまり意味が無いというか形容し尽くせない、だからこそオブジェはオブジェなわけです。そんな何とも言えない素敵な存在感で我が家に並んでいるの様子はとても美しいです。
部屋に入る自然光もあいまって天体のように見えたので思わず写真を撮りました。
何だかわからなくても、なんだか良い写真だと自分で思います。
あなたがどう思うかは私にはコントロールできません。
とはいえ、だからどうした? という突っ込みは無しでお願いします。
だって、取り留めのない話ですから。

そしてそして。いよいよ「ポルクライク」が戻ってきます。
この軟式テニスボールはPOLKUというオブジェ屋さんで買った物なんです。
POLKUと書いてポルクと読みます。
上の文字中にリンクを貼りましたが、通販ではなく実店舗というか展示会で実物に触れて買いました。
会場で置いてあった時は↓こんな感じです。

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よーく見ると空気穴があるものの、球体の石にしか見えませんでした。
だから石だと思い込んで触れて感触と重さを知覚した瞬間の驚きたるや、言葉では表せません。
言葉で表せなくても困るような事でもありません。
だけど、オブジェはそれでいいし、それがいい。
「それでいい」こそがいい。

この軟式テニスボールが作られて、POLKUの店主の大平さんが入手して、我が家にやってきて、石と並んでしっくりきた経緯や様子がなんだかものすごいです。
取り留めないけど、なんだかものすごい。
そう。
カレーやスパイスやコーヒーと同じく、なんだかものすごい。

POLKUの店主の大平さんは、オブジェの取り留めないかもしれない魅力を少しでも言葉で表現しようと努力している人物です。
まだ一度しか会って話したことないので、違う側面もあるかもしれません。
だけど初対面の割にはかなりじっくりたっぷり話し込んだので、それこそ取り留めなく話し込んだので、私はそう感じました。
大平さんにとって 世の中に溢れるたくさんの物のうち どんな物がオブジェたり得て、どんな物は単なるゴミなのか? 話の流れで、そんなような話になった時の言葉が印象的でした。

「僕の中で折り合いをつけている」

時間(経年劣化や風化)や他人の手入れや解釈によって様々に変わり得る物事で世界はできています。
そんな様々で取り留めのない物事が自分の手元にある間だけでも、暫定的だったりカッコ仮だとしても、折り合いをつけようとする姿勢。大平さんの態度がそういう姿勢からくるものなのだろう、そう私は思いました。

「ご自宅でのオブジェの様子を"ポルクライク"を付けて投稿してください。」
大平さんはそうとも言ってました。
きっと、自分の手元から離れたオブジェがどう変わり得たのかを見届けたいという純粋な欲求みたいのがあるのだと思います。
その欲求が満たされた先に何があるのか? これまたわかりません。
取り留めないからこそ、豊かな可能性が残っているに違いない、私はそう信じてやみません。

「ポルクライク」は大平さんのオブジェの物語に過ぎないのかもしれません。
だけど、取り留めなく変わりゆく物事に折り合いをつけるポルクライク的な態度がもたらす色々な物語が今日も世界中に転がっていることを想像すると、なんだかものすごい。

というわけで、「ポルクライク」とは何なのか? 私にもわかりません。
ということ自体がポルクライクなのかもしれません。

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