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丁寧な暮らし、なんて言いたくないけれど。

何もなくても定期的に調子って悪くなるものなんだ、という気付き。今までと違って特に出来事があったわけではなかったから、気づかなかったけど、たぶん調子が悪い。だけど、全然元気です。

悩みはある状態が私の通常運行。なので、悩みの有無は関係ない。以前はこういうとき、抜け出せないトンネルの中だったけど、今はそれを成長痛というか、脱皮というか、変わるべきときなんだろうなと思えるから、全然元気です。もう少しこの状態になってしまうことに気付いていればよかったんだけどね。私は変わっていくから毎回乗り越え方も違う。前回は腹痛になって、食事ができることに感謝できるようになって、元気になってたな。


調子が悪い私

これをちゃんと言語化しておくことって大切。でないと、平常の私が悪い人になったみたいに思ってしまうから、もっと沈んでいきそうになってた。

ざっとあげると
・思ったことを口に出せない
・人の目、言動をやたら気にする
・人に期待しすぎ。いらいらしがち
・ひがみがち。ハッピーなことに喜べない
・承認欲求を求めがち。
・やる気がでない(これは5月病かもしれない)
・生活のいろんなことが適当になりがち
・SNS見がち

これが自己肯定感が低下しているってやつなのだろうか。自己肯定感とかあまり使いたくないんだけど。この悪い状態は昔の私。そういう自分が嫌いだったから直したつもりだったんだけど、定期的にメンテナンスしないと戻ってしまうみたい。

行動の癖付け

問題は思考にあってアウトプットが行動になってしまうから、思考を直そうとしてしまっていたんだけど、それって結構むずい。だから、行動を無理やり変えることにした。

感謝をする。たくさん褒める。喜ぶ。思いついたらしゃべる。SNSから離れる。

それは、『(〜してくれるなんて、こんな自分を大切にしてくれて)ありがとう。』と考えて、この言葉を発するようにしたら、『自己肯定感』なんて爆上がりしそうだなってこと。
結局、『自分を大切にする』ってことが、結構目に見えたり、直接感じられたりするもんじゃないから、それってどういうことなん?って、悩んだり、掴み所がなく感じられるんであって、『ありがとう』って言葉を起点にして、そのたびに『(こんな自分を大切にしてくれて)ありがとう。』と、繰り返す。わりと応用が可能な方法だと思う。
ーーー「ありがとうと笑顔、ゴキゲンの先にある未来。」より

そんな今日、手にとった本。

ここ数年、こういう、きれいなお姉さんのちょっとスピリチュアル系の本をあまり読んでこなかった、避けていたんだけど、だからこそ今読むべきなのかもっていう直感で読んでみた。そしたら、響くワードがありすぎた。

「よいことばにいい換える」
「結果を求めず、過程に没頭する」
「自分のまいた種だけ、刈り取ることができる」(=いいことも悪いことも自分に返ってくる)
「自分の応援団になる」(=そしたら他の人を応援することもできる)
「ジャッジしない」
「まちがいを指摘しない」(=他人にいっていることは自分にいっていること)
「きらいな人にヒントあり」(=他人は鏡。自分が反応してしまう人は自分の課題のあらわれ)
「比べるなら過去の自分と」

特に好きだったのは、「比べるなら過去の自分と」。私は人と比較することはそこまでないけれど、あえて過去の自分と比較すると、前に進んでいる感が得られたりもっと前に進みたいってなるなと思った。その変化がプラスであってもマイナスであっても。

もうひとつが「きらいな人にヒントあり」。人を行動と言い換えをするとよりしっくりきた。自分に課しているものを相手に課してしまっていることがよくあって、きらいな行動は自分が「そうしなきゃ」って思っていることだったりする。それを外すと、自分の鎧が外れて呼吸しやすくなるのかも。

逆に、自分がつくる場で(イベントでも普通に遊びにいくときでも)相手にのためのいい時間にしないとってやたら力んでいたけれど、その人は私との時間を選んだ意思があるわけだし、そこまで責任を追わなくていいって思ったら気持ちが楽になった。

本の後半には、「白湯を飲もう」「旬のものを食べよう」「お風呂に毎日入ろう」とかいわゆる丁寧な暮らし系のことが書いてあって、それは現実的に無理だとは思った。し、今の私の課題に直結しているわけではないから、やる気になはらないんだけれど、やると変わったりするのかなってめずらしく思った。けど、ちょっとまだ私にはできなさそう。(結局)とりあえずお風呂掃除と排水口の掃除をして、カーペットをしまって、PCの画面をふいた。

自責と他責

この前、マインドフルネス講座&坊主バーに参加してきた。坊主バーでお坊さんに悩みを相談できたので、「自責と他責ってどうやって切り分ければいいんですか?」と聞いてみた。私は自分の責任でとらえがちなところがあってそれが重くて最近はちょっと他責にすることが増えてきて、それもそれで罪悪感に変換されてしまっていて、悩んでいた。そしたら、「そもそも自責と他責を分ける線はないと考えてみては」と言われた。「ふむふむなるほど・・・」と思ったけど、いま起きている問題で実践できるイメージがわかなかった。人間のレベルが違うのかな。でも最近、寺とか仏教とか割と関心事です。

次の日に、とある人のプレゼンで「まずは他責にする」「それで自分ができることを探す」と聞いて、「これだ!」となった。まずはこちらから始めてみよ。

エピソードトークの無力感

この前、大学のキャリア論で登壇させていただく機会があった。文芸学部ということもあり、私の『書く』と『仕事』のことを中心に、今までのことを話した。

ぽい写真。

前より緊張せずに楽しく話せた。

授業後もらったアンケートに「とやまさんは運がよかったんだと思います。実際に運とかってあるんでしょうか」という感想が書いてあった。確かに私の30分のプレゼンだけ切り取るとそう見えちゃうかもしれないけれど、その時々やっぱり苦しいときはあって。ほとんどは、今までの選択のなにかを後悔したとき。そのときに「後悔したくない!」となって、必死に動いてきた。だから、私は運がよかったのではなく、運をよくしてきたんだと思う。きっとみんな『運をよくする』ことはできるはず、と信じたい。そして、未来の私、めげそうになったら、これを読んでほしい。人は今までの選択がよかったとか正解だったって信じたいと思うから。でも、過程の中にいると、そう思えない気持ちもすごくわかる。

私は運がいいと言ってもらえて、自分の人生に対する満足度があがった。ありがとう。自分があまりいつも行かない場所で、自分のことを話すと満足度高まることが最近ほかにもあって、調子の悪いときはあえてそういう場にいくのもあり。変にそのへんで自慢するより、場所を変えて自分のことを話すほうが健全だね。

直接質問に来た女の子には「私もとやまさんと同じようにひとつのコミュニティにいられなくて、ずっとこのままひとりかもしれないって思ってしまいます」と相談された。本当に私も大学生のときそう思っていたから、痛いほどに気持ちがよくわかった。これも運がよかっただけなのかもしれないけど、私はここ1年でその不安感は少し払拭された。それでもやっぱり孤独感に襲われるし、結局人は孤独なんだということを受け入れているけど。

動いて動いて、好きなところを見つけたら、そこを大切にすること。そこにはきっと自分のことを好きな人もいるから、と彼女にはありったけのエピソードとその時々の感情を合わせて、大丈夫だよと伝えた。だけど、それも私だからであって、伝えるときに何かつっかえるかんじだった。

どうやって伝えたら、信じてもらえて、相手の勇気になるのか、ムズカシイ。

一番大学生に響いていたフレーズは、私が何かを決めるときの判断基準のうちのひとつ『勝手にがんばれちゃうことをやる』。やらなきゃいけないこと(not 仕事)は、基本頑張らなくていいって思うとちょっと気が楽になる。仕事も呼吸するようにできることがベストなんだけど、それはなかなか、ね。

そうやってやることを選んでいても、最近やる気が起きない自分に失望しているんだけど、戻ってくるかな。これが5月病ってやつ?

『何かを決めるときの判断基準』という問い、結構わかりやすくその人の価値観を知れる気がして、最近気に入っている。

まだまだだけどちょっとずつ。人生、取り返しのつかないことはないから。と言い聞かせる。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。