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三島由紀夫氏はなぜ自決したのか?『文化防衛論』から解明する 《その3》

★『豊饒の海』なぞの結末を解明する⇒ YouTube動画 です。note記事は、.アラヤ識
★『文化防衛論』YouTube動画⇒【1】【】【. まとめと結論
この記事とは編集が異なって、正確な論理よりも、全体の把握をめざし、
この記事の後半部分で述べる、新たな視点は省いています。
まず動画をざっとご覧いただいて、記事《1》~《4》セットのマガジン、
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⇧《》で、三島氏がその芸と生き方を絶賛した玉三郎丈。日本文化の再帰性主体性を体現された芸術家、その具体像にふさわしく存じます。舞踊「鉤簾の戸」、ナレーションが英語の動画に拠りますが、出典が不明確で、引き続き検討します。
中は「楯の会」の徽章がはっきりした写真。兜をモチーフに、氏自らデザインの原案を描かれました。武士の鎧兜として、隊員に制服制帽をつけさせた。武士の魂を受けつぐ決意を感じます。

ちくま文庫2006のページを【頁】で示しながら読解します。
》では、三島氏が『文化防衛論』に書かれた「自決への論理」を、氏ご自身の言葉によって追いました。「菊と刀」の永遠の連環、その文化を再生する。そのために武士の魂、強さの美を復活させる。
死して連続させる文化の生命。決して軍国主義への逆行などでない、と明らかにできたかと存じます。

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★1 論理でない、死への情念、衝動・・・

しかし、・・・論理だけで人は死ねるのか死への決断には、心情、情念、論理でつくせない衝動が、あるはずです。それを次稿『豊饒の海』で論じて、文武両道、国際社会に樹立する美、文学と音楽が一体のエクスタシーと述べます。ここでは『文化防衛論』の死への論理、日本文化の再生を、ロジカルに追究します。
⇩左は、行定勲監督の映画「春の雪」2005東宝。この名作が書かれて 38年後の初めての映画化でした。中は第二巻『奔馬』、右は第三巻「暁の寺」の舞台、バンコク(RobertHandinglmages)。

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》でふれた、当代きっての名優らと三島が競演!した映画にも、死への憧憬は色濃くあります。その衝動の源は、若い男は戦争に行って死ぬのだと、美しい人生とはそれだと、すべての日本人がそう言った戦時中、昭和6年から満州事変、12年から日中戦争、20年の敗戦と、幼時からずっと戦争とともに育った、人格形成期にあった、と私は考えます。

若い男、健康な男は皆、理科系の学生を除いてほぼ全員が戦地に赴き、市民は日の丸の小旗をふって、熱狂して若者を送り出した。そんな日本で、身体が弱くて将兵として使いものにならず、しかし文学の才と感受性にすぐれて秀でた若き三島は、どんなに悩んで人生に苦しんだか。

東西の文学に親しみ、あらっぽい男の子の遊びを祖母から禁じられたから、なのですが、物語の魅力に心を踊らせた幼い日々。文学が、少年となった三島の心をとぎすませて、戦死した英雄を誉めたたえる現実の世界を、鋭く深く感受させた。軍国主義。美とは戦死。そんな「菊」の優雅を絶った欺瞞 (ぎまん)と偽善。【48頁】

苦痛にのたうつ死が、なぜ美なのか小さな瞳は、美と死、英雄の勇ましさと恐ろしさを、じっと見つめた。

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⇧出征する青年将校を、おそらく在郷軍人会々長が激励する。家族のこの表情をご覧頂きたい。(鎮魂の旧 大日本帝國陸海軍) 右はどうか?見送る父母、妻と子、小さな弟妹たち。(OBON SOCIETY) だがそれが当時の日本だった。だれのせい?他人のせいか?いま、私たちはどう生きるべきか?

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そうして戦場に送った兵士の、三割が生きて帰らなかった。悲愴、この無念をどうする? 他人のせい、軍部や政府のせいか?自らの強い力によって今、このたった今からの生き方、日本の文化を創造すべき、でないのか?
⇧左は、日本財団 図書館。右は、松茂町歴史民俗資料館

地方の町を歩いて墓地に行きあたると、立派な墓標に星がレリーフされて「帝国陸軍兵長・・・」と名がきざまれる、そんな光景によく出会う。子を喪った悲しみ、お国のため!と子をしのぶ思い。
昭和17年までに選挙が21回、男子のみながら普通選挙は6回行われた。民主主義、じゃなかったのか。自らが選挙した政治家による、自ら選んだ国策ではないか。他人のせいにする卑怯をなぜ恥じない。

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ヤルタ会談(Wikipedia)。東京に上陸した機甲隊(RAA)。

のちに『金閣寺』の項で述べますが、三島由紀夫の美は、死、禁と一体。《》で見た、バタイユ『エロティシズム』の哲学に通底します。日常の生活で、性そして死は、禁じられる。その禁に、大々的かつ組織的に違反するのが、エロスの狂宴そして戦争でした。

6歳から20歳まで戦争の時代、戦死を美とする日本で育った三島は、身体が弱くて勇ましい戦死はとても無理だとコンプレックスに悩み、社会への不適応に苦しんだ。だからこそ、英雄の美と死に、強烈にあこがれた。

強烈!だったから、敗戦して忘れさられた英雄、欺瞞と偽善があったにせよ「お国のために生命を散らして、私たちを守ってくれた」心からの感謝、そんな感謝と美による、英霊への崇拝を、捨てさった戦後の日本への違和感は大きかった。

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⇧靖国神社、wikipediaの社殿。右は2010年 奉納夜桜能、主催は ㈱フジテレビジョン。企画された ㈱ムラヤマ のHPより。『春の雪』冒頭の、日露戦争の写真を見るようで、神々つまり英霊へ献じられる芸、と心がこめられる。

靖国神社に今、一柱の神として祀られる英霊。人から神へ、その一線を超えさせた、決死の行動。

戦後の日常では、死そして戦争は、禁じられた。禁じられた死と性、『金閣寺』の美は、禁と一体で、バタイユは最深のエロティシズムが、一方では古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着すると言っていた。【74頁】この哲学よりも前に『金閣寺』は書かれており、三島は感性によって、この山頂をきわめたと思われます。

英霊の行動、崇拝される死。その美。死して連続させた、日本の国。この感謝を捨てさった戦後の社会は、謎のない透明な、モノとカネへの欲だけだ。【33頁】これでいいのか?政府や官僚のせい、他人のせいにして、それだけか?自らの生き方、日本の文化をどうする?三島の違和感の大きさは、当然なのでは。もう半世紀、三島の行動から逃げ回って、どうするつもりか? ⇩中は、敗戦直後に17歳で他界した令妹(wikipedia, 平岡美津子の項より)

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三島氏の令妹への思いは、ワーグナー「リング」四部作、またニーチェの生涯、それらと同一です。また、死をもって貫徹する恋、恋をもって貫徹する死。は、映画「憂国」のテーマで、そのセリフ無しの映画のBGMとされたのが、ストコフスキー指揮のオケだけの「トリスタンとイゾルデ」でした。

あまりにも真面目、どこまでも誠実。三島の文学を、心をこめて読み解けば、必ずや氏の魂にたどり着く。必ず答えて下さる!と確信して、努力を重ねる所存です。

しかし『文化防衛論』に、直接にバタイユの名が書かれないから、読者は???となりますね。《》で、自決への意志がカモフラージュされている、と述べたのは、この点なのです。

もし、昭和43年6月、自決の2年半前に世に出された『文化防衛論』が、バタイユを明示して「死をもって生を連続させる」「死と生が一体のエクスタシー」「自らを滅ぼして、永遠の文化を再生させる」と言ったなら、・・・どうでしょう。三島はいつ死ぬんだ この華やかな経済成長の、どこが悪いんだ  三島が言う文化など、ただの軍国主義だ と世間は大騒ぎしたのでは。

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⇧左は現在の「太陽の塔」(日刊工業新聞2018.2.6)。右は昭和45年、三島氏が自決した年の「太陽の塔」の夜景(なべさん)。未来を見すえる!眼光のこの鋭さは、中の氏と同一という気がします。

バタイユについて追記します。三島氏は『エロティシズム』の初の翻訳について評論を書き【『評論全集』Ⅰ巻505頁】、次に出された澁澤龍彦氏の翻訳を絶賛して、今日も演劇界で No.1 とされる戯曲「サド侯爵夫人」を出版するとき、澁澤氏に序文を依頼しました。近年、さらなる新訳が読めますが、三島先生と澁澤氏の交遊の深さからして、氏の名訳に敬意を表したく存じます。

》で見たバタイユは、ニーチェ、ハイデガーとともに、三島文学への登竜門と思われます。ここからまた『文化防衛論』を読解します。

★2 そして、異民族の問題・・・

『文化防衛論』は韓国、北朝鮮の民族について言う。戦後の日本にとっては、真の異民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題でありリフュジーの問題だ。日本国民内部の問題ではありえない。【62頁】

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令和の日本に平和と幸福を築く、三島先生のメッセージを解明したく存じます。続きをご覧頂き、コメント頂いたご意見、ご指摘の点から、三島文学を深めてゆく所存です。