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信じたいものを信じることが難しい。

今、色々考え直している。私って何のために、何をしたくて、どうやって生きていきたいのか。何を恐れているのか。5年後、10年後、30年後どうなっていたいのか、どうやって死にたいか。ずっと避けていた将来のことを考えてみている。だけど、全然答えは見つからない。

あえて、過去に囚われずに、ありとあらゆる選択肢を広げてみた。やったことないことはやってみないとわからないし、割となんでもできちゃう気がしてきて、もっと迷子になった。

ずっといわゆるビジョンがあったから、楽だった。選べる社会にしたい、というもの。選べるというのは選択肢を用意することでもあれば、個人に意思を醸成させるという、2面性がある。そのために、コミュニティをつくったり、地域に興味を持ってプロジェクトをやってみたり、今の仕事についた。それは消えてはいないけれど、最近はそれより自分の可能性を広げたいという気持ちが強くなってきた。これって人生の中で不動のものかと思っていたけれど、メトロノームみたいに揺れ動いていくものなのかもしれないと思う。

仕事においては誰かに求められるという感覚が、私にとってとても大切なようで、めんどくさくないことをいうと、世の中の潮流に乗っかってしまえばいい。今はエンジニアが求められているらしいし、接客・サービス業はこれからも人材不足になっていくらしいし、コピーライティングもAIができるようになったらしい。世の中が求めていることをやれば、社会に要らないって言われないんじゃないか。やっぱり、不要だと言われて、仕事がなくなって、お金がなくなるのが、私は怖い。

1年前くらいからライターというありふれた肩書きが嫌で、私は編集者でライターではないと言い続け、実際に仕事も編集に寄せた。だけど、とやまゆかに貼り付いたライターという肩書きは、はがすことができなかった。もうそれは運命なのかもしれない、もう私はライターであることを認めた方が楽なのかもしれない。

私が信頼している人に、ここに書いたような今の私の仕事観やキャリアに対している違和感を話してみた。口から出てきたのは、編集やライティングは私だけの価値であること、色々な人が私の文章を評価してくれていることだった。私のことを近くで見てくれたインターン先の上司も今の言葉の師匠も、私は文章を書くのが上手いと言ってくれていた。

だけど、私はたまに言葉を扱うことから逃げたくなる。これじゃ伝わらない。全然言葉が思いつかない。その詰まっている感じが嫌いで、なかなか取りかかれないこともある。だけど、つまり、それは私が向き合わないといけないことだからなのかもしれない。だって、周りの人が求めてくれているから。私が作った言葉の集合体が生きていると、感じたときのうれしさが好きだから。やっぱりそれに答えられなかったときのショックは大きい。

世の中の潮流から自分の役割を生み出すのは、虚像の承認欲求な気もする。だけど、他者の言葉を信じるのは仕事においてはいい承認欲求な気がした。ただ、何かあったときにその人たちに責任を転嫁してはいけない。責任をとるのはその言葉を信じた私。人の言葉を信じて、歩みを進めてもいいと思う。

一度だけの人生、どうせなら思い通りに生きてゆきたい。輝きたい。
やっぱり人は「したいことをする」というのが、いちばんだと思うのです。
見つからないときは、ジタバタする。
常に、願望を持ち、それを意識している。
ふたつめは、自分流を持っている、ということ。
最後に、単純である、ということ。物事を難しく考えないこと。シンプルに、そのまま受け入れること。
(中略)
この世の中は、楽しくないことがたくさんあります。だけど、それに負けてるくさってしまうぐらいなら、それさえも楽しんでしまおうって太っ腹な気持ちを持ちましょう。
ーーー「さよなら」が知ってるたくさんのことより

たまにジタバタした私を未来の私が見ると、小っ恥ずかしくなるものこともあるけれど、そのときの私は必死に生きていたんだから。

死ぬこと以外はかすり傷。 私はまだどこかでなにかを恐れている気がするけれど、なんだってドラマになるんだ、いつかは。

ここでいうのもあれなんですが、最近彼氏ができました。といっても、好き&好き=フォールインラブという感じではなく、今のこの関係は『付き合う』というレッテルを貼った方がいいよね、くらいなので、友だちの延長線上みたいな感じです。ま、この話はまた追って。

私は付き合うことが得意ではない。とにかく失うことが怖い。

「始まらない不幸より、終わらない幸せの方が大切なの」

始まらなければ、終わらない。不幸、寂しさ、孤独はやってこない。心の平穏を保つことが一番だから、波立たせることから避けてしまう。幸せに向かう行動に臆病になってしまう。特に恋愛に関しては。

だけど、色々な感情を味わわないと、人に共感できなくなる、想像できなくなる。私は何度も他人と分かり合えたときの感動を味わってきた。ここに書いていることも私が喜怒哀楽という感情を経てきたから書けることで、そこから生まれるつながりは、すごくすごく暖かいもので、時には未来の自分を喜ばせてくれるものでもある。

だから、やっぱり幸せを始めようと思って、失うことを恐れずに、今は付き合うということをしてみている。

今手にしているものと、失ってしまったものと、どちらが価値があるかなんて、どうして決められるのでしょう。
考えてみれば、今あるものすべては、その失ったものによって得たものである、とも言えるはずです。
それらは手から離れていったからこそ、その重さや鮮やかさを、さらに強烈に感じさせてくれることもあるはずです。
ーーー「さよなら」が知ってるたくさんのこと」より

感情は下がったり上がったりするものだから、その下がっている状態をいかに短くして上がっている状態を長く保つかを考えればいいのでは、と友だちに言われたのでやってみようかなと思う。

信じたいことを信じる。簡単なようで、難しいこと。それに実は、信じたいものは心の中で決まっている。私の意思は誰にも殺せない。だったら、偶然と運命ってものを、信じてみてもいいんじゃないか。

ジタバタして、そこで出会ったものが、私の未来で。線香花火のような偶発的な光が、一番綺麗で美しいのかもしれない。

大切な友人に「ゆかは絶対成功するから、そんな生き急がなくていいんじゃない?」と言われた。最近、私の幸せを願ってくれている人がたくさんいることが、わかった。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。