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「プロ倫」に出てくるカルヴァンの二重予定説が頭から離れない

熱量高く何かに打ち込む人に出会うたびに「何がこの人を突き動かしているんだろう」と根源的な動機を考えるクセがある。ひたすら動画を上げ続けるYouTuber、大胆なリスクを取る起業家。同じ社会に生きてても、打ち込めるものは実に多様だ。そして何より貴重だ。では何かに打ち込む動機も多様だろうか?「考え」は人の数ほどあっても、動機のさらに根底にある精神性については一つ大きくまとめられるんじゃないの?という示唆が「カルヴァンの二重予定説」には含まれている。

カルヴァンの二重予定説って?

ここから先は宗教的な話になるけど最終的には宗教から離れるので読み進めてみて欲しい。

宗教革命の時代、カトリック教会はこのように考えていた。

神は、あらかじめ救う人を予定してはいるものの、誰を救わないのかについては、予定していないとされた。その意味で神の予定とは、部分的なものであった。神は、救済するかしないか、あらかじめ決められていない人たちがいるとされた。そのような人たちは、もし現世でよいおこないを積めば、救済される可能性があるとみなされた。神は、慈悲深い心をもっている。だから、よいおこないをすれば、救ってくださるとみなされた。

引用元: 解読 ウェーバー

「救う」とは最後の審判の日に天国に行けて現世の苦労が全て報われるような、とにかく幸せな状態だ。カトリック教会の教義が広まれば、みんな善い行いをして、安定した社会に繋がりそうだ。一方でカルヴァンはこのように考えていた。

カルヴァンにとって、神は「裁く神」であって、「慈悲の神」ではない。神は慈悲の心をもっていない。カルヴァンにおいては、神はあたかも、専制君主のような「隠れたる神」として理解される。「二重予定説」とは、神は誰を救い、誰を救わないのかについて、いずれも決めているという説である。

引用元: 解読 ウェーバー

「いずれも決めている」ということは、いくら善い行いをしようが救われないかもしれない、逆に悪い行いをしてる者も救われるかもしれない。非常に不合理な世界だ。こんなことを言われた日には二度と善い行いをしようと思わず、自暴自棄になるかもしれない。

カルヴァンの二重予定説を受け入れた人たちはその後どうなったか?

実際のところ、信徒たちは自暴自棄にはならなかった。

信徒たちは次のような実践が必要であると考えた。
(1)「自分は神によってすでに選ばれているのだ」という「自己確信」をもつこと。すべての疑惑を退けること。
(2)そのような自己確信を得るためには、たえず職業労働に従事すること。そのようにすれば、「神に選ばれているかどうか」という疑念や不安は解消される。そしてなんらかの職業労働に従事できれば、それが救いの表徴となる。

引用元: 解読 ウェーバー

不合理であったとしても救われたいという思いは捨てられなかったのだ。そしてその不合理さを払拭することが、職業労働に打ち込む強い動機につながっていったのである。そしてウェーバーの「プロ倫」ではこの精神性を持った者たちがビジネスで成功を収めて近代資本主義を成長させたと説明されている。

不合理さを受け入れた者が強い現代との共通点

話を現代に戻そう。努力は報われるとは限らない。不合理な場面は誰にでも降りかかる。そして、この不合理さは素直に受け入れたほうがより一層身が入るという感覚に覚えはないだろうか。引用元の「解読 ウェーバー」では自分は合格するのだという自己確信を抱いて勉強に打ち込む受験生の心理に例えられている。キリスト教的な「救済」の考え方に馴染みがなくてもカルヴァンの二重予定説を信じているかのような精神性を持って何かに打ち込むというのは、ごく身近な発想だ。

誰もが神の存在を信じて疑わなかった時代の宗教的な動機と、現代の我々を突き動かす何かが地続きになっているんだろうか。

この精神性が近代資本主義を育てたと説明されている「解読 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』」もおすすめです。

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