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こうして私はアーティストになった(中盤:るろうに転職編)

進路についてお話する機会が増えたということで、サンプルケースとして私がアーティストから今のxRデザイナーになるまでの奮闘記をメモしてみることにしました。
中盤は数回の転職を経て今の会社に至るまでをお話させて頂きます。これだけの行き当たりばったりな転職をしても、今私は生きています。

前半の学生時代はこちらです。

就職か、進学か。

IAMASのみんなが就職を考えたり元の職場へ戻る算段をつけ始め、私もどうするか迷います(IAMASは学生の年齢層が日本一バラバラな大学だと思っています。社会人入学も昔から普通にある)。大学教員になることは決めていましたが、論文?学会発表?テクノロジーを生み出すわけではない、哲学・人文系のように思索を深めてテキストに落とし込むのでもない。作品を作るだけの芸術制作系に何ができるでしょう。先生も学生たちも全世界を飛び回って作品発表をした経験はあります。

仲間のおかげで受賞歴や発表歴こそ経歴に書けるものの、論文や学会発表の経験はゼロ。後に判明しますが、芸大に就職する以外は受賞歴と発表歴はほぼ無意味でした。一般の方でも多少耳にしたことのある大きな賞だったりTwitterでバズるようなスターアーティストでない限り、論文や学会発表よりウエイトがかなり下になります。しかも調べたところ、研究室に恵まれ学部時代から国際学会に出しているようなガチ工学部の方々と競り合う可能性があるため、制作一筋で来た作家はまず教員になれないということを理解しました。

では諦めて就職する?もしくは先輩方みたいに会社をつくる?
小さい頃から大学の先生たちに囲まれて育った私は「会社」という世間を全く知りませんでした。学部含めた同期から話は聞いているものの、自分が会社員として働くイメージが全くわかない。しかも就活するなら会社に合わせたスキルアップを今以上にしなくてはいけない。それも怠っていた。
詰んだ。本気でそう思いました。

しかしそこでまたチャンスがやってきます。
仲間が所属する大学から助手の求人が来たのです。学生さんのサポートが中心だったことから、芸術系大学なら何とかなるかもしれない。非常勤講師をやるにしろ教育経験は必要だから、ひとまず応募してみよう。仲間の大学で何度も行き来してるし、専攻こそ違うものの庭みたいなものだから。と強引に自分を奮い立たせて面接に臨みます。結果採用。初めての大学スタッフ生活が始まります。

またこの時期に学内でデザインの仕事をするうち、アートと距離を置くようになります。違う視点からアートを見ることができるようになった私は同時に北の地方のある大学の通信教育を受け、サイエンスコミュニケーターとしての勉学に励むことにもなりました。

スタッフもつらいよ。でも学生さんはもっとつらい。

いちばん下っ端というのはどの状況でもしんどいものです。雑用に次ぐ雑用。それも学生さんのためになっているからやれていたものの、夜には疲れて自分の制作どころではありません。休日は本を読んでゲームして、ひたすら寝る日々。知識を蓄えることはできたものの、制作は何もできません。ストレスから睡眠が浅いので、1日中ひたすら眠い。このころにはIAMASで出会った仲間たちは自分の道を進み始めていて、全国を飛び回っていた制作グループはある島での演奏を最後に自然解散となってしまいました。

2度プロポーズされ結婚という道もありましたが、一度目は自死による死別。二度目は外部からの妨害に遭い結婚に夢を持たなくなります。結婚は当人同士の問題ではなくお互いの家族の問題だ、ということがよく分かった一件でした。死別したときのことはよく記憶にありません。普段穏やかな私がまわりが驚くほどに取り乱していたらしいことだけは覚えています。

芸術系の学生さんも様々な悩みを抱えています。インターンで自分がやったことのない分野の課題が出て、慌てて相談に来てくれる方。機材を使いたいけどやり方が分からないという方などなど…そこである日、私がたった1年で大学を去ることを決めた決定的な出来事が起こります。

ある日、泣いている学生さんがいました。事情を聞いたところ、他の学生さんと卒業制作のアイデアが被ったとのこと。偶然かパクりパクられかどうかまではあえて聞かず。また先生とのソリが合わないなど、様々な理由で病んでいく学生さんを見送るしかありませんでした。私はそんな彼女たちに何もできない。それが悔しくて悲しい。先生たちも言葉をかけるくらいしかできませんでした。
この経験から作家引退後はクリエイターやエンジニア専門の臨床心理士になろうと決意し、後に通信で単位を取るようになります。

大学退職後、フリーのキュレーターの道へ。

いつか大学に戻るときが来るとしても、今の私は病んでいく学生さんに何もできない。さて先をどうしようかと思っていたところに、山口YCAMのインターンのお知らせが届きます。

大学院時代は先人の知恵があるとはいえ自己流でマネジメントしてたし、ここで公的機関のマネジメントを学ぶのもいいかと思い応募しました。たった3ヶ月の山口暮らしでしたが、アーティストさんと共同制作するためのラボやアートフェスのお手伝いなど、様々な現場体験をさせて頂きました。YCAMに就職することも考えたのですが、3ヶ月暮らしてみて、ハンズや大型書店が近郊にない生活は無理という結論を出しました。

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山口から帰ってきて、さてどうするかなと思っていたところ、大学時代の戦友から朗報が届きます。芸術祭に自分の会社も貢献したいから、格安で1年空き部屋貸すけど何かしない?とのこと。
快諾した私はインターンで知り合った東海圏の仲間と小さなアートギャラリーを開きます。下はカフェとマッサージ店。完璧な布陣。様々な研究者さん・アーティストさんのトークイベントやワークショップも、このとき何度か行いました。

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トークやワークショップを芸術祭の事業として申請するなど、IAMAS以降久しぶりに書類仕事に追われることになります。疲れたら下のカフェでぼーっとする。最高の制作環境で、営業終了後に作品を制作する気力が出てきました。結果いくつか受賞することができ、ある先生方から非常勤講師のお誘いを受けます。

流れ流れて二足の先生業。

戦友との賃貸契約が終わって出て行くことになった私は、起業したいという仲間たちを手伝って子供向けの造形教室を開きます。大学生と子供たち対象の先生業、二足のわらじなんだか分からないそれが軌道に乗り、地域で認知され始めたころ「本当にこれを一生の職業にしたいの?」という疑問がふと浮かんでしまいました。
子供たちに教えるのは楽しい。未来があるキラキラした目にこちらも元気が出ました。でも本当にこれを一生やっていきたいのか?に対して素直に「うん」と言えない自分がいました。

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東京で着実にクリエイターやプランナーとしてキャリアを重ねる友人たち。私が訪ねると「今こういうことやってるんだよ!」と先端技術を使った興味深いコンテンツについて教えてくれる方々。本来の私は新しモノ好きではなかったか?大学院の日々を思い出せ。先端テクノロジーでみんなと妥協しないモノ創りをしていた私はどこへ行った?
その迷いを読み取った(のかもしれない)ある友人が、私を東京へ誘ってくれました。それがxRデザイナーへと道を進める、第一歩となったのです。

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