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香りのある風景を残したい。

ベランダで洗濯物を干していると、時々、コーヒーの香りが漂う。

コーヒー豆を焙煎するお店が近くにあって、香ばしく、深く、なんとも渋い香り。

私はコーヒーが好きで、ほぼ毎日4〜5杯飲む。コーヒーの香りは文句なしで好きだ。ベランダから漂うコーヒーの香りは、朝を一段と華やかにしてくれる。普段着に、ちょい高めのイヤリングを付ける感じ。


近所にはパン屋もある。

これまた、パン屋も素敵な香りをまとっている。そばを歩くと、無条件で「あ、パン買わなきゃ」と思い、まんまと店内に入る。

6畳ほどのこじんまりとした店内には、すでにお客さんが2人。テーブルや棚にこれでもかと並ぶパンを目の前に、私も2人にならって迷う。

看板メニューのカレーパン、どこに行っても目がないあんパン、イチゴとブルーベリーたっぷりのデニッシュ、ああ…分厚いたまごサンドも捨てがたい。皆が皆、いい顔でこちらを見ている。

優柔不断な私を「メロンパン焼き立てです」の甘い言葉と卑怯な香りが強引に誘い、6畳をぐるぐると何度も歩かせ、悩ませる。もう2人はいない。


そのパン屋の隣にはコンビニがある。パンを買うと、これまた無条件にコーヒーを買う。

コンビニのコーヒーは、100円では申し訳ないほど旨い。機械がコーヒーを淹れると、ふんわり香る。やがて香りは「最初から何もありませんでしたよ…」と雅に消え、私はたぷたぷの紙コップを手に立ち去る。


カレーパンとメロンパンが入った最強のエコバッグ、フタがぎこちない紙コップを手に、公園へ向かう。これもお決まり。自宅を目指すと、焼き立てのパンも淹れたてのコーヒーも冷めてしまう。

木々に囲まれた公園は多くの学生が訪れ、季節によって香りが異なる。春は桜、夏は緑、秋は汗、冬は空気。どの季節も愛おしい。木々の見た目も異なり、桃色や緑や黄色で楽しませてくれる。

この時期は枝がとにかく美しい。芸術品とも思える枝は、何度見ても飽きない。空が澄んでいる日は特に美しく、惚れ惚れする。

枝に見惚れていると、しめしめと思わんばかりに、鳩が近寄ってくる。狙うは間違いなくパン。香辛料の強いカレーパンと、ふわっと甘いメロンパン。しかも1つは焼き立てだから、鳩もさぞかし香りに釣られたであろう。


コーヒーが冷めぬうちに、パンを頬張る。なんともいい香り。もはや香りごと食べている。冬の朝は空気が澄んでいて、特に美味しく感じる。

パンの噂を聞きつけたのか、香辛料を嗅いだのか、鳩はどんどん増え、3羽から7羽、15羽、今は30羽を超えている。固い意志で2つを平らげると、「食べきった人間に用はない」と告げるかの如く、鳩は一斉に飛び立った。


ベンチで優雅に朝食を食べたら、公園をぶらぶらと歩く。

澄んだ空気を精いっぱい嗅ぐと、浄化されたような気分になる。やがて土の匂いがして、ちらほらと顔を出している椿が見える。出歩く人が少なくなっても、椿は誰かが手入れし、きれいに整っている。

見知らぬ誰かに感謝をしつつも、寒さは容赦ない。帰路につく。


帰路では、一軒家から何やら美味しそうな味噌の香りがする。味噌汁か、豚汁か。遅めの朝ご飯か、お昼ご飯か。

コインランドリーからは、たまらなく好きなあたたかい香り。コンビニの駐車場では学生2人がチキンを頬張り、オープン間もない喫茶店からはコーヒーが漂う。

銀行の前では車が停まり、ほんのり煙の香り。ラーメン屋の前を通ると、先ほど満たしたはずの食欲を叩き起こされる。スーパーはちょっと賑やかな、人混みの香り。


帰宅して玄関を開けると、どこの家とも違う、落ち着く香りが迎え入れてくれる。衣服や食事や家具が入り混じった、絶妙なバランスを保った香り。

夫は旅行から帰ると、毎度のように「結局、家が一番」とつぶやく。数年旅行できない日が続き、私も最近になって家が一番と思えるようになった。

ドリップで淹れるコーヒー、トースターを開けなくても分かるガーリックトースト、2人だけの自宅焼き肉、忘れた頃に焚く旅行で買ったお香、お気に入りのハンドクリーム。どれも、かけがえのない香り。



香りは、人の生活をあらわしている。

身近なコーヒー、洗濯物、パン、ご飯、煙、汗。他にも、洋服屋に行けば洋服の香りがするし、書店に行けば本の香りがする。

人が住む周辺の自然は、誰かしらが手入れしていることが多い。アパート1階の花壇も、スーパーの敷地内にある木や草も、公園の芝生も、誰かが世話をしている。木や花や草も、人の生活の一部といえるだろう。数年、金木犀は一軒家の庭先でしか嗅いでいない。


今はなかなか嗅げられない、飲み屋街の香りも好きだ。お酒や焼き肉、魚介類、ラーメン、うどん、稀にたこ焼き。店員さんにお客さん、いろんな人が行き交い、香りに混じり、私はその中を夫と歩く。

他にも、何串も頼んじゃう安くて旨い焼き鳥屋、店頭のみたらし団子、行列で飲めなかった老舗の抹茶、カピバラと距離が近い動物園、広々とした天然温泉、故郷宮崎の実家。どれも恋しく、今すぐにでも会いたい香り。



香りのある風景を、残したい。

ウイルスで世界は一変してしまって、そばにある何気ない香りは、脆いのだと知った。人の流れが止まると、香りもしない。残念ながら、お気に入りのパン屋は閉店した。

人が集う場所は、香る。学校でもお店でも家でも、人が増えると何か香る。

未来がどうなるか分からないけど、私が好きな香りはどうか残ってほしい。何気ない、愛しい、数々の香りたち。


私にできることはちっぽけだけど、今もたまには散歩して、いろんな香りに包まれながら前に進んでいる。ラーメン屋が再開したり、喫茶店がテイクアウトを始めたりするのを見て、どこか心強く思う。

香りを残したい一員として、洗濯物を干しては嗅ぎ、コーヒーを淹れては香りに酔いしれ、どこかへパンを買いに行きたいと、カレーを煮込みながら考える。



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