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アンテナを高く張り巡らせて

 夏休みが終わりに近づいたある日曜日、私は小学4年生の娘と一緒に「アルプスの少女ハイジ」を見ていた。
 私は童心にもどってハイジになりきった。
 山羊たちと草の上を走り回り、家の外の流水で顔を洗い、おじいさんがあぶってくれたトロトロの山羊のチーズを黒パンに乗せて食べた。ハイジの物語を追体験していった。

 そうしているうちに、今まで忘れていた子供の時に感じていた気持ちが、ふいによみがえることになった。


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 幽霊騒動の回だった。
私は作品の細かい部分を覚えていなかった。ざっくり『ハイジはアルムが恋しいあまり夢遊病になってしまい、それで奉公を許されて帰れるようになる。良かったね。』と、記憶していた。

でも、違った。

 クララのお医者さんは優しくベッドサイドでハイジに語りかける。
「眠っている時に、昼間のようなはっきりとした夢を見るのではないかい?」
ハイジは答える。
「いつも山の夢を見るの。もみの木があって山羊たちが沢山いて、山が燃えているの。おじいさんに会いたくて会いたくておじいさんを探すの。でも目が覚めるとフランクフルトにいるの」

クララの主治医と父は、ことの重大性に気がついて、ハイジをアルムに帰すことにする。でも、帰ってもよいと伝えてもハイジは暗い目のままで、喜ばないのだ。私はこのシーンを驚きを持って見た。

「だめよ。クララが寂しくなっちゃうわ。一緒にお勉強する人がいなくなってしまうでしょ。」

 アルムに帰りたくて帰りたくて、夢にまで見ているのに、大切なお友達を一人にしたくない。寂しがらせたくない。心の中に広がっているアルムの山の景色を、目の前にいる人に悟られてはならない。

私はこの回を見ていて、ハイジの焦げ付くような山への想いとおじいさんに会いたい気持ちが、洪水のように流れ込んできて胸がいっぱいになった。そしてクララを苦しめたくないというハイジの友を思いやる気持ち、その苦しみと葛藤も手に取るように伝わってきた。

その瞬間。思い出した。

苦しかったことが私にもあった。


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 私が小学4年生の時、クラスは荒れていた。

 女子は二つに派閥が分かれていた。大人に反目することに「目覚め始めた一派」と「そうではない一派」に。グループ間の移動は一切できなかった。クラスにはさらに別の問題もあって、リーダー性のあるちょっとアウトローっぽい男の子が中心となって、定年間際の男性の担任といがみ合っていた。
私は、低学年からずっと仲良くしてきた大好きな友達が地味な方のグループにいたので、本当はそっちにいたかった。でも、勉強ができるだけではカッコ悪いという新しい視点に迎合して大人反目グループに属していた。

 それが苦しかった。

そのグループは教科書をわざと忘れていったりするのだ。
体育の時に準備運動に参加してはいけないし。
そのシラけた空気を、男子のリーダーにアピールして「どうよ」って見せつけてる感じもあった。

 私はもう途中から馬鹿馬鹿しくなっていて、これまでみたいに勉強も体育も思う存分やりたくなった。話したい友人とグループを超えて好きなだけ話したくなった。でも強烈に禁じられていた。

 大人反目グループの中心人物、りおちゃん(仮名)は私に目をかけていた。まあまあ勉強ができる私をグループに入れておくことでクラス内の勢力図が安定すると思っていたのではないだろうか。お揃いの鉛筆キャップやお揃いの消しゴムを使うことを強いられた。りおちゃんはことあるごとに私のそばに立って「あんた、だんだんカッコ良くなってきたよ」って言ってくれた。だから私は、宿題をわざとせず、忘れ物をし、体育をサボり、派手なハンカチを使った。

 りおちゃんをガッカリさせたくなかったから。

 りおちゃんは綺麗な子だった。きゃしゃで線が細い。私なんか横顔しか見られないくらいりおちゃんの瞳には力が宿っていた。家庭環境に少し問題がある子だった。おそらく、早く大人になるしかなかったのだろう。大人に期待しすぎてはいけないし、何かを一生懸命にやったとしてもそれが報いにつながらないことをよく知っている子だったと思う。だから、りおちゃんのために私は自分が本当にしたいことに蓋をした。心にもないことばかりやっていた。

 私は、夏休みがきたとき、心底ほっとした。朝早く起きてラジオ体操を思い切りキビキビとやって、宿題も精力的にやった。青と黒と白のストライプのカバーがついた消しゴムは、地味な柄だけど、よく消えた。スイカを食べてプールで泳いで真っ黒に日焼けした。楽しかった。自分がやりたいように過ごせる日々が。でも、お盆が過ぎると、どんどん暗くなっていった。心がどんどん苦しくなっていった。また、あのいい香りの消えない消しゴムを使わなければならない。お揃いだから。

 夏休みの最後の日、お風呂で、私は
「あー、この後寝たらもう、学校へ行く日が来てしまう」
とそのことばかり考えていた。妹たちが先に上がって、お母さんと二人きりになった時に、お母さんが言った。
「あなた、いつも、そんな顔してお風呂に入ってるの?」
湯船のお水に電灯の光が跳ね返ってキラキラととても綺麗だったことを覚えている。お母さんの鎖骨にたまった水滴の大きなつぶも。
私は、絞り出すように泣いた。泣きながら心の中のもやもやを全部吐き出した。その後のことは実はあんまり覚えていない。

おそらく、安心したんだと思う。学校での問題行動の裏にこうしたいという欲求が隠れている。それをお母さんがわかってくれている。それだけで乗り越えていける気がしたのではないか。クラスの状況が何も変わらなくても。


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 誰も悪い人なんていないのかも知れない。

 ただ自分の人生を生きている。

 クララは、大好きな父やおばあさんと離れてだだっ広い屋敷に一人で暮らしていて、寂しい。デーテおばさんは、姪のハイジに教育の機会を与え、衣食住に困らない暮らしをさせてあげたかった。ロッテンマイヤーさんはハイジがアルムの話をするとクララが不安になるため、ハイジに山のことを話さないようにと禁じた。ロッテンマイヤーさんはクララがハイジといると楽しそうなのを知っているから、クララを大切に思っているから、そうした。クララの父は多忙で娘のそばにいられないので、娘のそばに誰かに代わりにいて欲しかった。

 私の当時の担任は、私たちとうまくいってなかった。私たちは一つ前の学年まではお母さんみたいな女性の先生が担任だった。初めての男性の担任だった。しかもおじさんの。だから私たちは戸惑ったのだ。きっと先生も試行錯誤していた(今思うとお習字が上手な、漢字に造詣が深い、穏やかな先生だった)。
りおちゃんは、周りよりも早く大人になってしまっていた。クラスの同じ景色を見ていても、感じ取ってしまう情報量が段違いだった。周りよりもいろんなことを分かっていて、分かっているからあんな振る舞いをしていた。
私のお母さんは、フルタイムワーキングマザーでしかも農業もやっていて子供が3人もいて毎日毎日座る暇もないくらいしゃかりきに動いていた。だから、やっと夏休み最後の日に始業式に向けてお風呂に一緒に入ってくれて隅々まで綺麗にしてくれようとしていた。

 皆、ただ自分の人生を生きている。

 ハイジも私も、気がついていなかった。
 自分が悩んでいることにすら。
 ただただ苦しかった。呼吸がしづらかった。

 もうすぐ8月31日がくる。

 ハイジにとってのゼーゼマンさんやお医者さん、私にとってのお母さんのように、その子の心の中に充満していて取り出せない苦しい気持ちに気が付いてくれる人。その存在がとても大事だ。

 よく見て。
 よく聞いて。

 大人から見たら、一見、問題がないように過ごしているのかもしれない。

 心のアンテナを高く張り巡らせて。

 本人も気がついていないのかもしれない。

 誰も悪い人なんていないのかもしれない。


 私は、思い込みを捨てて、大切な人を観察しようと思った。


ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。