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This is me !


まるでイエローの絨毯みたいに、菜の花が一面に咲く場所に出かけた。太陽からおくられてくる日差しがふんわりとやさしく花の上に降り注いでいる。発光するかのようにビビッドなイエローの花達が春の喜びに溢れて咲きほこっている。

娘のハトちゃんは、キャーっと声をあげ喜んで走って行った。花と花の間の土の道を駆け抜け、だんだんと遠ざかりながら、

「おかあさーん!
ここ、ミニオンがいっぱいいるみたいぃぃー!」

と、歌うように言った。
私は思わず、口に手を当てた。
「ハトちゃん!
それ素敵・・・。」
私には、その発想はないなあ。

辺りは、はちみつのような黄金の光で溢れていた。菜の花の色と太陽の光が乱反射して、頭の中は大変なことになった。
「あぁ太陽がいっぱいだ。」


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このエッセイは、私がいかにへっぽこであるか、という話となる。今日は、本当の声を響かせたい。


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私は『完全無欠のつよいお母さん』でいたかった。
自分がこどもの時、私の母は万能な存在だったから。思い出の母は、いつも何かの家事をやっていた。休むことなく体を動かしていた。でも、必死さを滲ませない人だった。バッタバタでしゃかりきにこなしていただろうに、心の中の暴風雨を微塵も周囲に感じさせなかった。フルタイムで仕事をしながら、核家族で三姉妹を育て、農業と地域活動とPTAとありとあらゆる役員をこなしていた。
そんな『完全無欠のつよいお母さん』になりたかった。

私は、母親になりはしたけれど、へっぽこすぎて全くつよくない。
一人娘のハトちゃんをどう育てたら良いのか、いつも考え込んでいる。何かがあるたびに動揺して涙が出てくる。9歳のハトちゃんには識字の障害がある。小さな頃から沢山の支援を受けてきて、今やっとひらがな、カタカナ、画数が少ない簡単な漢字は読めるようになってきた。

でも、一向に文章を紡ぎださない。

文章を読むのも、書くのも時間がかかる。たった五行くらいの詩を読んでも分からないと言う。定型発達の「私たち」は、読んだ文章が言葉として頭に入り、像を結んで意味をなしていく。しかし、ハトちゃんが声を出して文章を読んでも、その文はただの文字の羅列らしい。バラバラのままの文字のかけら。

私たち親子は、読み書きトレーニングを日課としてずっと続けている。でも、この冬、日課が日課ではなくなっていた。週一くらいに減ったこともある。なぜなら、親子でこれまでになく衝突を繰り返していたからだ。

本人は、何となく続けてきたトレーニング。
この冬、ハトちゃんはどうやら、自分が「分かっていないこと」に気がつき始めたようだった。

書きたい書きたい。
上手くなりたい。
やりとげたい。
でも出来ない。

癇癪を起こしてぶつぶつ言いながらプリントをぐちゃぐちゃにする娘を前に、平常心を保つのは難しかった。

「じゃあ、今度はこういう風にやってみようか」と優しい声を出しながら、本当はハトちゃんと一緒にプリントをビリビリに破ってギャーっと大声で叫びながら玄関から走り出て行きたいと思っていた。ハトちゃんは眠くなっちゃって、私は頭痛がしてきて、二人とも機嫌が悪くなってゆく。目標とする理想の場所は遠くて遠くて、いま目の前に写る現実はなんと暗澹としていてみじめなのだろう。

「トレーニング、やらなくて良いよ」とは言えない。

生きるために。

町の看板とかタブレット端末の表示とかを読むことができたら、世界が広がるから。

私は親として、広いところにそして遠いところに行って欲しかったのだ。

発達障害の教育に造詣が深く、粘り強く取り組む気概を持つ親御さんからは、「そうじゃない!」とお叱りを受けるだろう。スモールステップで成功体験を重ねながら、楽しく成長させること。それは、どんな療育の現場でも指導者が口にする重要な心構えである。分かっている。やってみてる。でも、一向に楽しくはならない。


「育てていると辛い」


ハトちゃんと激しく衝突した日の夜、気がついたら、みっともないほど泣きながら夫に告白していた。そんなことを告白する自分も嫌でますます泣いた。私は言った。定型発達の子どもとの歴然とした差異を見せつけられると、焦りで心がいっぱいになって苦しい。比べたらいけないのは分かってるけれど、比べることを止められない自分がいて、苦しい。と、鼻水を垂らしながら訴えた。

もはや『完全無欠のつよいお母さん』ではいられなかった。心の中の暴風雨は外に出てきてしまった。


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夫はハーゲンダッツのラムレーズンを食べながらゆっくりと言った。

「辛く感じててもいいよ。そのままで。」

夫は車を停めているところへ私を連れて行った。運転席のドアを開けて、日差し避けのサンバイザーをおろす。サンバイザーを覗き込むと、大きく引き伸ばしたハトちゃんの写真が貼ってあった。保育園の制服を着てにっこりと笑う幼い娘。

「これ、診断がついた頃のハトちゃんの写真なんだ。
今でも運転しながら、ときどき俺、涙が出てくる。」

あぁ、この人も親なのだ。夫もおそらく、答えを見つけていないし、何も乗り越えていない。私たちは、そっと手を繋いで、しばらくそこに立っていた。

部屋に戻り、残りのラムレーズンアイスを食べた後、夫は一つの動画を紹介してくれた。「おやすみ。早めに寝な。」


2018年公開の映画『グレイテスト・ショーマン』の劇中歌 " This Is Me "   Pasek and Paul


映画版の方ではなく、映画製作が決定していない段階で、歌手のキアラがはじめて生歌を披露するワークショップ・セッションの様子を撮ったものだった。

キアラは歌い始めの時、声はか細く自信なさげで、マイクスタンドの後ろ側、部屋の隅にいる。歌がすすむにつれて、歌詞に励まされるように部屋の中心に出て行き、大きなアクションで大きな声量で歌い上げる。一人の人間が恐れを克服する瞬間をおさめた映像だと思った。


私もこうでありたい。
自分を愛し、自分に自信を持つ。
それが、どんなに大事なことか。


そして、なぜか私はこの歌をハトちゃんが歌っているかのように感じていた。

これが私!

これが私!

これが私!

と何度も訴えてきているような気がしたのだ。
視界が涙で見えない。嗚咽がもれた。ハトちゃんの寝ている部屋に目を向けて、ひとしきり泣いた。

毎日のトレーニングを頑張っていたハトちゃん。
そんなハトちゃんに私は無情にも言う。

なんでやんないの
なんで出来ないの
なんでいつも機嫌が悪くなるの

ハトちゃんが絞り出すように言った答えは

分からなくて
問題を解こうとしているけど
苦しくて心が真っ黒になるの
書きたい書きたい
上手になりたい
やりとげたい
でも出来ない

癇癪を起こす娘。「だから〜!」「だ・か・ら、」
口癖かと思っていた。それに触発されてさらに語気を強める私。「なんで」分からないの、と問い詰めていた。何度も。

それに対するアンサーだったのだ。
「だから!」
いつだって母の問いに彼女は答えようとしていた。

トレーニング、彼女も苦しいんだ!

私だけが苦しいと思っていた。あぁ、なんて分かってなかったのだろう。ハトちゃんは、今できうるベストを尽くしているのに。


夫に渡された動画によって、その夜、私は新しい自分を探し始めた。
夜を、駆けた。


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いかに私がへっぽこお母さんか、ありのままを書いてみた。解決策や答えはまったくない。
本当の声を響かせたかった。
そして、
それが私だと言いたくなったのだ。


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まるでイエローの絨毯みたいに、菜の花が一面に咲く場所に出かけた。太陽からおくられてくる日差しがふんわりとやさしく花の上に降り注いでいる。発光するかのようにビビッドなイエローの花達が春の喜びに溢れて咲きほこっている。

世界は楽しくて美しくてキラキラに溢れている。ハトちゃんは、充分に感じていて、感動を私に伝えてくれる。世界に無数に存在するキラキラを取り出して、これだよ!って小さな手のひらにのせて見せてくれる。

辺りは、はちみつのような黄金の光で溢れていた。菜の花の色と太陽の光が乱反射して、頭の中は大変なことになった。
「あぁ太陽がいっぱいだ。」





【注】娘の呼び名は仮名です。





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