禁断の果実

「知識」という名の「禁断の果実」

さーて本日は、最近長年の呪縛が解けたかのごとく「発信」することができるようになった、きっかけをシェア!



発信するのは、ばかばかしい

というか、「発信するのは、恥ずかしい」に近い感情を持っていた。

中学生の頃までは、世間なんかに目もくれず生きてきた分、良くも悪くも、無知であり、恥を知らなかった。だからどんな行動も発言も、自由にできた。



知識という名の禁断の果実

しかし、高校になって勉強というものにのめり込んだことをきっかけに、世間に目を向けるようになった。アダムとイヴが「禁断の果実」に手を出し「裸を恥ずかしい」と認識したときのように、

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アダムとイヴは生まれたままの姿で幸せに過ごしていた。創世記では、禁断の果実とは、善悪の知識の木の果実を指す。エデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、イヴはヘビにそそのかされてこの実を食べ、アダムにも分け与える。この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、恥じらいや猜疑心、怒り、嫉妬、悲しみなど様々な感情が芽生えはじめ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。

そう、わたしは「知識」という名の「禁断の果実」に手を出したのだ。「知識」は、わたしにとってとても恐ろしいものだった。なぜかと言うと「学べば学ぶほど、わからないを増やす」ように感じさせるからだ。つまり「知識を得ることで、自分の無知を認識する」ようになった。



新しい考え方なんてない

いろんな、ヒト、モノ、コトに触れ合って、経験を経ていくうちに「具体化された事象は、抽象化 / 一般化することができる。また、抽象化 / 一般化された事象は、具体化することができる。」という考え方に至る。

そうして、そんな考え方を持ったまま、人の話を聞くと、

「ああ、つまりシンプル・イズ・ベストってことね」「ああ、つまり多角的に物事を捉えることが大切なのね」「ああ、つまり俯瞰的にものごとを見る力が求められてるってことね」「ああ、短期と長期どちらからも考える必要があるのね」「ああ、つまり細分化していくと問題が見つかるのね」「ああ、つまり深堀りすることが重要なのね」

と、こんな具合に、どんな人に、どんな話を聞いても、言っていることが、なんとなく同じで「もうそんなの知ってるよ」と感じるようになった。

つまり「新しい考え方なんてない」と。「みんな、先人たちの考え方や言葉を借りて、それを我が物顔のように発信してる」と。そう思い込んでしまっていた、当時のわたしにとって、その行為は、かっこ悪く見えた。



思い込みの魔術

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さらに、わたしを発信しない人へと引きずり込んだのは「自分の当たり前を人の当たり前」だと思いこむ魔術「主観の先行」だ。

わたしは、とにかく勉強してこなかった。その分、たくさん他の経験をしたから、他の人とは違うベクトルが伸びてるから、「自信を持って大丈夫」と思って過ごしていた。

しかし、大学という、わたしがあまり関わってこなかった知識をたくさん持った人たちが多くいる、そんな中で生活していると、やはり、知識ついては、かなり不足していると感じている。そうした考えから、導き出された答えは「わたしが知ってることは、みんな既に知っている」ということ。

わたしの経験を小手先の知識や教養でまとめた話なんて、「新しくない」「先人の真似をしてるだけ」だし「みんな既に知ってる」、だから、わたしが発信する価値はないと。

そして公の場で、残る場で、自分の考えを発信することが、恥ずかしくなり、億劫になり、発信することを避けるようになった。



「あなたの言葉だから伝わる人がいる」

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そんな風にここ数年、思い込みの魔術にかかって、発信しない人になっていたわたしだった。しかし先日、すがけんさんが主催する「20代マーケピザ」にお誘いいただき、参加したことが、転機となり、呪縛から開放されたのだ。

20代マーケピザとは(わたし調べわたしの主観): すがけんさんこと、菅原 健一さんが主催している、ピザを食べながら、すがけんさんを中心にして、参加者が、相談や質問等をし、そこから生まれる対話を通して、考えを整理できる会。転機、きっかけをくれる会。自分も与える人になれると感じさせてくれる会。

そこで上記の考えをさらっと伝えた上で「どうして発信できるのですか?」と質問した。

すると、すがけんさんは「あなたの言葉だから伝わる人がいるよ」と。

ハッとさせられた。自分の中にあったもやもやが、霧が、晴れたかのように。自分の経験を思い返してみて、まさにその通りだったからだ。この言葉の意味を、自分の中に落とし込むために、ふたつの面から深堀りしてみた。


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#1** 時代**

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色のついた四角い部分がその時代ごとの価値観。このように自分の中にある価値観は時代ごとに変遷しているのだ。

中学時代:先生がだいっきらいだった。少し長く生きているからって、偉そうに。って。先生にどれだけ立派で正しそうなことを言われても、わたしの心には届かなかったし、全く動かされなかったし。しかし、ともだちの何気ないひとことは、良くも悪くも、よくわたしの心を突き刺し、わたしを動かした。
高校時代:勉強にハマったわたしは、勉強の道のプロとも呼べる「先生」の言葉がよく刺さった。一方で、中学時代仲良くしていたともだちの言葉が強くわたしの心を動かすことは減った。

と言ったように、"自分がなにに価値をおいているか"そして、それに伴って"誰のことを信用できるか"が変化する。つまり、"時代によって"、誰のどんな言葉がわたしを動かすのかも変わる。


#2** コミュニティ**

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思い込みの魔術にかかっていたときは、「わたしが知ってることは、みんな既に知っている」と思い込んでいた。しかし、それは主観でしかない。この世界には、違うコミュニティに属している人たちたくさんがいる。そのことを再認識し、魔術から開放された現在、わたしが発信することで、違うコミュニティにいる人にとっての「新しい考え方」になるものを伝えることができるのではないか、コミュニティとコミュニテ、人と人の架け橋になれるのではないか。と。


そうやって、すがけんさんにもらった「あなたの言葉だから伝わる人がいるよ」という言葉を「時代」と「コミュニティ」ふたつの面から、自分なりに咀嚼してみると、わたしがいま思っていることや考えていることを発信することは、なにも恥ずかしくないし、自身を持って良いことだ、と考えられるようになった。そうして、呪縛から開放された。

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知識の魔法

「知識」という名の「禁断の果実」に手を出したわたしは「発信する」以外にも、さまざまな影響を受けた。最初に書いたように「知識を得ることで、自分の無知を認識する」ようになったのも確かだ。いまでも、知れば知るほど、知らないことを増やしていくようで、嫌になることもある。しかしそれ以上に得られるものがあるから、これからもわたしは、学び続ける。



あとがき
呪縛からの開放のきっかけを、くださった、すがけんさん、ありがとうございました。慌ただしくて、開催から少し経っちゃったけど、すがけんさん主催の20代マーケピザについては、どうしてもみんなに知ってほしい。から、近々アップする。お楽しみに!

それと、知識によって "それ以上に得たもの"を、改めてかけたら良いな。


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